馬蹄橋の七灯篭 / 『嗤う田中』シリーズ
日南田 ウヲ
第1話
『馬蹄橋の七灯篭』
1
大阪難波にある新聞社Mの本社ビルは綺麗である。この場合『綺麗』とは新しくモダンであると言う意味であり、本社ビルは2021年に完成した。ビルは二十階建ての白塗りで周囲を阪神高速がビルに沿うように緩やかにカーブしている。その為、阪神高速に乗って関西空港や大阪南部へと行く人達はその姿を車窓から見ることができるが、唯、時間帯によっては白く照らされたビル壁に反射する陽を避ける為に車内で手をかざさなければならず、少なからずそれは時を経ず話題になった。
だがそれは返って大阪の新しいランドマークとしての機能をひとりでに持ち得ることになり、ビル自体が人々の注意を一斉に引き受ける効果をもったことは情報の発信源としての新聞社という意味と広告性を考えれば、悪くはないことだったかもしれない。
そんなビルの一階は大きな吹き抜けになっており、壁にはアールデコ調の大きな時計と現代美術家の作品が並びあって、エントランスとしての格調さを演出している。またその一階にはカフェが併設されており、社員はそのカフェで来客と応対し、また込み入った内容でなければ簡単な打ち合わせや商談の場所として利用している。だからM社の地域社会部記者である佐竹亮が老人を座らせてここにいても誰も不思議がる人はいなかった。
壁に掛かる大きな時計の時刻は午後二時を過ぎた。丁度ビルに陽が掛かり始めた頃である。
老人の年頃は七十五前後かもしれない。先程、老人は東京オリンピックの時はまだ十六だったと言った気がしたから、そうではないか?そんなことをぼんやり思った時、老人の鋭い語調の声が飛んできた。
「おい、あんた。何ぼんやりしとんじゃ。ワシは客やぞ、それだけやない。ここに書いてあるあんたんとこの記事読んで、態々、泉南の山深いとこから足運んできたんや。南海に銭払ってまで来たんやぞ」
はっとして佐竹は老人に向き直る。老人はテーブルの上に投げ出された新聞を叩いている。それは間違いなく当社の全国紙である。
「…ああ、これは失礼しました。すいません、えっと…」
名前を探し損ねている。
それが老人にも分かる。分かると渋面づらになったが、溜息を吐きながら言った。
「猪子部(いのこべ)銀造(ぎんぞう)や、もう二度と言わんぞ」
イノコベギンゾウ、
手帳を開いて素早く書き込む。
「泉南は…あんたが分かるか知らんが、最寄は日根野駅」
「日根野?」
佐竹は首を傾げた。
(確か南海と?)
南海とは南海鉄道の事である。日根野はJR阪和線である。佐竹が首を傾げる様を見て老人が舌打ちして言う。
「今日は、南海側に用事があったんや、それでいいがな。細かいことは」
(まぁ…そうだな)
ペンを手帳に走らす。走らせながら佐竹は老人に聞いた。
「…お住まいはどこですか?」
「住まい?」
「ええ」
「個人情報とかちゃうんか?さっきの駅名だけでええんちゃうんか?なぁ?」
「まぁそう言われれば仕方ないですが、もし記事にするとなれば…寸志程度ですが謝礼もありますので…」
「なんや、銭呉れるんか?」
「まぁそうです」
ふん、と老人は鼻を鳴らしたが当人は満更でもないのかもしれない。舌で唇を濡らすと佐竹に手短に住所を言った。唯、表情が少しいやらしい。金には意外と執着が強いのかもしれない。だが、佐竹はそれを気に留める風も無い素振りで老人の住所を手帳に書き込む。
「それで…」
言いながら老人が新聞を手に取った。
「ここに書いてある通りワシは或る話を聞いてもらう為にここにやって来た」
佐竹が顔を上げる。
「これは二日前の朝刊やが、『東京オリンピックに関連した出来事やエピソードを募集』とあるが、それは間違いないか?」
「ええ、それは間違いありません。僕が担当してますので」
「それならええ、間違いないのなら。それでええ」
老人は自分の中で確認するように声に出して復唱している。
「それで、失礼ですが…どんなエピソード、つまりお話があるんですか?」
