第59話 夢のあと、誓う朝

 赤い水たまりの中で、白い服を着た女の子がうずくまって泣いていた。後ろでひとつに束ねられた髪を、小さな背中に長く垂らしている。


 彼女を囲うように大人の男性と女性、それに同じ白い服を着た女の子が何人か。でも、誰も泣いている子に手を差し伸べようとしない。それどころか、せせら笑うような表情を向けていた。力ない泣き声。赤い水たまりの正体に気がついた。たまらず駆け出す。


 すり抜けるように輪の中に入ると、思わず耳を塞ぎたくなるような言葉が聞こえてくる。どうして、こんな苦しそうにしている小さな女の子を助けもせずに、そんな言葉を浴びせられるのか理解ができなかった。吐き気を覚える。


「いたかったよね、ごめんね。ごめんね」


 うずくまったまま呟く女の子を思わず抱き上げる。小刻みに震える小さくて軽い体。まだ、小学生くらいだろうか。


「怪我、したのか?」


 血に濡れた服を触って確かめるが、女の子に傷はないようだった。その代わり、血溜まりには何かがちぎれてバラバラになり浮かんでいた。頭の中でそれをパズルのように組み合わせ、答えが出た瞬間……ぬるぬるとした感触に皮膚が泡立つ。ここで一体何が、起こっているのか。


「できそこないでごめんなさい……」


 腕の中の女の子が絞るようにつぶやいた。俺を見つめる丸い目から、ボロボロと涙がこぼれ落ちている……この子は……。


 頭を撫で、あふれる涙を手で拭った。その小さな身体をそっと抱きしめた。



 ◆



 ……跳ね起きた。いつもとは違う種類の頭痛……それに目が鈍く痛む。眉間を押さえて唸ってから隣の部屋を見ると、夕焼け色の瞳が心配そうにこちらを見つめている。


 時計は二十三時過ぎを指していた。ここに帰ってきたのは二十二時半ごろだったので、そんなに時間は経っていない。ベッドに横たわり考え事をしているうちに、少しだけ眠ってしまったようだ。


「環くん、大丈夫かい? 少しうなされていたようだけど……やっぱり僕のせいかな。ごめんよ」


 紺野先生は化粧を落とし、吸血鬼の衣装も脱いですっかり元の姿。確かにも今後の悪夢の種になりかねない経験だったが……その後の出来事で何もかも吹き飛んでいる。あの白髪の男は……考えようとすると、突き刺すような頭痛。ダメだ。やめよう。


「ああ、いや、大丈夫です。ちょっと変な夢を見ただけで」


「ならいいんだけど……ああ、環くん。お風呂を先にどうぞ。僕はこれから少しだけ出ないといけなくて。十二時までには戻るから、お風呂が終わったらちゃんと休むんだよ。おつかれさま」


「はい。行ってらっしゃい」


 バタンとドアが閉まる。祭りの後片付けはすでに終わっているのに、外は例の件のせいでまだざわざわとしているようだ。


 疲れたし、さっさと休もう。風呂に入るために脱衣場で服を脱ぐ。ズボンを脱ごうとした時にはっと思い出した。しまった。これを届け出るのを忘れていた……。


 ポケットの中身を取り出した。細かい装飾がキラキラと光る、丸く平べったい物体。片側に蝶番がついているので、おそらく女の人が化粧の時に使うような、二つ折りの手鏡。裏も表も同じ柄、先ほどは暗くてわからなかったが、虹を閉じ込めたように七色に光る部分もある。


 確か、こういうのは貝を埋め込んで作るんだったか。高級そうに見えるから、学生のというよりは先生の持ち物か? いや、待て。この学校には、お嬢様と言われるような子が多いと母親や珠希さんが…………あ。


 ぱちん、と頭の中で何かがはまる音がした。鏡を開いてみる。中は二面とも鏡なので、俺の顔が二つに映る。拾った時から抱いていた、ぼんやりとした既視感の正体。


「これ、珠希さんのじゃないか」


 鏡を閉じる。時を遡ること三ヶ月と少し、入学式の日。透子に髪をぐちゃぐちゃにされた俺に、珠希さんが使わせてくれた鏡。あの時は出会ったばかりだったし、鏡を貸してもらえてありがたいと思っただけだった。


