第17話 王太子との出会い
――かつての私は、このレイア王国の王宮で働いていた。
王宮の夜は長い。
とりわけ夜会シーズンの夏の夜は。
王宮の夜の庭園にいると、風に乗って管弦楽団の優雅な演奏が聞こえるものだった。
あれは、王宮魔術師として王宮に勤め始めて二ヶ月ごろのことだった。
下っ端中の下っ端として、朝から晩まで上司にこき使われた私は、へとへとの体を引きずるようにして、寮のある棟へと歩いていた。
王宮は広大で、沢山の建物から成る。
近道をしようと庭園に出て、綺麗に刈り揃えられた芝生を歩いていた時。
煌々と光る大広間が視界に入った。
ここからは随分と距離があるけれど、その賑やかな声や音楽がこちらにまで届く。
豪奢なドレスを纏った貴婦人たちが集い、居丈夫な紳士達とダンスをしている。演奏家達が飴色に輝く楽器の弦の上に、軽やかに弓を滑らせている。
大広間の燦然と輝く光を浴びて、バルコニーまで明るい。そのバルコニーにはグラスを手にした若い男女が数組いて、頬を寄せ合って何やらお喋りをしている。恋人同士だろうか。
「あれが王宮の夜会かぁ……」
いつ見ても、華やかだ。
私の身分では招待されることはない。
思わず自分の服装を見下ろす。
頭から爪先まで、濃い紫色の長い無地のローブだ。魔術師なのだから、仕方がない。
肘から下げる鞄も、仕事道具である分厚く重たい魔術書を入れた地味なものだ。この仕事に誇りを持っているけれど、やはり絢爛な夜会に憧れはあった。
広い芝生の庭園を挟み、視線の先には別世界が広がっている。同じ王宮という中にある、異世界だ。
(あの中で踊るのは、どんな感じなんだろう?)
蝶のようにドレスの裾を広げ、くるくると舞う貴婦人たちの目には、どんなものが映っているんだろう。貴公子たちと手を取りあい、演奏に合わせて踊るのはどんな気分がするのだろう。
そんなふうに思いを巡らせていると、自然と体が動いた。
鞄を芝の上に置くと、近くに立つ木の幹に片手を添え、お辞儀をしてから淑女になりきり、言ってみる。
「まぁ、私でよろしいんですの? ええ、喜んでお相手致しますわ」
小枝に左手を添え、右手で幹に抱きつく。
顔を上げるとその瞬間、頭上にあった小枝が額を直撃し、しゃがみこんでその痛みに悶絶する。暗いので見えていなかった。
「うう。恥ずかし…」
ふぅっとため息をつく。
「いいなぁ。あんな風に素敵なドレスを着て踊れたら、どんな気持ちになるんだろう?」
「上っ面だけのお喋りと、蹴落とし合いに辟易すること間違いなしだな」
唐突に後ろから話しかけられ、私は短く叫んだ。
急いで立ち上がると、木の後ろには予想もしない人物が立っていた。王太子のユリシーズだ。
赤地に金糸の刺繍が施された衣をかっちりと着こなし、夜風に柔らかそうな栗色の髪を靡かせている。
王太子を王宮の中で見たことはあっても、直接会話を交わしたことはない。
「で、殿下! なぜここに…」
王太子は夜会に参加しているはずじゃないのか。
困惑して見上げていると、彼は首を傾けて私を覗き込んだ。
「おまけに君ほどの美人ともなれば、皆が寄ってたかってダンスを申し込みに来て、順番に並ばせるだけで大変になるな」
「何を仰いますか。ご冗談を」
「魔術師も夜会に憧れるとは、思っていなかった」
魔術師にだって、乙女心はある。
すると王太子は悪戯っぽく笑った。
「私で良ければ、ダンスに付き合おうか?」
「け、結構です! ダンスには興味ありませんから!」
王太子は声を立てて笑った。おかしそうに、目を踊らせながら。
「さっき、相手がいなくて木に頼んでいたのに」
「見てたんですか!!」
恥ずかしいのと、からかわれた悔しさでワナワナと震える。
「しかも枝で振り払われて、邪険に断られていたね」
「所詮は木ですから! ちょっと真似事をしてみただけです!」
恥ずかし過ぎる。その場を離れようと片膝を折って「御前、失礼します」と言いかける。
「待ちなさい。そうだな、木には君の相手ができない。だからここに丁度いい相手がいるじゃないか。からかってしまったお詫びに、踊ろうか?」
王太子はそういうと、楽しげに茶色の瞳を踊らせて、私に手を伸ばした。
――遊ばれている。完全に、おちょくられている。茶色の瞳は実に楽しそうだ。
しかもお詫びがダンスの相手とは、ちょっと恩着せがましいのではないか。
「結構です」
まだ痛む額を押さえて背を向ける。寮の方向に歩き出すと王太子に声をかけられた。
まだなんだろう、と振り返ると彼は私が地面に置いていた鞄を拾って差し出していた。
「忘れ物だ」
大事な魔術書をなくしてしまうところだった。慌てて受け取ろうと手を伸ばす。
王太子の手に触れては無礼にあたる、となるべく彼の手に当たらないように鞄の取っ手を取ろうとするが、焦って変な持ち上げ方をしてしまい、鞄を取り落とす。
「いてっ……!」
鞄が落下した直後、王太子が右足を持ち上げて顔を歪ませた。そのまま片足を上げたまま、ピョンピョンと跳ねている。――王太子の足の上に、落としてしまったのだ。
(大変!! なんて人の上に、なんて物を。魔術書は硬いし、重たいのに!!)