にがり笑いする老人。
「エピソードでええやないか?言葉かえんでも、いくら昭和生まれでもそれぐらいの言葉は知ってんで」
老人が笑う。
「いやこれはすいません。それで話…じゃない、エピソード…というのは」
佐竹が言うと老人は笑みをやめて、息を吸った。
「…あんた『馬蹄橋』と言うのは知ってるか?」
「馬蹄橋?」
「ああ、馬蹄っちゅうたら馬の蹄のことや。分かるか?」
「ええ…まぁ」
佐竹が頷く。
「ほうか」
老人が顎を摩る。摩りながら目を細めた。
「昔はなぁ、紀州の高野から難波の津に出るには一度、紀の川沿いに船で下り、今の和歌山にでるのが良く知られているんやが、ただ川で下るには荷物もあまり積まれへんから、大層めんどうやった。それで陸路やと山峰を越えて行ける小さな近道が今の犬鳴山にあった。それは高野の坊主共が難波に行くのに使っていた峠道だったんだが、いつの頃からかそれを知った土地の者が難波へ馬を引いて荷を売り捌く為に使う様になったんや」
老人が話を切り出し始めたので急いでペンを走らせる。老人は話を続ける。
「犬鳴山っちゅうたら義犬伝説もある温泉街やが、まだまだその当時は、まぁ江戸の終わりぐらいにしとくと…あの辺は修験者がうろつくような物騒な山深い所。そしてなんせ近道とはいえ今とは違ってでこぼこの峠道で路面が荒い。いくらなんで馬を引いて紀州から難波に出るには重荷を背負った馬の蹄鉄は峠道までもたない。例え、そう持ったとしても難波迄は到底もたへん。そう誰もが思ったし、事実そうだった。そしたらやな、いつん頃かそこで鉄を打つものが現れたんや」
「鉄?」
佐竹がペンを止めて聞く。
「おう、だがな、そいつはそれだけやない、鉄を打って峠に来る馬の蹄鉄を直し始めたんや。そいつは田中甚右衛門と言うてな、中々の腕やったし、良い蹄鉄をつくりよったから大変評判になり、そうなれば馬を引くもんは安心してその峠道をいけるようになるやろ?それから人の往来が自然とできてな、明治と時代が変わっても評判良く続いたんや。それでその店が在ったとこは丁度山から紀の川に注ぐ支流があって橋が架かっていた。まぁ当時は木の橋やったが…その橋の側にあって峠道の上から下を見れば小さな木橋が掛かり道を挟んでU型に曲がるように見えたし、それにそこで蹄鉄を直すやろ?それは馬の蹄や。だからそれらと合わせて、まぁそこを行くもん達だけかもしれんが『馬蹄橋』と呼ぶようになったんや」
「蹄鉄僑とは言わずに」
佐竹がまじりとして老人に言う。
「言わずにや。そこんとこは兄ちゃん、愛嬌やで、愛嬌、愛嬌、土地のもんの愛嬌にしといて」
それからかっかっかっと笑う。
(愛嬌ねぇ…)
心の中で呟く様に言ってペン走らせ、要点を書く。書きながら佐竹は自然に出て来た疑問を口にする。
「…で、それが東京オリンピックとどんな関係が?」
「急かすな」
「は?」
「いや、話を急かすな。ちょっと水飲むから」
老人はコップを手にすると一気に喉に水を流し込む。上下に動く喉仏とともに皺が動く。佐竹にはまるで蛇腹の様に動いてるように見えた。蛇ならば咀嚼すらする余裕もなく獲物を飲み込む。この老人が飲み込んでいるものは水だが、もしかすると自分が持ち始めた興味かもしれない。
――『馬蹄橋』
なんぞ、知らぬ。
おそらく土地のものしか語らぬ地名だろう。このインターネットで開かれた時代に未だそんな未踏ともいうのか、そんな場所が大阪にあろうとは。
それが興味をそそる。
「兄ちゃん、ぼやっとせんといてや」
再びはっとして老人に向き直る。だが老人は先程の様に不快感は無い。むしろ顔が紅潮している。話が饒舌で相手の注意を引いていることに満足しているとでも言うのだろうか。
「帰りは難波の立呑みで一杯引っかけようかな、いや、いかんいかん、今日は別件があった。気分がええなぁやっぱ人に知らんこと教えんのは」
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