 落としたのはおそらく崖から降りて着地した時。カードケースも落ちていたのなら、他にも何か落としていてもおかしくはない。


 ……あんな場所にまでわざわざ持ち歩いていたのならば、大事な物かと思ったが、今から届けるのは。明日でいいか、どうせ寮か教室で会うのだから。


「カードケースなあ……」


 思わず口に出す。前に俺があげたうさっちのキーホルダーがぶら下げられていた。もし、いつも肌身離さず持ってくれているんだとしたら。それに枕元のあいつも。もし、もしも。


 いったい何を考えているのだろう。一番好きなキャラだからに決まっているだろう。首を振る。まさか、俺があげたからだなんて、そんなバカな話があるわけない。謎の期待とともに服を全て脱いで、風呂場のドアを開けた。



 ◆



 翌朝。雪寮食堂。焼き立てのパンの香りが漂い、学生たちの賑やかな声が響く、いつもの朝食の光景。しかし今朝は森戸さんと珠希さんの姿は見えなかった。朝食を受け取り、紺野先生と席につき、食べ始めた。パンをスープと牛乳で流し込んで、オムレツとサラダを食べる。無理にでも食べないことには頭も回らないと、懸命に口を動かした。


 昨夜は小さな女の子の夢を繰り返し見て、何度も目が覚めた。


 小さくない血溜まりを何度も何度も見た。大人たちにひたすらに罵られ暴力を振るわれ、あるときは冷たい池の中に放り込まれ、またあるときは暗いところにひとりで閉じ込められていた。


 俺はその度に夢中で走った。盾になって、池から引き上げて、隣に寄り添った。丸い目からこぼれ落ちる涙を拭った。理由はわからなかったが、どうしても、そばにいると伝えたかった。


 そんなわけで、朝だと言うのに俺は今ひとつの状態。食欲がないのはそのせいだ。


「環くん、ウインナーを食べられないと言うなら僕が食べようか」


 向かいに座った紺野先生がにこにこと笑いながらフォークをこちらに向けた。俺の皿の上には、ウインナーが二本残っている。いつもならここで『好きなものは最後に取っておくんです』と返すところだが。


「どうぞ。ふたつともあげますよ」


「えっ!? どうしたんだい!?」


「ちょっと食欲がなくて。すみません、先帰りますね」


 目を丸くした先生の皿の上にウインナーを転がしてから、俺は席を立つ。食器を返して食堂を出ようとすると、ちょうど森戸さんが一人でやってきたところだった。


「香坂くん、おはよう」


「おはよう、あれ? 本城さんは?」


「職員用のシャワー室を借りに行ったわ。昨日は帰ってきたら疲れてすぐに寝ちゃったからって。もうすぐ来るとは思うけど」


「そうか……」


 あのまま朝まで目覚めなかったのか。単に疲れていただけならいいのだが。


「ねえ、昨日は二人ともゴール地点に来なかったけど、もしかして肝試しで何かあったの? そういえば、校内に無断侵入してきた人がいたって先生たちが話してたけど、あの、実は私」


「ごめん、その話はちょっと。また後でな!」


 その話に触れられるのが嫌で逃げた。そう、昨夜、俺は実習林で……男と遭遇し、その前には吸血鬼の館で珠希さんとあんなことになり、林では意味深なことを伝えられ。とにかく昨日は色々とありすぎた。だからきちんと眠って頭を休めたかったが、とどめがあの女の子の夢だ。


 登校までに少しでも横になりたかった。早歩きで寮に戻り、ベッドに寝転がって目を閉じた。


 珠希さんは今日学校で叱られるんだろうか。授業以外で魔術を使うことは禁じられているからだ。でも、俺を助けるために力を使ってくれたんだ。それで責められるようなことがあれば、そのときは俺がしっかりしないと。


 …………それよりも。


 先生たちを『大したことない』と言ったあの男をして『相当な手練れ』だと言わしめた彼女。それにこの学校で五年間かけて習うことは『すでにだいたいできてしまう』とも。学校に入るより前に、誰かに魔術を習っていたのは間違いない。


『私ね。とびきり出来が悪くって。落ちこぼれで、要らない子、って感じだったんだよね。だから、何があっても誰も助けてくれないって感じで』


 ……四月、夕暮れのベンチで打ち明けられたことをふと思い出した。あの話は、夢で見た光景となんとなく重なる気がする。もしかして、あの女の子は珠希さん? だとしたら、俺はどうしてそんなものを夢に見たのだろうか。


