6月〈3〉せんせいといっしょ・2

「香坂環、待たせてすまなかったな」


「佐々木先生、今日もよろしくお願いします」


 約束の時間より五分ほど遅れて現れた佐々木先生は、学生である俺に律儀に頭を下げてから、向かいの椅子に着席する。


 背の高さは俺と同じ。要するに、女性にしてはかなりの長身と言ってもいい。ちなみに腰の位置は全然違う。襟足を刈り上げたショートヘアに、耳元にはいつも大きめのイヤリングが揺れ、黒のケープの前をキラキラ光るブローチとチェーンで留めている。知っている先生の中では、一番派手な装いをしていると思う。


 六月になり、学生たちは夏服……襟と袖にラインの入った半袖シャツに服装は変わったが、魔術の先生たちはトレードマークであるケープやマントを取ることはない。佐々木先生が着ているものはよく見ると裏のない軽そうなものとはいえ、夏は大変そうだ。


「よし、さっそく始めようか」


 さて、今日も魔術千本ノックが始まった。自分でもなんだそりゃとは思うが、適切な例えが見つからない。毎度のごとく夏休みの再放送で見た大昔のスポ根アニメのように、とにかく先生の目の前で、授業で習った簡単な魔術の発動と停止を、疲れるまで繰り返す。


 先生はその間、小型のセンサーを接続した端末で記録ログを取りながら目視や感覚でも確認し、何かおかしなところがあれば止めてくる。吹っ飛んだビー玉も止める。俺は、また最初からやり直す。


 途中、休憩を挟むたびに術式を変え、同じことをひたすら続ける。


「術式の順番が違うぞ香坂環。この程度の魔術なら前後を入れ替えても結果は同じだが、もっと複雑なものを扱うようになったらそうはいかない」


「また何か混ざった。願うな。結末を予想するな。感覚を閉じろ」


 今日も同じことを何度も言われながら、魔術を止められる。そしてまた最初から。


 この感覚を例えるなら……積み木を積み上げるが、まっすぐ積めていないとか、色の順番が違うからと途中で崩されるような感じだ。最後まで指示通り真っ直ぐ積んで、手を離しても倒れなければ成功、と言ったところだが、なかなかそこまでは辿り着けない。


 心が折れそうになる。しかし、これは自分のためだと歯を食いしばってついていった。今日もいったい何回魔術を使ったかわからない。椅子に座ったままなのに、全身を疲労が襲った。


「よし、今日はここまで。正確に打てたのは五割と言うところか。せめて八割は超えて欲しいが、まだ少し低いな。期末試験前までにはと思ったが……試験が終わってから夏休みまでの期間も続けるか」


「……すみません」


 ここまで付き合ってもらっているのに、まだその程度だとは。自分が不甲斐ない。うなだれた俺を見た先生は微笑むと、覗き込んでいたタブレット端末を机に置いた。


「いいや、そう落ち込まなくてもいい。最初に比べればかなり良くなっているからな。日々確率も上がっている……ちゃんと前には進んでいるよ。さて、質問はあるか?」


「前から気になってたんですけど、先生は母のことをご存知なんですか?」


 もうここに来るようになって二週間ほどになるが、初めて設けられた質問タイムに、前から気にしていたことがつるりと口から出てしまった。


 あ、質問ってたぶんそういう意味じゃないよな……と気づいた時には遅かった。佐々木先生は当然予想外だったのだろう。まさに、キョトンといった顔をしている。


「ん? ああ。知ってるも何も同級生だよ。君のお母さんは専科には進まなかったから、五年間。寮が相部屋の年もあったし、クラスもずっと一緒だった。仲良くしてもらっていたよ。卒業してからは……数年間は年に一度くらい顔を合わせる機会もあったんだが、ここ十数年は。まあ、子供きみを産んで育てていたからだったんだが」


 先生は目を丸くしたままで話し始めたが、しだいに昔を懐かしむような笑顔に変わっていく。母親と同級生ということにはそこまで驚かなかったが、寮で相部屋だったとは。意外な事実が出てきたことに、こちらの目も丸くなる。先生は歯を見せて笑うと、続けた。


「せっかくだから学生時代のお母さんの話をしようか。当時から『歩く魔術大全』と呼ばれるほどの知識量と正確な技術を持っていた。それに系統を選ばない柔軟さを持ち、そして魔術の展開の速さも桁外れで、他を全く寄せ付けない人だった。その上、普通科目の成績も最優秀ときた。天才だとか、規格外だとか呼ばれていたな。普段の温和な様子からは想像もできないが」


 近隣に魔術師のいない田舎で、ほぼすべての依頼にひとりで答えていたらしい母親に関して、俺は『腕がいい』以上のことを知り得なかった。後輩だという銀川先生も『天才だった』なんて言っていたが……確かに魔術でなんでもこなす人ではあったが、やっぱり俺からしたら普通のほんわかした母親にしか見えない。


「全く敵わなかったよ。どうしてそんなにうまいんだと聞いたら、返ってくる答えはいつも『なんとなくできちゃうの』だ。きっと私のような凡人の理解が及ばないところにいて、何もかもが違うのだろうと思ったな。だから、世界にたったひとりの君を産んだというのも納得だったと言うか」


