第41話
砂広州にある子豪の砦は荒々しい外観ではあったが、奥に行くほど内部が城のように美しく整備されていた。
進むにつれ調度品が増え、室内は香も焚かれ、全体的に豪華な雰囲気が漂う。
慎王子候補として集められていた二人は、砦の中でもとりわけ絢爛な一室で私を待っていた。思わず室内を見渡してしまう。
金色に輝く像や紫檀の飾り棚。部屋の真ん中に置かれた燭台は石造りで、四瑞獣の彫刻が美しい。
砦は窓が小さいので、昼間でも蝋燭が灯され、たくさんの灯篭が梁から吊るされている。
私と子豪がやってくると、二人は座っていた椅子から同時に立ち上がった。
似たような色の
私は部屋の入り口で立ち止まり、二人の男を凝視した。
――冷冷宮に何者かの骨が埋まっているのは見た。それでもまだ、一縷の望みは残していた。
(お兄様はまだ生きていて、どちらかは本物かもしれない。まだ、分からない……)
二人の若者のうち、一人は明らかに兄とは違うように思える。
目の形と配置が、記憶の中にある兄のものとは完全に別物なのだ。
「慎殿下、この方がどなたかお分かりですか?」
子豪が二人にそう尋ねると、似ていない方の一人は明らかに狼狽した。
子豪は咳払いをすると兵士を呼びつけ、命じた。
「もういい。この方を分からないはずがあるか! こっちは偽物の慎王子だ。砦から摘み出せ」
男は兵士に羽交い締めにされると、喚いた。
「お、俺は本当に慎王子なんだ! 虐待を受けて、記憶を失ったんだよ! 俺は王子だ!」
引っ立てられていく男と目が合ったが、つい、と逸らした。
明らかに兄とは似ていない。兄の名を騙る者を見るのは、決して愉快ではない。
残る男は、優しげな目元と鼻の形が兄に似ている気がした。
兵士が喚く男を連れ出し、部屋に静寂が戻ると男は私を見つめて口を開いた。
「詩月?」
男がそう呼びかけると、子豪は叫んだ。
「分かるのですね! 妹の詩月王女だと」
「勿論。私が唯一、母を同じくする妹だからね」
男は優雅な足取りでこちらに近づき、両手を差し出し、私の手を取った。
「会いたかったよ、詩月。――長い間、お前の手紙だけが私の慰めだった」
思わず男の手を握り返す。
この台詞を、どれほど長いこと直接聞きたいと思ったことだろう。
男は口角をゆっくりと上げると、続けた。
「心配を掛けてすまなかった。あの日、黒龍国軍が押し掛けて来る前に、私は心ある女官と兵士の力を借りて、逃亡に成功したんだよ」
「本当に? ――じゃあ、教えて。私が最後に出した手紙には、何が書いてあった?」
男は滲むように微笑む。
「
「そう。そうよ……」
私は男と手を取り合い、見つめあった。その様子を子豪が満面の笑みで見ている。
「詩月王女、この方は本当に慎王子だと思われますか? ……もっとたくさん質問した方がいい」
子豪に促され、更に質問をする。
「お母様の好きな食べ物は、何だった?」
「からすみだったね。からすみを薄く切った大根に挟んで食べるのが、母上の大好物だった」
そう、その通りだ。
実際、私にはその記憶はなかった。物心ついた頃には、母はもうこの世にいなかったから。
だが、ほかの侍女からそんな話を聞いたことがあった。
「幽閉される前は、お前とはよく大きな水時計のある中庭で遊んだ」
「そうね……」
こらえようもなく、私の目が潤みだし、涙でいっぱいになった。
瞬きと同時に涙が頬を転がり落ちる。
「あのね……、俊熙が、死んだの……」
言葉にしてしまうと、現実の辛さに胸が締め付けられる。
かつて俊熙は私にとって兄と同じくらい大切な人だった。
彼は神仙山脈で突然再び私の前に現れるなり、私の心を完全に奪い、また呆気なくいなくなってしまった。
教えてほしい。
私はどうしたらいいのかを。
男は悲しげに顔を歪ませ、口を開いた。
「そうか……。俊熙はお前のお気に入りの下男だったな。残念だよ」
「俊熙との出会いを、覚えている?」
