第26話 王太子の見た悪夢

 砦周辺の大地は焦土と化していた。

 全てが灰色に変わり、一面にススが漂う。空気は煙で濁っており、呼吸のたびに咳が出て止まらない。

 自分の率いる魔術師団が敵陣を焼き払い、この地を奪い返したのだ。あと一つ、砦を落とせば国に帰れる。


(あと一つ。あと少しだ。――そうすれば勝利を収められ、父上もお喜びになる)


 同盟国であるこの国は、防波堤のような存在だった。決壊させれば、自国に被害が及ぶのは必至だ。本来ならそれほど手こずるはずがなかったが、同盟国側のいくつかの隊が敵側に突如寝返り、思わぬ苦戦を強いられた。

 だが、もはや勝利は見えている。

 レイア王国には有能な魔術師が多い。魔術師への専門教育機関があり、その強大な魔術師の軍隊を擁するレイアに、怖いものはない。

 国の為に。いや、何よりこの功績がこの手に欲しい。それと引き換えに、どうしても父親を説得しなければならなかった。


(リーセル。これで、私たちの未来が切りひらける。君を、本当に待たせてしまった)


 どれほど彼女をやきもきさせたことだろう。不安にさせてしまったことだろう。


「陛下は聖女様を王太子妃にと、お考えのようです。あの……、私は身を引いた方がよろしいですか……?」


 震える声で彼女がそう尋ねてきた時。己の不甲斐なさを呪った。

 国王に命じられ、聖女と夜会で踊るたび、そして馬での遠乗りに付き合うたび、いかにリーセルの立場を不安定なものにしていたかを、思い知らされた。


(この戦に勝利してリーセル、君を私の妃にする……!)


 そして最後の砦を攻め込んでいた時だった。

 先陣を切って砦に雪崩れ込み、敵兵達と剣を交える。

 自分は魔術も使えるからと、わずかに慢心があったかもしれない。いや、功を焦ったのかもしれない。その油断が災いした。

 一瞬の隙をついた敵兵が剣を振り、左腕に激痛が走った。

 肘から先があらぬ方向にブラつき、ほとんど千切れそうになっている切り口からは、鮮血が吹き出る。

 その凄まじい痛みに、叫び声を上げた時、その場から放り出されたように景色が崩れ、意識が混濁する。

 あらゆる色に塗りつぶされたような、ぐちゃぐちゃの意識の中、気づけば辺りは無音だった。

 馬の蹄の音も、甲冑と剣がぶつかる金属音も、兵達の声もしない。

 混乱しながら目を開けると、そこは静寂の中にある自分の寝室だった。


(腕は、腕はどうなった――!?)


 弾かれたように右手で左腕の袖をまくり、確認する。そこには傷一つない、ただ汗だくの自分の腕があった。


(夢か。またあの夢を見たのか)


 我が身が今は戦地にないことを安堵すべきなのか。

 昼過ぎに王宮から実家のランカスター家に帰宅したが、目が覚めると既に夕方になっていた。

 カーテンの隙間から、オレンジ色に染まる空が見える。思ったより長く寝てしまったようだ。

 中途半端な時間に昼寝をしてしまったせいか、起き上がると気分はとても悪かった。汗でべったりと張り付くシャツが気持ち悪く、ボタンを片手で外していく。

 寝台に腰掛けたまま、何度も重苦しいため息をついてから、乱れた髪を後ろに撫で付ける。

 視線を巡らせて室内を見渡せば、黄色のランカスター家の紋章が入った水色地の壁紙が目に入る。

 久々に戻った実家の部屋であり、国立魔術学院の寮に入るまでを過ごした見慣れた寝室だ。だが、ギディオンはこの空間が大嫌いだった。

 かつて悪夢から目覚め、そして新たな悪夢が始まった寝室だからだ。


 スプリングのバネを軋ませ、寝台から立ち上がる。そのままゆっくりと部屋の隅にある姿見に向かった。

 長方形をした銀縁の大きな鏡に、自分の全身が映る。

 煌く金色の髪に、碧の瞳。


「ギディオン・ランカスター。……なぜだ。私は、なぜ『お前』なんだ。――よりによって!」


 呼吸が荒くなり、歯を食いしばる。

 鏡の中から見返す自分は、間違いなく美しいといっていい顔立ちをしていたが、これは自分が最も憎しみを抱く男の顔でもあった。

 王宮魔術師、ギディオン・ランカスター。この男はやっとのことで勝利を収めたあの戦地に彗星の如く現れ、恐ろしい事態が進んでいることを、自分に教えた。


「殿下の恋人のリーセル・クロウが、裁判にかけられましたよ」


 国王はこの情報が、絶対に王太子の陣営に伝わらないようにしていたという。だがギディオンは身の危険を犯してまで、それを知らせに来た。


「このままではもう、処刑を避けられません。時を戻し、未来を変えましょう。私はアイリスを手に入れ、殿下はリーセルを今度こそ、妃に。私達二人以外の者達は、当然ながら時が戻れば一切を忘れます。全てがなかったことになるのです」