 頭の中にぼわっと母親の顔が浮かんだ。俺も何度か聞いたことのあるセリフだ。そういえば四月の十何者面談で、俺も佐々木先生に向かって同じようなことを言ったことを思い出す。


「『なんとなくできちゃう』か。だから先生は、前に俺が母にそっくりだって言ったんですね。まあ俺にはそんな魔術のセンスないですけど」


「ああ、そんなことも言ったかな。まあ、親子というのは思いもよらぬところが似るものなのだと君を見ていると思うよ。不思議なものだ」


 佐々木先生は机の上に広げた道具を、鞄の中に次々まとめながら、カラカラと楽しそうに笑った。俺も自分のものを通学鞄の中に入れていく。


 全てを鞄に詰めたので挨拶をして帰ろうとした時、なぜか佐々木先生はそれまでの笑顔を取り払った顔になっていた。すらりと長い脚を緩やかな動きで組みなおし、こちらをまっすぐに見つめてくる。改まった様子に、思わず身構える。


「……ところで、香坂環。私も一つ君に尋ねたいことがある。その、他言するつもりはないので正直に答えて欲しいのだが」


 何だろう? このタイミングでなんて、まさか『例の噂の真相を教えてくれ』とかじゃないだろうな……?伊鈴先生じゃあるまいし。実は先日サークルに誘われた時、伊鈴先生に例の件のについてを根を掘り葉をむしりとる勢いで問い詰められたのだ。


『で、結局どっちが好みなんだ?』


 俺に尋ねたその目の輝きは、単なる噂好きのおばちゃ……ああいや。なんでもない。学生の色恋沙汰に、あそこまで食いついてくる先生がいた事に俺は衝撃を受けた。曰く『ここには圧倒的に刺激が足りない』んだそうだ。いいのか、先生がそれで。


 しかし、目の前の佐々木先生は極めて真面目な顔をしている。そんな先生が俺にそれを聞く理由は……噂が本当だとしたら校内の風紀にも関わる事なので、苦言を呈するためと言ったところか?


 伊鈴先生のような野次馬根性は持っていないと信じたい。そもそも噂は事実無根なので、俺はそう答えるだけである。


「えっと、なんでしょうか?」


「香坂環、君は、あの『蛍』を本当に?」


「へ?」


 予想外の質問だった。


 入学して数日目の出来事を、今更掘り返されるとも思わなかった。しかし、改めて尋ねられたからにはと宙を見つめ、あの時のことを思い出してみる。


 編んだん、だろ。先生たちみんながそう言っていたから、そうに違いないはずだ。それに、それにあの時何かを見て思い出した『蛍』の出し方は、寝て覚めたら綺麗さっぱり忘れて……え、あれ? おかしいな。


「……いや、なんと言うかな、君はここに入るまでの間、本当に魔術を教わったことがないのか?」


 方法を、忘れてしまっているから? 何かを見て思い出した? のではなく?


 先生の一言で、気がついてしまった。


『鎮静』と『探査』は、確かにどうしてできてしまったのかわからない。自分が魔力を使って何かをしたと言う認識さえなかった。これが、『編んでしまった』ということなのか。


 じゃあ、それ以外は…………あれ、俺は、前に『誰か』に教えてもらっ…………。


 その時、脳の芯を突き刺すような頭痛がして、それ以上の思考を阻まれた。四月以来すっかりご無沙汰になっていた、きんきんと繰り返す痛み。顔が歪んでしまいそうになったが、目の前には佐々木先生がいるので必死でこらえる。


 思い返せば佐々木先生は、本城さんを救出するため『蛍』に近づいた魔術師。あの時から、ことに気づいていたのかも知れない。


「な、ないですよ。だって、違法なんですよね?」


 なんとかそれだけ絞り出した。『誰か』の存在に触れそうになった時、いつもこうして邪魔されてしまう。やはり俺の頭の中には、何かがある。それを仕込んだのはやはり…………一度は鎮めたはずのあの疑念が再び顔を出した。背中がじわっと冷たくなる。


 他言はしないと言われたし、目の前の人のことを俺は信頼している。でも、このことは誰にも明かしてはならない。本能的がそう言っている。


「そうか。そうだな。妙なことを聞いてすまなかった。しかし、どうした? 具合でも悪いのか」


「ち、ちょっと疲れたのかもしれません……すみません」


 眉間のしわは必死で伸ばしていたつもりだったが、顔に出てしまっていたようだ。目の前の人にこの頭痛のことを知られたら、今度こそ病院に送られてしまうだろう。いや、いっそのこと病院に連れて行かれて、どこかに異常があると言われたほうが気が楽かも知れない。


「そうか、今日は少し無理をさせたかもしれないな。寮に帰って早く休め。念のため明日は休みにするか?」


 首を横に振った。本当に疲れているわけではないし、少しでも早くまともに魔術を使えるようになりたい。今は、前に進むために何千回でもやらなければいけない時なのだ。


 挨拶をした後、心配なので寮まで付き添うという先生の申し出を断って、傾いた陽が差し込む廊下をひとり歩いた。昇降口にたどり着く頃には頭痛はすっかり治まっていたが、背中はまだ少し冷たいままだった。

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