第23話 老教師との別れ

 四角い小さな病室の奥には一台の寝台があり、白髪のキム先生が半身を起こしてそこに座り、私の方を見ていた。少し痩せて、何だか一回り小さくなった気がする。


「こんな夜中に、申し訳ありませんね。私が会いたいなどと、言ったばかりに。」


 私は寝台脇に置かれた簡素な椅子まで進み、そこにぎこちなく腰掛けた。相変わらず私に向けられる表情は険しかったが、私がひとしきり体調について聞くと、彼女は自嘲気味にうっすら笑って答えた。


「もう私も77歳ですからね。いつどこがおかしくなっても不思議はありません。」


 私はキム先生が曲がりなりにも笑顔を見せた事と、想像以上に高齢だった事両方に目を見張った。暫く呼吸を落ち着けてから、聞きたかったことを思い切って言ってみた。


「セルゲイさんから、……キム先生がアメリカ合衆国から来たと、聞きました。」


 キム先生はそっと私から視線を外し、宙を見た。


「もうあまりに昔の事過ぎて……実際にはほんの少ししかもう、私の記憶にはありません。」


 遠い過去を思い出そうとするようなキム先生の視線は、細められた後で小刻みに揺れ、思いの外悲しげに見えて私を戸惑わせた。

 同じ世界から来た人がこの国にいるかもしれない、とかつて知った時に、私は仲間どうしで抱き合う様な、互いに感動し合う光景を思い描いた。しかしながら、今、予想もしない形でそれが現実になった時、実際はそれより遥かに淡々としたものだった。


「自分が別の世界から来たという事は忘れたつもりでした。忘れなければやっていけなかった…。ですが、そこにやって来たのが、リサだったのですよ。………同じくこの国に迷い込んだ人間を助け、導くのは私の責務だと思っています。」


 キム先生は言い難そうにしながらも、まるで胸の内を吐き出す様に続けた。苦しそうに顔をしかめつつ。


「ですが……同時に、貴方は……私が最も憎んでいた国から来た存在でもありました。私は貴方を見る度、狂おしい郷愁に苛まれるのと同時に、行き場の無い腹立たしさを感じて、自分でもどうして良いか分からず混乱していました。それなのにこんな風に、自分の死を間近に感じる時、不思議と貴方に会い、話を聞きたくて堪らなくなるのですね。」


 ふう、と小さな溜め息を吐くとキム先生は私を見た。

 キム先生が来たという、68年前。

 その頃私たちのいた世界は大きな戦争の只中だったのでは無いだろうか。それも敵対する国として。

 キム先生の脳裏には私は憎き国の民として、奥深く刻まれているのだろう。それはとても悲しい事だった。


「……私とキム先生がいた国は、今はとても仲が良いんですよ。」


 キム先生は薄い青色の瞳を少し見開いた。私はつられる様に頷いた。

 私は面会時間を気にしつつ、私が知識として知っている、キム先生が知らないであろうその後の私達の世界の出来事を出来るだけ簡潔に話した。ーーーああ、歴史が好きで良かった。学校の勉強がこんな所で役に立つ日が来るなんて。

 キム先生はどこか遠くを眺める様な目つきで私の話を静かに聞いていた。私の記憶の中にある世界を、どうにか共有しようとしている仕草にも思えた。

 私がひとしきり語り終えると、彼女はそのまま何度も、自分を納得させる様に頷いた。しかし、なんとなく物足りない、といった表情に見えた。

 ………違うんだ、先生はもっと違う何かを求めている。もっと、多分それは彼女の原風景に訴える様な、何かだ。元いた世界の手触りを感じられる様な。私に何が今出来るのだろう。

 ふと思いついて、私はABCの歌を歌ってみた。学校で習うお馴染みのあの歌だ。メロディはキム先生が知っている物と同じかは分からないが、アルファベットは変わらないはずだから。

 狭い病室に素っ頓狂な私のABCの歌が響く。

 キム先生がゆっくりと笑い、次いでその薄い口元を小刻みに震わせたかと思うと、透き通った一筋の涙を流した。彼女はそれをさっと拭い去ると、囁く様な声で、マム、ダッド、といったような単語を口に上らせた。

 再び私に視線を戻した時には、キム先生はどこか納得した風情に見受けられた。


「懐かしい歌をありがとう………私は、それでもとても幸運だったのですよ。大陸一豊かなアリュース王国の、しかも中央神殿という恵まれた場所で育てて貰える事が出来て。それで良いと思っていたのですけれど。後悔なく精一杯生きたつもりです。それでも………この年になって、一つ大きな心残りは、やはりここに本当の意味では根を下ろさなかった事なのです。私は、やはり一人で逝くのですね。」


 キム先生はジッと私を見つめた。だから、同じ世界から来た私をここに…?