 ギディオンは確かにそう言った。

 そうして時は戻ったが、なぜか自分は別人として目覚めた。このランカスター家で。


 こんなことになるはずが、なかった。『三賢者の時乞い』は、時間を巻き戻すだけのはずだった。少なくとも王太子は、そう認識していた。

 まさか自分がギディオンになってしまうなど、想像すらしなかった。

 鏡に映る己の姿を拒絶しようと、まぶたを固く閉じればその裏に蘇るのは、黒髪の少女の顔だった。


「リーセル……」


 彼女を初めて見た日のことを、よく覚えている。


 王太子として生きていたあの頃。忙しく王宮の回廊を歩いていると、一羽の蝶を見つけたのだ。

 水晶のように透明なのに七色に輝く、魔術の蝶だった。回廊の向こうに視線を向けると、建物の上からひらひらと数羽の蝶が飛び出して来ている。


(この王宮で、誰があんなものを?)


 王宮では魔術は力を誇示するために使うものだ。

 舞う蝶などを作り出した魔術師は、一体なんのつもりなのだろう。王太子は思わず出どころを追いかけた。

 狭く暗い倉庫の隙間を通り抜けると、そこはゴミの集積所があった。

 こんな所に初めて足を踏み入れた王太子は、思わず鼻を塞いでしまう。

 王宮中のゴミが集められるそこは、悪臭が漂っていた。

 にもかかわらず、下働きの多くの女性や子供たちがせっせと汚い桶を洗ったり、ちらばったゴミを掃いている。

 絢爛豪華な王宮の、貴人には目に触れない陰の部分。

 その一角に、妙な人だかりができていた。

 大勢の笑顔の中心にいるのは、一人の紫色のローブを着た魔術師だった。その近くにいる少年が、はちきれんばかりの笑顔で強請る。


「ねえ、お願いだからもう一回やって。さっきの蝶々を出してよ!」


 その時、魔術師が少年を振り返り、王太子にもその顔が見えた。

 魔術師はまだうら若い少女だった。艶のある長い黒髪に、実に印象的な紫色の瞳をしている。


 魔術師は両手を広げて、掌を上に向けた。

 ゆっくりと息を吸い込み、目を閉じる。魔術を操る前に、心を落ち着かせているのだろう。

 そうして彼女は空中に存在する水の根源たちに、呼びかけた。


「集え、水たちよ。集まりてその姿を見せよ」


 彼女が目を開けると、漂う湿度が水の粒となり、くるくると旋風になりながら両掌の上に集まり始める。

 粒はやがてぶつかり合って、透明な蝶となっていく。


「色をつけて! 魔術師様! 透明だと、よく見えないもん」

「綺麗な色にして〜」


 周囲の興奮する声に応えるように、蝶は少しずつ色付いていく。

 ピンクやエメラルドグリーン、中には金色の蝶まで。

 調教師にでもなった雰囲気で、魔術師が両手を上に向ける。すると百匹近い蝶達は、ひらひらと羽ばたいて暗く湿ったゴミ集積所に広がった。

 色とりどりの蝶たちが、時折その身を半透明に輝かせながら舞う。


「お見事です、魔術師様! 本当に綺麗……」


 皆が感激したように胸元を押さえ、蝶たちを見上げている。

 王太子はいつの間にか、塞いだ鼻から手を離していた。そして、倉庫の陰から、蝶を見上げていた。

 羽ばたく蝶たちは、万華鏡にも見えた。輝く王宮の最も薄汚れた、隠された暗部のような場所に、七色に舞う蝶が夢のような景色を与えている。

 これほど美しいものを、初めて見たと思った。


 王太子は翌日も、同じ時間にゴミ集積所に行ってしまった。

 魔術師が毎日こんな所で、仕事の合間に(時間を考えれば、おそらく彼女は昼食時間を削ってここに来ていた)魔術を披露しているのかが気になったのだ。

 予想通り、魔術師は毎日来ていた。

 魔術など見たこともない下働きの者たちに、せがまれるまま自分の魔術を見せ、喜ばせていた。

 いつしか王太子はそれを見るのを楽しみにしていた。彼女の魔術ではなく、彼女自身を見るのを。

 そしてあの夜。夜会を抜け出した夜。

 庭園の木を相手に、ダンスをする彼女と出会ってしまった。

 愚かしいことに、王太子はその木になりたいと思った。

 だから思わず彼女に声をかけ、言葉を交わし、名を尋ねて……。


 王宮の片隅で、名もなき者たちに小さな喜びを与えていた少女は、王太子の最愛の人になった。


「君を、守れなかった」


 は、鏡の前で呻いた。

 彼女を妃にする為に、隣国で戦ったはずだったのに。だがこの国は彼女を処刑場に送り込んだ。

 挙句に、この結果はどうだ?

