第31話 大夜会を二人で①

 念入りに化粧をすると、部屋のクローゼットから、赤いドレスを出す。

 生地をふんだんに使い、細かな刺繍があちこちに施されているため、持つと結構な重量感があった。

 祖父がバラル州で作らせたものだ。

 コルセットをギュッと締め付け、何とか体に凹凸をつける。

 ドレスに肩を通すと、その柔らかな肌触りに、夢心地になった。

 鏡の前に行き、自分のドレス姿を確認する。


「そこそこ似合ってるよね……?」


 スカートをつまみ、広げてみる。

 上品な光沢のある生地が、控えめに輝き、思わず口元が綻ぶ。

 ドレスってこんなに女性をうきうきさせるんだ、と実感する。

 王宮に勤めるものたちが与えられる寮は一部屋が狭く、ドレスの裾がベッドと机に当たってしまっているが、頭の中には一月前に見た大広間の映像が広がる。

 大夜会は正直気が引けているが、ドレスを着れば日常とは違う、別の世界に自分を連れて行ってくれる気がして、計らずも心が躍る。


 今夜私は、王宮で仕事を黙々とする魔術師ではなく、ひとりの女性だ。


 大夜会の時間が迫っていた。

 窓の外を見ると、中庭を歩いてくる人物が目に入った。

 どきんと、胸が熱くなる。

 薄暗く狭い道を歩いていようとも、それをガラス窓越しに見ていようとも、十三歳から毎日見ていたその姿は、上からの角度であっても私には一目で誰か見極められる。

 精悍な出で立ちで寮に向かってくるのは、私を迎えに来たギディオンだった。身だしなみをいつも以上に整えている。


(ギディオン、すっごく正装が似合っていて。いやだ、素敵……)


 あのギディオンを見て、不覚にもドキドキしてしまう。

 興奮して吸い込みすぎた息を、胸の中からそっと吐く。ドレスを着ると、どうも気持ちがうわついてしまうようだ。

 落ち着くよう自分に言い聞かせつつ、寮の正面玄関まで向かう。


 彼は寮の玄関を出てきた私を見るや、少し驚いた様子で近寄ってきた。

 ギディオンはぱりっとした光沢のあるグレーのジャケットを纏い、艶のある金髪を綺麗に後ろに整えている。


「あの、このドレス、おかしくないかな……? いつもローブばかりだから、似合ってないかも」


 照れ笑いをしながらそう問うと、ギディオンは首を高速で左右に振った。


「そんなことない。リーセルがドレスを着たところを初めて見たから、びっくりしたよ。すごく綺麗だよ、リーセル」


 褒められてさらに照れてしまう私の手をギディオンが取ると、寮の建物を離れて王宮の建物群の中心部に向かって歩いていく。

 女官達に途中ですれ違うと、彼女たちはうっとりとギディオンを見上げ、その直後に私を見て目を剥いた。

 近衛魔術師の私がドレスを着ているのに驚いているようで、信じられないといった様子で目を丸くして口をアングリと開けて見てくるので、恥ずかしい。


 ギディオンは私の手を引き、王宮の一番大きな建物に入り、またすぐに中を抜けて回廊に出てしまった。

 このまま進むと、大広間に行けない。

 大広間はこの建物の中にあるのに。足を止めてギディオンに注意を促す。


「こっちじゃないわ。さっきの角を曲がらないといけなかったのよ」

「いや、こっちだよ。――ついてきて、リーセル」


 違う、そっちに進んでも大広間にはどうひっくり返っても行けない。それなのに、ギディオンは私の手をしっかりと握ったまま、強引に歩き続ける。


(な、何? どこに行こうっていうの?)


 私たちは外に出ると小道を進み、やがて庭園に出た。

 花壇や芝の絨毯を突っ切り、どんどん進む。


「大広間から離れているわ。――大夜会が始まっちゃうわよ、ギディオン!」


 大きい声で抗議をすると、庭園の端近くの木立の前でやっと彼は立ち止まった。


「ここで、君と踊りたいんだ」

「ここで?」


 思わず辺りを見渡す。

 庭園の向こう側からは、大広間のバルコニーが見えた。大広間の煌々とした明かりは、バルコニーの先までのび、シャンデリアの光の下で宝石のような男女たちが集っている。

 大広間は人でごった返し、明らかに小夜会の時よりも人口密度が高くなっていた。バルコニーの外にも椅子やテーブルが並べられ、仮設の舞台で音楽隊が弦楽器を鳴らし始めている。調弦をしているのだろう。


「ギディオン。どうしてあっちに行かないの?」


 訳が分からず尋ねると、彼は右手を私に差し出した。


「どうしても、ここで踊りたいんだ。少し小さいけれど、演奏も一応ここまで聞こえる」


 耳をすませば、ちょうどワルツが始まるところだった。


 ――ああ、そんな……。これは、「青いライヒ川」だ。

 懐かしい思い出のその曲に、胸が締め付けられる。しかもよりによって、この場所で。動揺を見られたくなくて、視線が上げられない。

 一度目の人生を生きていた私が、かつてダンスの相手をさせようと抱きついた木が、きっとこの近くにある。


「ほら、こっちを見て」


 ギディオンは私の両手を掴むと、強引に体を引き寄せた。腰を押さえられ、右手を繋がされる。


(何するのよ、ギディオンのくせに……!)


