第3話 バラル州の穏やかな日々

 それからの日々は、本当に生まれ変わったような毎日だった。

 屋敷の者達は、十九歳の私の記憶にあるよりずっと若くて、少し戸惑った。

 侍女のカトリンは、あの日の泣き顔が嘘のように明るくてよく笑う、かつての彼女のままだった。

 おまけにまだ二十代と若くぴちぴちで、可愛らしい。嬉しくて、子どもだからと何度も腰に抱きついては、その幸せそうな笑顔を確認してしまう。


「カトリン、だ〜い好き。お婆ちゃんになっても、ずっとそばにいてね」

「お嬢様ったら。最近妙に甘えん坊ですね。赤ちゃん返りですか〜?」

「子ども返りだもん!」


 目に映る景色の全てが、いつか見たもののはずだった。けれど、よくよく見ると全ては新鮮だった。

 六歳の私を囲む環境は、とても優しく楽しいものだった。

 王宮の人々に揉まれ、ギスギスしていた十九歳の私は、こうして子ども時代に戻ったことで、その単調で平和な毎日に心がとても癒されていった。

 その愛と優しさに包まれた暮らしの中で、次第に王太子への恋心や聖女への恨みを、ゆっくりと忘れていった。

 いや、正確に言えば忘れるしかなかった。





 クロウ家は結構な田舎貴族だった。

 領地のあるバラル州は王都からかなり離れており、草原の丘と森が続く長閑なところだ。

 風になびく緑の芝と、青々と茂る小さな森。

 遥か北を見上げれば、白い雪を頂上にかぶる青い大きな山々がそびえ、バラル州の背景はいつも壮大で美しい。

 緑のベルベットの丘には、野うさぎが跳ね、森の木々の間からは時折雄々しいツノを持つ鹿が姿を見せる。

 自然の恵みが豊かなので、農村の暮らしもそこそこのレベルが保たれている。

 緑の絨毯が敷き詰められたなだらかな丘を、澄んだ美しい小川が流れ、子ども達が水遊びをする。

 夏の終わりには毎年、村を挙げての馬上槍試合が行われ、りんご飴を片手に観戦をする。

 そんな平和な州だ。


 クロウ家の屋敷は大きく歴史ある建物で、いかにも地方領主の屋敷といった構造をしていた。

 厩舎と井戸がある広い中庭に、大きな広間と食堂がある屋敷。

 灰色の石を積み上げた城門の外には、農民に耕作してもらうクロウ家所有の畑があった。

 もっともクロウ家は決して裕福ではなく、屋敷は相当ボロかった。貴族としては、かなり貧乏なほうだろう。

 厩舎を挟んで二つの棟からなっているのだが、そのうち片方は半壊しており、使っていない。

 私の両親は馬車の事故で亡くなっており、私は弟と当主の祖父と、三人家族だった。

 それでも……。


「いやぁー、平和でいいわぁ」


 ここにこそ、幸せはあった。

 毎日は実に穏やかに、シンプルに過ぎて行った。

 中庭で飼育している鶏たちに餌をまき、家庭教師に勉強を習う。

 普通はそれに刺繍やら裁縫を習うのかもしれないが、私の場合は祖父から魔術も教えてもらっていた。

 私は魔術が使えるのだ。

 この世界では、全員が魔術を使えるのではない。くじを引くように偶然に魔術持ちが生まれる。

 万物の根源は水か火か風で、その力を自在に操ることができるのが、魔術師だった。



 魔術は私にとって、誇りだ。

 貧乏貴族でも、魔術さえあれば、絶対に領民を困窮させることもないのだから。

 祖父は自分の魔術を使って、魔石を作ってはそれを販売し、副業でかなり家計を助けていた。魔石は魔術を溜めた塊のことで、魔力の少ない人でもそれを使えば、魔力の補助となるのだ。いわば、燃料のようなものだった。


 祖父は水の魔術を得意としていた。

 だから私と三歳年下の弟が、井戸のそばで遊んでいると、しばしば私たちを水のウサギや猫が、追いかけてきた。

 私はこの時間が最高に好きだった。

 花々と緑溢れる明るい庭に、優しい祖父がいて、はしゃぐ私と弟を見守ってくれている。


「ニャンコ! こっちにおいで!」


 三歳の弟が、満面の笑みで透き通った水の猫に駆け寄り、触ろうとする。

 猫はヒラリと身をかわし、挑発するように時折立ち止まっては弟から逃げ回る。

 弟はまだ赤ちゃんらしさが残る、高く澄んだ笑い声を上げ、芝の上を弾むように猫を追う。

 そんな弟を、祖父が顔を綻ばせて見つめている。


「おじい様、水の猫の出し方を教えて!」 


 祖父の手にしがみついてねだると、祖父は私と同じ色の瞳を、ぐるりと回した。


「リーセルにはまだ早いかな。頑張れば蝶々くらいなら、出せるかもしれないね」

「蝶々でいい! 教えて、どうやってるの?」


 魔術は楽しい。

 祖父は穏やかに微笑むと、私の右手を両手でそっと取る。


「自分の心の中を深く覗き込んでみなさい。そして、お前が一番美しいと思う蝶々の姿を、心に浮かべてごらん」

「心を覗くって、何? それ、どうやるの?」


 すると祖父は苦笑して首を左右に振った。


「毎日やってみてごらん。お前の持つ水の魔術に力を委ねる感覚で。練習あるのみ、だよ」


 祖父はそう言うと、私の頭をポンポン、と叩いた。





 夕暮れ時になると、屋敷の裏にある父母の墓参りをするのが私たちの日課だった。

 ツタが絡まる緑豊かな墓地に、父母の墓石は仲良く並んでいた。

 祖父は魔術で作った花を、時折一輪ずつ二人の墓の上に置いていた。

 私はこの花を、「世界一きれいな花」と呼んでいた。水の魔術で作られたそれは、ガラスのように透き通り、それでいて光を受けて七色の輝きを放つのだ。その硬質な外観にかかわらず、触れればごく普通の花のように柔らかい。


「おじい様は、どうしてこんなにきれいな花が作れるの?」


 夕陽に照らされた祖父の顔を見上げると、彼はくしゃっと顔をシワだらけにして笑った。


「お前達のお父様とお母様を、心から愛していたからだよ」


 そうしてそのアメジストの瞳を、灰色の墓石に戻す。その目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。

 父母は私が四歳の時に亡くなったので、二人のことはほとんど覚えていない。

 ただ、一番身近なはずの二人がいなくて、心の中で巨大な空洞となっているだけだった。

 祖父は私と弟を両腕でギュッと抱き締めると、言った。


「リーセル、イーサン。お前達はどうか、長生きをしておくれ。お父様やお母様より、うんと長く生きるんだよ」


 祖父の大きくあたたかな体に包まれ、弟は無邪気に頷いた。


「うん! 僕たち絶対、百歳まで生きるよ!」


 弟と一緒に祖父にしがみつき、彼の少しチクチクするセーターとそのぬくもりに頰を押しつけながら、私は唇を噛んだ。


(必ず、生き抜いてやる。王太子妃なんて、絶対目指さない!)


 このリーセル・クロウ(リターン)が人生を賭けて、あの虚しかった人生を演じ変えてやる。



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