 鈍い痛みが胸を襲う。


 彼女の命を守る為に、時を戻した。 

 未来を変えたかった。

 だが目が覚めると、自分はこの水色の壁紙の部屋にいたのだ。

 ランカスター公爵の嫡男の少年として。


 驚いた彼は、遊び相手として連れて行かれた王宮で、かつての自分の姿王太子をしたギディオンに詰め寄った。

 だが、『発議者』であるはずの彼は言った。


「何を言ってるのか、さっぱりわからない。お前は頭がオカシイんじゃないか?」


 六歳の少年が、「僕は本当は王太子だ」などど主張しても、誰も耳を貸すはずもない。

 もう一度、人生をやり直したかった。――だが、まさか別人として生まれ変わってしまうなんて。

 もしかしたらこれは時を戻そうなどと考えた、愚かな自分への神の罰なのかもしれない。




 こうしてこの日から、全く別の少年の人生を歩まねばならなくなった。

 見知らぬ屋敷と、突然両親となった公爵夫妻。そして初めて見る侍女達。右も左も分からない。

 今の自分からはリーセルがあまりに、遠かった。

 十代になると、自分の両親が婚約者候補を選び始めた。そして当時その最有力候補が、隣家のアイリスだった。

 耐えきれず、急いでバラル州に向かった。

 魔術を繰り出し、森の中で水の鳥を飛ばす彼女の姿を見た。手の中には、「魔術学院模擬試験」と書かれた参考書を抱えている。もうじき、リーセルは魔術学院を受験するのだ。


 そうして無理矢理出会いを演出し、彼女と知り合った。

 彼女の進学先を聞き出し、距離のあった自分たちの人生が重なるようにした。クラスメイトの一人として、彼女と交流を深め、あわよくば恋人になりたかった。

 この顔の男とリーセルが結ばれるのは、抵抗があるが。


 ところが、だ。

 魔術学院での彼女は、まるで兎が鷹にでも出くわしたかのように、自分を避けた。

 成績表が張り出された廊下で、「二位:リーセル・クロウ」の文字を彼女が見つけた時は、いつも酷かった。部屋の隅にわいた害虫でも見るような目で、自分を睨むのだ。

 一度「あんな奴に負けた。あの憎たらしいギディオンに」と口走っているのを聞いてしまったことさえある。聞き間違えたかと思った。

 槍の授業での初めてのジョストでは、対戦する時に彼女から「殺意」すら感じた。

 卒業パーティに誘った自分を見つめる彼女の顔ときたら。「困惑」どころか、「迷惑」と額に書いてあるようだった。

 マックとシンシアが気を利かせて自分とリーセルを二人きりにしてくれた時。頬に思わずキスをしてしまったが、彼女の反応は予想以上に悪かった。あからさまな嫌悪に満ちた顔で、仰け反って避けられた。