急いで膝をつき、頭を垂れる。
「申し訳ありません!!」
魔術書の角が直撃したのか、王太子は芝の上に座り込み、右足の甲をさすって悶絶している。
「医務室へお連れします! 私の肩におつかまり下さい」
そう提案して腕を伸ばすが、王太子は片手をヒラヒラと振った。
「いや、いい。これくらい、たいしたことない。――それに医務室になど行ったら、君が罰を受けてしまう」
言われてみれば、そうだ。伸ばしていた手をそろそろと下げてしまう。
王太子に怪我をさせたなどと知られれば、もしかしたら何らかの懲戒処分を受けてしまうかもしれない。
かといって見て見ぬフリをするわけにはいかず、王太子の正面でしばらくの間、彼の様子を見守った。
気がつけば大広間からの音楽がやんでいる。ダンスの休憩時間に入ったらしい。
「あの、殿下は今夜の夜会に出られていなかったのですか? なぜ庭園に?」
「夜会は嫌いでね。私は騒々しいことが苦手なんだ」
「――そういうものなのでしょうか。……楽しそうに見えます……」
「はたから見れば、そうかもしれない。だが実際はダンスなんて、面倒なだけだな」
明るい大広間を顎でさしながら、王太子は私を見た。幻想や憧れを壊して申し訳ない、と言いたげに苦笑して。
王太子はようやく痛みが収まったのか、足を押さえていた手をはなした。
再び顔を上げると、彼は不意に私に尋ねてきた。
「ところで、君には北部訛りがあるね。出身はどこの州?」
「バラル州から来ました」
「バラル州か。随分遠いところから来たんだね」
「緑のなだらかな丘が続く、綺麗な所ですよ」
「北の州にはほとんど行ったことがなくてね。いつ王都に?」
質問を受けて、私はバラルのことをペラペラとまくしたてた。王太子の隣に座りこんで。
私が貧乏令嬢で実家に仕送りをして、そこそこの苦労人だと何とか知ってもらって、同情を買って本を落としたことを許して欲しい、という打算もあった。
ひとしきり話し終えると、ワルツの演奏がまた始まったのか、音楽がきこえる。
王太子はふと目を閉じた。どうやら管弦楽器の音楽に耳を傾けているようだ。自然と体がリズムを取ったのか、左右に動いていた。
ちょうど曲は体がテンポに乗りやすい、三拍子なのだ。
「――やっぱり踊りたいな」
「大広間に戻られますか?」
「いや、ここで踊りたい」
王太子はそう言うと、にっと笑った。
いたずらっ子のようなどこか無邪気な表情に、目を見張ってしまう。
王太子は立ち上がると、右手を私に伸ばした。
「二度目に差し出される手は、同情でも良いから取ってほしいな」
殿下となんて踊れません、とすぐに断ろうと口を開く前に、王太子が続けた。
「君と踊れる私は、今夜このレイアで最も幸運な男だ」
「殿下…」
王太子がずっとこちらに手を差し伸べているので、私は少しだけ腰を上げた。
「でも、ダンスはお嫌いなのでは?」
「開放的な庭での舞踏は、大広間の夜会よりきっと楽しい。――さあ、ワルツが終わってしまう。はやく」
私は立ち上がりながら、その手を取った。
見つめ合って体を寄せたとき。その一瞬で、私は自分が未知のものに飛び込んだことに気がついた。
至近距離で私を見下ろす茶色の瞳から、目が離せなくなる。とりまく木々の緑や煌びやかな大広間の明かりは、途端に視界に入らなくなった。
右手をつなぎ、左手を恐る恐る王太子の肩にのせる。
ただワルツを聴き、その音に合わせて王太子と踊る。
ダンスの上手い下手など、どうでも良くなっていた。ただ目の前の王太子と、見つめ合って一つのことをするのが、信じられないくらい快感だった。
星空が、私達の動きに合わせてクルクルと回る。
夜空を背景に、彼の顔をひたすら見上げる。私の意識は星々に吸い込まれそうなほど、高揚していく。
音に合わせて一緒に回るたび、本当にそのまま体が浮いて飛んでいけそうだ。
何か話したい、と思った。
でも頭の中は舞い上がりすぎて何も思い浮かばず、私たちはただ黙って踊った。
こんな胸の高鳴りを、生まれて初めて感じた。
やがて曲が終わった。
名残惜しさを感じつつも、手を離そうとすると、反対に王太子の手には力が入った。
王太子が右手を私の腰に伸ばしてぐっと引きつけ、猛烈に焦る。
曲は終わっているというのに、私たちのダンスはまだ続いていた。管弦楽器の音は消え、代わって私たちが踏みしめる芝のサクサクという音だけが、聞こえる。
「王宮魔術師殿。名前はなんていうの?」
王太子は私をじっと覗き込みながら、返事を待った。
名前を尋ねられるという、何度もあちこちで経験するようななんでもないことが、こんなにも幸せに感じられるとは。
私の名前をちゃんと覚えてほしくて、つとめてはっきりと答える。
「リーセル。――リーセル・クロウです」
――王太子はあの時、なんて言っただろう?