「もしかして、これのせいか?」


 仰向けになり、ポケットの中身を取り出して掲げた。角度を変えるたび、窓から入る朝日を反射してキラキラと煌めき、天井に虹色の光の粒が映し出される。やはり、ただの手鏡とは思えない。複雑な模様を見つめているうちに気分が悪くなってきて、欠席の二文字が頭に浮かぶ。もう少しで前期も終わりなのに。どうするか迷っていると、玄関ドアが開いた。紺野先生が帰ってきたのだ。


「大丈夫かい? 具合が悪いなら受診するかい?」


「ああ、すみません。昨日はちょっと暑くて寝苦しかったので」


 適当に言いつくろって、ゆっくりと身を起こす。紺野先生は、心配そうな顔。俺の調子が悪いのは自分のせいだと思っているかもしれない。これ以上心配をかけるのも申し訳ないし、鏡を珠希さんに返さないといけない。学校には行かなければ。


「それ、どうしたんだい? すごく綺麗だね」


 紺野先生は輝いた目を俺が持っているものに向けている。可愛いものが好きなら、綺麗なものにも心惹かれるのかもしれない。そういうものに頓着のない俺でも、とても美しいと思えるほどなので、なおさらに。


「ああ、昨日肝試しの時に拾ったんです。昨日のうちに届けるつもりだったんですけど、忘れちゃって」


「なるほどね。暗がりだったし、落としても気が付きにくいだろうね。よかったら僕が学校に届けておこうか?」


 紺野先生がにこにこと手を伸ばしてくる。普通なら託すだろう。相手はこの学校の先生なんだから。しかし、これは珠希さんのものだろうから、同じ教室で隣の席に座る俺が渡したほうが早い。


「いや、持ち主に心当たりがあるんで、自分で届けます」


「おや? そうなのか。じゃあ、僕は先に行くよ。遅刻しないようにね」


 行ってらっしゃいと言い、手を挙げる。先生はそれを見て頷いて玄関へ。俺も鏡をズボンのポケットに入れてベッドから降り、洗面台に向かおうとすると、先生がくるりと振り向いた。


「ああ、なんか見たことがあるなと思ったけど、それ、古式の鏡の術具に似てるね」


「……え、何に使う術具ですか? えっと、鏡ってことは『遠隔視』か」


 ……術具で鏡といえば、学用品の中にもあった。『遠隔視』要するに、離れた場所を見る魔術を補助するための道具。シンプルな金属枠にはまった、見た目は普通の鏡……しかし、古式の術具とは?


「……えーっと、たぶん『遠隔視』だと思うけどごめん、古式魔術は専門外なもので。でも本物じゃないとは思うよ。その手のものにはすでに魔力がこめてあったり、表面の模様にとても複雑な術式が織り込んであるらしい。でもそれを施せる職人はとっくにいなくなっているから、本物はとても貴重だ。値段がつけられないほどなんだよ」


「え、そんな……」


 どうして珠希さんは持ってるんだ? 値段がつけられないものと聞いて、急にポケットの中身がずしりと重くなる。


「ああ。美術品や装飾品としての価値も高いから、見た目だけ真似して色々作られたりもしてるよ。だからそれも、その手のレプリカじゃないかな。それでも高価なものには変わりないけど、学生が持ってても不思議じゃないよ。じゃあね、行ってきます」


 玄関ドアが閉まるのを見守って、腕を組んだ。レプリカ……おそらく、魔術の道具にはなりうらない形だけ真似た複製品、ということだろうが。昨夜何度も見た妙な夢は、やはりこれに関係している気がする。


 登校の準備をしながらひたすら考えた。


 珠希さんの持ち物から何かを読み取って夢に見た? だとしたら俺はまた何かしらの魔術を編んだことになるが、今回は、特に何かを願ってはいない。やっぱり、たまたまなのか……それともこれは本当に何らかの力を持ったものなのか? わからない。まさか夢の内容を話して『昔こんなことがありましたか?』などと聞くほど無神経でもない。


「まあ、いいか」


 考えるのをやめた。あの夢に意味があってもなくてもどちらでもいい。俺は夢のあの子を助けたかっただけだし、珠希さんのことが好きで、たとえ何があってもずっと味方でいるだけだ。


『出会えてよかった。今は、すごく、大切な人だと思ってるの』


 ああ、俺もそう思っている。好きと伝える勇気はないが、彼女のために自分にできることをするだけだ。


「うわ! 遅刻する!!」


 ふと見た時計の針はすでに八時十分を指していた。慌てて鞄を持って、寮を後にした。

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