 その上、ギディオンが握った手を、彼女は困惑しきりで振り払った。その瞬間、自分の心までも振り払われた思いがした。

 彼女といつも三人組でつるんでいるあのマックも、どうも自分を煙たく思っているようだった。だがマックはどうでもいい。問題はリーセルだ。


 他の全ての人たちと同じように、リーセルに前回の人生の記憶はないはずだ。

 自分には剣でリーセルの胸を貫いた感触が、今も生々しく右手に残っていた。

 見上げた紫色の瞳が、驚愕と絶望に見開かれる様も。

 王太子じぶんに刺されて死んだ記憶があるなんて、考えるだけで恐ろしすぎる。


 できるだけリーセルに嫌われないように、そしてできれば彼女が大切だと伝わるように接してきたつもりだった。それなのに、全て裏目に出てしまっている。


 槍試合の授業では盾が破れようが、槍が折れようが、落馬するまで試合を続けなければならない。

 手加減していては、リーセルを何度も槍で突き、痛めつけてしまうことになる。

 そんなことはしたくない。

 だからこそ、一発で落馬させようと、本気で突いた。

 それがいけなかったらしく、力の差を見せつけられたリーセルに余計に嫌われることになった。

 本当は槍の先を向けることすら、したくない。華奢な彼女が重い防具を着るのすら、見たくないのに。

 だが他の男が相手をすれば、リーセルを怪我させてしまうかもしれない。槍には怪我がつきものだからだ。


 そして、事態は急展開した。

 国立魔術学院の就職規定が権力によって変えられた時に、疑惑は確信に変わった。

 ――発議者だったかつてのギディオンに記憶がないというのは、嘘だ。

 挙げ句にリーセルが近衛魔術師に任ぜられてしまった。 

 子どもに過ぎなかった今のギディオン・ランカスターが、魔術師二人分の力を手にして、魔術学院で名を上げていくに連れ、王太子の中にいるギディオンは心配になってきたのだ。

 だから人事を利用して、暗に伝えてきたのだ。下手な真似はするな、リーセルの生命は、自分が握っているのだ、と。


「君の髪の色が好きだよ」


 そう言って褒めた時、自分に向けられた彼女の紫色の瞳が嬉しげに輝いていたのを覚えている。可愛らしい頬を、上気させていたことも。


「私は、殿下の優しい栗色の髪が大好きです」


 栗色の髪の毛が好きなのだと、何度も言っていた。

 髪の色すらも、今の自分がリーセルに愛されることは、きっとない。

 そう思うと、激情を止められなかった。


「なぜ、なぜなんだ!! どうしてこうなった!?」


 握りしめた拳が、目の前の金色の髪の男に振り下ろされ、ガシャン、という音とともに男が粉々に散る。

 指輪に当たった破片が四方にとび、頬を熱とともに掠めた。

 生ぬるい血が頬を滴り落ちる。


「ギディオン!! 何してるのっ!!」


 誰かが部屋に飛び込んできて、黄色い叫び声を上げたのは、その直後のことだった。

 柔らかなアイリスの体がぶつかってきて、ギディオンの右手を必死に押さえる。

 続けてギディオンの顔を見上げたアイリスの蜂蜜色の瞳が、驚愕に見開かれ、彼女は再度叫んだ。


「お顔が、お顔にお怪我を!」

「大丈夫だから、騒がないで」


 だが美貌のギディオンが顔に傷を負うなど、アイリスには絶対に認められない。

 アイリスが震える手で押さえる彼の右手は、鏡の割れた破片で血塗れで、その欠片が傷に入り込んでいる。


「いや、こんなの、イヤっ!」


 アイリスは混乱と焦りで震えた。

 どうにか治さなければ。

 ギディオンの傷を、元の通りにしなければ。

 アイリスはどくどくと脈打つ全身の血が、熱くなるのを感じた。ギディオンの手から溢れる血を拭い、ガラスの破片を取り除きながら、神にすがるような思いで心の底から、全身で祈った。


「ギディオンの傷を、治したいの!」


 その瞬間、ギディオンがはっと息を呑んだのがわかった。直後、「やめるんだ、アイリス」と彼は叫んだ。だが遅かった。

 アイリスは少なくとも今まで魔術を学んだことはなかったし、魔力は持っていないと思っていた。魔術書など、読んだこともない。けれど頭の奥に、その術式が隠されていて、傷の治し方を知っている気がした。

 理屈抜きに本能のまま、アイリスは体の奥底に感じ取れたそれを必死に探し、辿って引き出した。

 体全体があたたかくなり、指先から柔らかな黄色い光が揺れて出るのを、アイリスは不思議な気持ちで見ていた。光はギディオンの手の傷にまとわりつき、なぞるように明るく埋めていく。その光が収束していくと、傷は何事もなかったかのように塞がっていた。


「傷が……?」


 アイリスは傷のあったギディオンの手の甲に触れ、そっと擦ってみた。そこにあるのは血の痕だけで、肌は滑らかにもと通りになっている。

 騒ぎを聞きつけたのか、その頃には周囲に侍女達が集まっていた。


「――アイリス様が、治癒術を?」

「奇跡よ……」

「これは……、まさか」


 聖女の出現よ、と侍女たちが口々に囁く。その光景を疎ましげに見上げるのは、ギディオンだった。その頰にまだ残る傷をどうにかしなければ、とアイリスが手を伸ばす。

 二度目は簡単だった。

 アイリスの指先からほとばしる淡い光が、ギディオンの傷を塞いでいく。

 慈悲の光だわ、と侍女の一人が感激の声を漏らす。


 レイア王国に百年ぶりに登場した聖女発見の瞬間だった。

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