目覚めた場所は
ふっと気がつくと珠希さんを胸に抱いたまま、柔らかい雲の中にいた。栗色の瞳を薄く開いた彼女と目が合う。
「……あっ、ありがと……もう、大丈夫だから」
「うん」
それだけ言うと、珠希さんは再び眠りに落ちてしまった。腕に少し力を込め、彼女の頭に顔を近づけた。甘い匂いに身体が熱を帯びたが、不思議と落ち着いていく。
ところで、どうして彼女とこんなところでこうしているのだろうか。じっと考えても、もやもやと深い霧に阻まれた。夢の中で珠希さんに出会って、それから…………ああ。
…………ざあっと霧が晴れた。
やっぱり。父親が俺の記憶を隠すためにかけた魔術はいわゆる遅効性のもの。転移の魔術を実行している最中に何らかの理由でそれが揺らいでしまうことがあれば、時空の狭間で迷子になってしまいかねないのではないかと考えた。
なので全て終わって……すなわち俺がこちらに帰ってきてから発動するように調整されているはずと踏んで、その隙を狙った魔術を編み、対抗してみることを試みたのだ。
正直、弾丸に薄っぺらな紙の盾一枚、またはコイン一枚で挑んだようなものだったが。一度記憶をいじられたことがあるからなのか、守りどころはなんとなくわかってはいた。でも、まさかちゃんと成功するなんて。
彼女の命と、父親の記憶を両方とも失わずに済んだ。安堵から力が抜け、深いため息が出てきた。
しかし、これで何もかも無事に終わったというわけではなく……大きな問題が。俺にはこれから今いる女子寮を脱出するというミッションが課せられていた。自分の身体は男子寮に飛ばせればよかったが、さすがにそんなに器用な真似はできなかったのだ。
とりあえず、記憶を無くしていないおかげで気づかれずに脱出することはできそうだ。しかし立て続けに魔術を打てる自信がないので、できればもうしばらくはここで動かずにいたい。
まずは時間だけでも確かめよう。そっと布団から頭を出してみると、まだ夜が明けきっていないようであたりは薄暗かった。部屋の中には花のような香りがほのかに漂い、天井からは大きなシャンデリアがぶら下がっているのがなんとなくわかる。
…………待てよ、おかしい。女子寮の部屋にこんなものはなかったはずだ。
「ここ、どこだ?」
「ううん……」
思わずこぼした独り言に応えるような声が、腕の中からではなくすぐ背後からする。背中が妙に暖かいのは後ろに誰か寝てたからなのか…………ん? 後ろにも人が?
恐る恐る振り返ると、寝ているのは……どう見ても森戸さんだ。
「っっっ!?!?」
あわてて反対側を見れば、布団の中から見覚えがありすぎる銀色の髪が出ている…………!!!!
俺は、いったいどこに飛んできたんだ!?
おそらく我が身は今、想像を絶した状況のなかにある。一気に目が覚め、飛び起きた。外国からはるばる運んできたようなデザインの巨大なベッドに、俺たちは四人仲良く収まっていた。そう。俺の隣には珠希さん、反対の隣には森戸さん。そして珠希さんの隣には透子が…………すやすやと眠っている。
お、女の子三人と、同じ布団で…………!? 悪魔の所業じゃないか!!
頭をバットで殴られたかと思うほどの衝撃。全員が服を着ていることに安心をしたのも一瞬、再び目の前が真っ暗になった。決して存在を気づかれてはならない。しかし、長い間姿を隠すような魔術は使えないし、そもそもここがどこなのかのわからないので手の打ちようがない。
ショックで視界が明滅し、思考がひたすら空回りする俺を嘲笑うかのように、表で小鳥たちがかしましく鳴いている……。
「あら……朝?」
「ううむ……まだそんな時間ではなかろう……」
無常にも、両端の二人が同時に目を覚ました。無駄な抵抗かもしれないが、極限まで身を縮ませ、息を止める。
「ああっ!?!?」
まず、森戸さんが立ち上がったのがわかった。観念して顔を上げると、目を三角にした美女が立っていた。怒りのせいで抑えきれないのか、かすかに漏れ出た魔力が渦を巻き、つややかな黒髪と藤色のスカートの裾をふわふわと揺らしている。どこかで見覚えのあるデザイン。
「たまきくんか!? 本物なのかね!?」
続いて立ち上がった透子も色違いのものを着ている。なるほど、珠希さんが着ていたお姫様みたいな服は、三人お揃いのパジャマだったんだな。どこで売ってるんだろう、こんな可愛いの。
森戸さんの迫力に、腰が抜けてしまったのか立つことができない。そして珠希さんは起きない。
「
森戸さんが吠えると、先ほどまで楽しそうに笑っていた鳥たちがバサバサと羽ばたき、代わりにガタガタと窓ガラスが揺れ始める。殺される! そう本能が叫ぶ。
「ご! ごめん!! 俺もなんでこんなところにいるのか、よく分からなくて!!」
せめてもの命乞いをするも、俺に迫りくる月夜の色の瞳は赤く燃えていた。終わった。全てを諦め、目を閉じた。訪れるはしばしの静寂。どさっと何かが落ちる音がして、おそるおそる薄目を開いた。森戸さんはすっかり脱力してしまっていて、その両目を潤ませていた。
「よ、よかった……帰ってきた……怪我してない?」
「たまきくん、今までいったいどこにいたのかね!?」
「ああ、うん……えっと……」
勢いで話しそうになったが、『外』の人間にあの場所の存在を知られてはいけないことを思い出し、口をつぐむ。五日間どこにいたのかを正直に話すわけにはいかない。二人には申し訳ないが芝居を打つことにした。
「ああっだめだ。全然思い出せないっ」
記憶喪失を装い、とりあえず大袈裟めに頭を抱えてみた。演技経験はゼロだが、これはなかなかの名演なのでは?