 抵抗の間も無く、彼は大きくステップを踏み始めた。たいしてダンスが得意ではない私は、なんとか追いつこうと懸命に足を動かした。地面は所々盛り上がっているし、芝が敷かれているので靴のヒールが引っかかって動きにくい。

 そもそも木々を避けながらその間を進むのは、踊りにくいのだ。


 (ああ、こんなことが、前にもあった……)


 もう十年以上も前のことだ。

 でもあの日のことは、いつも鮮やかに思い出せた。キラキラと輝く、宝石みたいな思い出。

 たとえその後に何があったとしても、絶対に色あせない私の大切な思い出だった。

 でも一緒に踊ったのは、ギディオンじゃない。王太子のユリシーズだ。

 見上げると星空を背負うギディオンの顔が、ごく間近に見えて、その近さに平静ではいられない。

 近すぎる距離のせいで、心臓が跳ね上がる。 

 冷たかったはずのその碧の瞳で、私をそんなに愛しげに見つめないでほしい。

 やがてワルツの演奏が終わる頃。ギディオンが急に立ち止まった。


「ぅわっ!」


 彼の足に躓きそうになる。

 抗議をしようと顔を上げると、彼は不意に両手を私の背中の後ろで絡め、私を抱き寄せた。

 ギディオンの胸に顔が勢いよくぶつかり、慌ててのけぞる。

 私の化粧が、高そうな彼の服についてしまう――!

 だがギディオンはそんなことに構う様子もなく、首を傾けて自分の頰を私の頰に押し付けてきた。そのまま頬擦りを始める。びっくりし過ぎて、息が止まる。


(な、なに!? 恋人のフリだけで、ここまでする――???) 


 夜風に吹かれて冷んやりしていたお互いの頰が、すぐに熱くなっていく。もう、自分の心臓の音が聞こえてしまうくらい、ドキドキしている。


「ぎ、ギディオン! ちょっと、」

「リーセル、いつか本当の恋人になって」


 頰を押し付けあったまま、耳元で囁かれる。

 見上げた視界に入る木々の黒い枝葉と月のない夜空は、寒々しい景色だったが、胸の中にはギディオンと密着する体を通して、熱い激流が流れ込んでくる。

 ギディオンは頰を離し、両手で私の顔を挟んでじっと私を見つめた。

 愛おしげに注がれるその視線に、胸が苦しくなる。

 ――心が、震える。


 これ以上私に、踏み込んでこないでほしい。

 どうにか憎しみを抱いたまま、あなたを避けたいと思っている私の強がりを、萎えさせないでほしいから。

 そんな目で見つめられたら、恨み続けることができなくなってしまう。

 月の雫のように輝く金の髪が、夜風に揺れている。彫像のように整ったその顔は、かつて聖女の隣で悪意を持って私に向けられ、容赦なく私を地下牢へと追い込んだ。

 そのはずなのに。


「ギディオン、私たちは……」


 だがそんな彼の記憶を覆い隠すように、魔術学院の煉瓦の建物の前を颯爽と歩く、白いローブの少年の姿が私の脳裏に蘇る。 

 いつも学院の中心にいて、みんなを引っ張っていた少年。

 何回私が邪険にしても、袖にしても、彼の姿勢はひたすら折れなかった。

 このリーセルが出会ったギディオンには、何の罪もない。それどころか、こんなにも素敵で、私の胸をときめかせる。――いや、違う。ときめいてなんて、いない。ときめいて良いはずが、ない。

 ギディオンは額を私の額に押し当てた。近すぎて目を背けたいのに、目を逸らせない。まるで何かの魔術にやられてしまったみたいに。

 彼はそうして囁くように尋ねてきた。


「キスしてもいい?」


 心臓が暴れすぎて、言葉を声に出せない。


(断らなきゃ。だって…)


 キスなんてすべきじゃない。でも。

 私たちに別の過去があったとしても、今は十三歳からの、全く新しい関係を築いてきたし、それは無視できないほど大きかった。

 今だけ、この夜会の魔術にかけられたと思ってしまいたい。今夜だけは、一度目のギディオンに、目をつぶろう。


「リーセル?」


(今夜だけ。今だけよ、リーセル)


 少し震える声で返事を促され、言葉ではどうしても答えられなくて、代わりに小さく首を縦に振る。

 ギディオンは両手で私の頬をしっかりと挟み、くっつけていた額を離すと首を傾けて私の唇に視線を落とした。

 そのまま彼の顔がさらに近づき――、私はそっと目を閉じた。

 熱く優しい口づけを期待していた私は、いつまでも降ってこないキスを待ちぼうけ、やがて薄目を開けた。


(ギディオン? どうしたの?)


 私たちの唇が触れ合う寸前で、彼の動きが止まっていた。碧色の瞳は何度も瞬いて、やがて彼は辛そうに眉根を寄せた。そうして、呻くように漏らした。


「この顔で、君とキスをしたくない……」


 聞き間違えたのかと思った。


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