「良い名だ」と言ってくれた気がするし、もしくは「リーセル」と呼んでみてくれたかもしれない。
とにかく、これが私とユリシーズの出会いだった。
その後、魔術持ちの彼は何かにつけて王宮の魔術庁へ顔を出しにくるようになり、そこで私たちは頻繁に会えるようになった。
王太子が魔術庁に来てくれるのを、私は楽しみに待つようになったし、やがて私たちは待ち合わせをして、こっそり会うようになった。
日当たりの悪いバルコニーや、放置された庭園の一角といった、人気のない場所で。
二人で会うのが嬉しくて、王太子と話すのが楽しくて、いつしか自分の抱いてしまっているものが、恋だと自覚した。
そして同じものを王太子にも期待してしまった。
やがて彼が初めてキスをしてくれた時、私は見てはいけない夢を見てしまったのだ。
底辺貴族の小娘は無謀な夢を見て、そして全てを兼ね備えた令嬢にあっという間に蹴落とされた。
目を開けると、顔を強く左右にふる。
(そんな未来は来ないから、大丈夫……)
自分に硬く言い聞かせ、拳を握る。
チャリティーコンサートの演奏が終わると、今年最後のイベントはお開きになった。
この後は、皆で学院全体の後片付けをしなければならない。
ホールから出るアイリスを、なぜか男子たちがゾロゾロと追いかけ、馬車まで見送りをしている。
「何なのあれ! ちゃんと片付け手伝いなさいよ」
箒を両手で握りしめ顔を赤くして、シンシアが群れる男子たちを睨んでいる。
風で飛ばされたのか、校庭の中は紙袋やケーキの包み紙が落ちていた。チリトリを片手に、私も箒でゴミをかき集めていく。
ゴミ袋を持っているのは、ギディオンだった。
彼は見送りをしないのだろうか。アイリスはギディオンの幼馴染なのに。
箒で地面を掃きながら、ゴミ袋のギディオンのもとに近づいていく。彼は地面に膝をつき、両手でゴミ袋を広げて構えてくれた。
(それにしても、あの声を久しぶりに聞いたな……)
甘く柔らかな、天使のような声。
アイリスの顔と声を、久しぶりに思い出した。チリトリでゴミを集め、ギディオンのゴミ袋に入れる。
「あのアイリスって子を、見送らなくていいの?」
ギディオンは顔を上げると、馬車の方をちらりと見た。
「屋台で十分、話したから。それに、あれだけ大勢が見送ってるなら、いなくていいんじゃないかな」
「――あなたと仲良しなんだと思ってたけど」
ギディオンは一瞬微かに目を見開くと、首を左右に振った。
「――ただの幼馴染だよ」
以前のギディオンは、聖女の保護者みたいな存在で、王宮ではどちらかといえば、聖女からは数多くいる自分の信奉者の一人として扱われていた。でも今日の様子を見ていた限り、今回の二人の関係は、むしろ逆転して見えた。
チリトリから溢れたゴミ屑を、手で拾ってゴミ袋に入れてくれるギディオンを見下ろしながら、思った。
それもそのはず、かもしれない。
今回のギディオンは客観的に見れば、優しくて穏やかで、真面目な努力家で、容姿まで抜群に良い人で。
たとえ幼馴染でも、そんな人を好きになっても不思議はない。
「……でも、彼女はそうは思っていないかもね」
しまった。
ちょっと嫌味っぽくなっちゃった。
驚いて私を見上げるギディオンの碧の視線を振り切るように、彼に背を向ける。
そうして残るゴミを追いかけて、乱雑に箒で地面を掃き進めていった。
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