内心では自分に賛辞を贈りながら、それらしく頭を垂れたままでいると、頭の上に小さな手が添えられた。すっと一度髪をすかれ、手は頭頂部に押し付けられる。
「たまきくん、歯を食いしばりたまえよ」
「へ?」
強く指を立てられた刹那。バチーンと、頭の中に稲妻が走った。強烈な頭痛と吐き気が押し寄せ…………俺はたまらず後ろにひっくり返ったが、透子はすかさず俺の上にまたがり、さらに頭を揉み続けてくる。
「うわああああああ!!」
「ほれほれほれ!」
「ああっ! 何するんだよ!?! やめてくれ!」
叫んではみたが、透子の勢いは止まらない。突然の襲撃はいつものことだが、今日はやたら念入り……それにこの頭痛は……なるほど!
「ふっ! 二人とも!! ちょっと?!! なにやってるのよ!!」
森戸さんは耳を真っ赤にして叫び、顔を覆った指の隙間からこちらを見ている……いや確かに絵面は問題ありまくりだが、頼むからそういう風に受け取らないでくれ!
「確か前はこういう具合だったかと思うが……何回か試してみるかの」
「うわっああ!! 透子おおおお!?」
やっぱりな! 透子にデタラメに魔力を流されるたび、爆竹がはぜたように目の前がチカチカとする。色々な意味で耐えきれず、慌てて押し返そうとしたが、意外と力が強い!
「待て待て待て! わかった! ちょっとだけ待ってくれ!」
力の限り声を張り上げる。ようやく透子の手が止まり、腹が軽くなったので起き上がった。俺を見上げる大きなラムネ色の瞳は、大きな期待をこちらに浴びせつけるように輝いている。
「たまきくん、もしや、何か思い出したのかね!?」
むしろ何もかもを忘れそうになったけどな! 叫びそうになったのをグッとこらえ、ここはどう出るか、目を泳がせながら思案した。
「ああ、ええっと……」
とはいえ、上手い言い訳など思いつかず言いよどんでしまう。少なくともほとぼりが覚めるまでは何も思い出せないようにしたほうがよかったか。あの時はとにかく記憶を飛ばされたくないために必死で、そんなところにまで気が回らなかった。
魔術を組む時は、そういう細かいところまで考えなければならないのだな。これから目指す方向が定まったことだし、後学のために覚えておかねば。
「ねえ透子さん。今は無理に聞き出さなくてもいいんじゃないかしら。よく考えたら、珠希さんもまだ眠っているし……」
「確かに、それもそうだの」
森戸さんの一言が助け舟になり、透子からの追及があっさり止んだ。ほっと息をつき、三人揃って珠希さんの方を見る。周りでこれだけの大騒ぎをしたのに、まだ目を覚ましそうにない。無茶をしたせいで消耗したのだろう。
「しかし、居場所を聞き出すだけと聞いておったのに、サルベージまでしてしまうとは……んん、お母様にどのように報告しようかの。とりあえず、連絡を入れさせてもらおうかね」
ちょっと失礼、と透子が部屋を出ていき、部屋に森戸さんと二人きり……珠希さんははいるが、相変わらず目を覚まさない。珠希さんを挟んで向かい合わせに座る。ベッドの上で女の子の友達と膝を突き合わせているなんておかしなこと極まりないが、だんだん状況に慣れてきた。少し怖い。
「ちゃんと通じ合えたかしら?」
しばらくお互い黙ったままだったが、森戸さんが先に口を開く。しかし、何のことかわからない。
「え?」
「気持ち、ちゃんと伝えてもらえた?」
「あっ…………! ああ、えっと、何が?」
「ああー!! そこは覚えてるのね!? よかったあ!! 本当によかった!! あなたたちがくっつくのをずっと待ってたのよ!!」
恥ずかしいのですっとぼけて見せたのに、なぜかガッツポーズを決め、そのまま勢いよく横に転がる森戸さん。ベッドが大きく揺れる。つられてひっくり返りそうになるのを耐えた。
「これは何だ? 意地悪の一環か?」