 彼女は細い両手を寝台からこちらに伸ばし私の手を握った。乾燥して、皺の刻まれた、けれど暖かい手だった。ずっと、冷たいに違いないと決めつけていたその、手。


「リサ、貴方は愛しい人をこの世界で作りなさい。家族を作りなさい。貴方が家と呼び、いつでも受け入れてくれる場所を。それが先人である私からの遺言です。」


「先生、遺言だなんて。お医者さんはそんなにたいしたことは無いと言っていたと、セルゲイさんから…」


「私は旅に出るつもりです。神殿にばかりいすぎた事は、私の二番目の後悔なのです。」


 た、旅に!?

 私は一筋の涙の後に急にイキイキとしだしたキム先生を前に、混乱して良いのか喜ぶべきなのか迷った。


「もう私も長くないでしょうから、残された人生は楽しむのです。神殿で、やり残した事はありません。」


 そう言うとキム先生は背筋を伸ばして改めて私を見た。


「私が神殿で目を掛けた子達は皆、出世すると言われているのですよ。貴方は私の最後の生徒です。私の期待を裏切らないよう、頑張りなさい。もう会う事は無いかも知れません。………貴方に会えて良かったと、今心からそう思います。」


 キム先生は病室の壁に掛けられた時計を見た。私がこの部屋に入ってきてから、既に十分は経過していた。


「そろそろ面会時間が終わります。わざわざ来て貰いましたが、規則は厳守しなければなりません。……さあ、もう一度最後にABCの歌を私に披露なさい。」


 お別れの曲としては滑稽だが、本人が望むのならば仕方ない。私が歌い始めると途中でキム先生も小声でそれに加わり、歌い終わると彼女は破顔一笑した。

 まるで少女の様な、邪気の無い笑顔だった。その瞬間、私の前に九歳の女の子がいた、そんな気がした。

 私はキム先生が見せてくれたそんな笑顔に暫し見惚れ、一礼すると病室を後にした。


 廊下に出るとセルゲイが椅子に座ったまま、壁にもたれるようにして眠っていた。随分疲れているのだろう。伏せられた長い睫毛がクマを助長している。後ろで一つに束ねられている長い黒髪の内、数本が紐から抜けて高い鼻に引っかかっていた。私はそれを払いのけてあげようと手を伸ばし、それが彼の髪にかかりそうになった時。

 突如セルゲイはその双眸を見開き、同時に目にも止まらぬ速さで私の手を振り払った。


「……ああ、リサか。」


 セルゲイは中腰を上げて強張らせていた自身の身体を緩々と再び椅子の上に下ろした。警戒に満ちていた表情はもう影を潜めていた。

 彼は自分の隣をあけると、ポンと叩き、私に座るよう合図してきた。

 彼のその素早い動きにまだ驚いていた私は少し迷った後、おとなしく腰掛けた。


「キムは、何て言っていた?」


「旅に出るそうですよ。」


「旅に!?」


 セルゲイは身体を半分私の方に向け、動揺していた。無理も無い。


「私が色々お話したら、急にお元気になったみたいで。何か吹っ切れたみたいなお顔をされてました。」


 セルゲイは病室の方を見て大きく頷き、息を吐くと微笑んだ。


「やはりリサを連れて来て良かった。………リサでなければ駄目だったんだな、きっと。友人や医者がどんなに手を尽くすよりも、同郷のリサはほんの短い時間で元気にさせる事ができるんだな。」


 私もキム先生がいる病室の方を見た。

 キム先生に抱いていた恐怖心に似た感情は、今は溶けて、もっと身近な存在として私の心の中に収まっていた。


 セルゲイはキム先生と私を会わせる事が出来て、すっかり安心したのか、嬉しそうに私の方を見ていた。私はそっと右手を伸ばして、セルゲイのいまだ乱れて胸元に流れていた髪を、後ろに払ってあげた。今度は拒絶されなかった事に胸を撫で下ろしつつ、セルゲイと目を合わせると、途端にそんな事をした自分を激しく後悔した。セルゲイの力強い瞳が私の目をとらえ、私が恥ずかしくなるほど真っ直ぐに私を見ていた。いくらやつれてても綺麗な顔は綺麗だった。思わずドキドキして私が慌てて視線を逸らすと、セルゲイは残念そうに言った。


「良い雰囲気だったのに。どうしてそっちを向くんだ。」


「なんだか、蜘蛛の巣に絡まったハエみたいな気持ちになって…」


「せめて狼に睨まれた羊と言ってくれ。」

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