「いいえ、二人とも大切な友達だからよ。これからも見守ってるから、お幸せにね。あ、結婚式には呼んでくれなきゃ嫌よ」
結婚、という言葉に体温と心臓が跳ね上がった。その、なんというかまだ付き合い始め……いや、まだ付き合ってすらいないというのに。
「いや、話が飛躍しすぎだろ……まだそんな……」
「え、なに? その覚悟もせずに好きって言ったわけ? いくじなしね」
「いや、別にそういうわけじゃないけど……ああ、なんなんだよ、もう」
寝っ転がったままいつもの膨れっ面を向けてきたので、ため息をついた。きっと、これからもずっとからかい続けられるのだろう。先が思いやられるな。
「ああっ! やっと起きたのね!! 大丈夫!?」
森戸さんがしゃんと跳ね起きた。続けて、珠希さんがゆっくりと起き上がる。ぼんやりしているのか目はとろんとしているが、顔色は良い。ちゃんと目覚めてくれてよかったと、心の底から安心した。
「……ちょっと疲れちゃったけど、大丈夫。相変わらず二人は仲良しだね。いいな」
目をこすりながらぽやっと笑う珠希さんに、目を丸く開いて見せる森戸さん。何かを閃いたように手を叩くと、ニヤリと口角を釣り上げた。
「ちょっとお。友達の旦那さんに手を出す趣味はないわよ、っと」
「きゃっ!!」
「うわあ!」
突然、珠希さんが倒れかかってきたので受け止める。森戸さんに突き飛ばされたのか……珠希さんは腕の中で何やらもぞもぞと動いているが、なぜか離れる様子がない。ここは俺を突き飛ばすところではないのか。嬉しいけど恥ずかしい……。
「旦那さんって。ちょ、ちょっと待って……そんな、まだ、その……待って……あっ、ごめんね環くん」
「ああいや、ご、ごめん」
ようやく互いに離れると、森戸さんが舌打ちした気がした。正直、美人のそういうのは怖い。
「あー、別にそのままでよかったのに。これからはもっと見せつけてもらって大丈夫だから」
「何言ってるんだよ!! ていうか何する、いや、何させるんだよ!! 悪魔かよ!!」
「んふふ。なんとでもおっしゃいな。私は自分の野望のためなら鬼にでも悪魔にでもなるわ」
いや、野望ってなんなんだよ……赤面する俺たちを前に目を細め微笑む姿は、やっぱり黒髪の悪魔そのものだった。
◆
騒いでいるうちに、すっかり表は明るくなっていた。窓から見えるのは緑の木々。どうやら今いる場所は山の中にあるらしい。
森戸さんから、ここは透子専用の別荘と聞かされ腰が抜けそうになった。いつぞやの誕生日プレゼントにもらったらしいが、人形遊びやままごとに使う家ならまだしも、本当の家をプレゼントされるなんて……高級車をまるで靴のように買い替えたことといい、庶民にはどうにも理解し難い感覚だ。
ドアが開き、透子が入ってくる。すでに洋服を着替えており、片手には綺麗な布の包みを持っていた。
「たまきくん、これを預かったままだったから、返そうかの。本当は
透子から包みを渡された。中身はどういうわけか自分の服で、いったいどうなっているのかと首を傾げた。そういえば先週、透子の家に遊びに行って着替えさせられ、これは洗濯をしてあとで返すと言われたんだっけ……着の身着のままだったのでちょうどよかった。
「あ、ありがとう」
「いんや。ああ、まもなくわたしの母がここに来る。タマタマ二人に話があるそうだから、着替えを済ませて待っておいてくれたまえ」
そうだ……すっかり忘れかけていたが、まだ自分のやらかしたことの後始末が残っていたのだ。
透子のお母さん……敵に回すと大変どころではなさそうで、どう切り抜ければいいのか。そんなことを考えながらちらりと珠希さんの方に目をやると、なぜか暗い顔をして佇んでいた。
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