「どうだったかな。それはちょっと、記憶にない」
男は私の顔を覗き込んだ。
「もう、何の心配もいらない。お前とこれからはずっと一緒だよ。私はこの新華王国の国王になる。
「お兄様……」
「お前には、心配をかけたね。もう、大丈夫だよ。二人で幸せになろう」
熱い気持ちで胸が溢れる。
どれほど、この瞬間を待ち望んだだろう。
この台詞を兄の口から聞きたいと願ったことだろう。
それは夢のような瞬間で、――そしてやはり、夢でしかない。
私はぎゅっと目をつぶって涙を流し切ると、大きく瞳を開けて男をひたと見つめた。
「お母様の形見の指輪は、どうなさったの? してらっしゃらないわ」
「あの赤い石の指輪だね。あれは、冷冷宮に幽閉される前に、兵士に奪われてしまったのだよ」
嘘だ、と思った。
指輪は冷冷宮の床下に埋められていたのだから。
「お兄様。俊熙の大好物は何だった?」
「なんだ、また下男の話かい? そんなことは覚えていないよ」
「私と俊熙が二人でしょっ中食べているのを、お兄様も笑いながら見ていたじゃないの」
「――そうだったかな」
「思い出して。あれは飴がけ
男は私に迫られ、視線を虚ろに漂わせた後、呟いた。
「あれは、……桃饅頭だったかな」
私の口元に笑みが広がっていく。
王宮では飴がけ山査子など、食べない。そして俊熙は桃饅頭が好きではなかった。彼はよく、「甘過ぎる」と文句を言っていた。
俊熙の大好物は
今も、昔も。
二人で庭に出て、王宮の調理場からとってきた干果物を、くすくすと笑いながら食べたものだ。
俊熙は自分の好きな果物ばかり食べて、苦手な杏や
今となっては、なんて小さな事で不平を言ったのか、と思える。好きなものを好きなだけ、食べさせてあげれば良かった。
手のひらいっぱいの干果物は、手のひらいっぱいの二人の幸せだった。
私の幸せは手から全て零れ落ち、もう残っていない。
質問をやめた私に、子豪は期待を込めて尋ねた。
「詩月様、この方は慎殿下に間違いないですね!?」
私はそっと男の手を振り払った。
「いいえ。手紙は冷冷宮に残されていたものを読めば答えられるわ。どの情報も誰かが貴方に入れ知恵したんでしょう?」
そんなことはない、と男は急いで否定する。
だが男は、一番重要な質問に答えることができなかったのだ。
私は隣に首を向け、展開に不満げな子豪を睨んだ。
「貴方が私を必死で探したのは、この茶番に付き合わせたかったからね?」
「茶番とは……!?」
「反逆者だと言われたくないからでしょう? 貴方は民による求心力を失うのを恐れている。だから何としても……偽物を自分の手でこしらえてまで、兄を輿に乗せようとしている」
子豪は震える手で男を指差した。
「何が不満ですか? どう見ても慎殿下でしょう。兄君と会えて、嬉しくないのですか!?」
「偽物よ。嬉しいはずない」
魏司令官は私の両肩を掴んで激しく揺すった。
丸太のような腕に力を込められ、私の顎先から涙が落ち、襦裙の襟元を濡らす。
「言ってください、この男こそが慎王子だと!」
「言わないわ」
「貴女が認めなくても、この男は慎殿下です!」
「そんな、馬鹿げているわ。子豪、――なぜ貴方自身がこの新華王国の初代の国王だと名乗らないの?」
子豪は虚をつかれたように目を瞬き、戸惑いの目を私に向けた。
「貴方は弟の
「無論、そうですが……」
「王都からこの砦まで、民の暮らしを見てきたわ。国王が殺されても、彼らは変わりなく暮らしている」
私は国王が民の暮らしを守り、支えているのだと思っていた。でも、それは奢りだったのかもしれない。実際はその逆だったのだ。
華王国が、一つの王朝が消滅し、けれど人々の暮らしは変わりなくここにあるし、続いていく。
「勇は、良い国王ではなかったのかもしれない。……恥ずかしながら、私は王宮という閉ざされた環境にいたから、それを判断する材料すら持たないの」
子豪は黙って私の話を聞いた。神妙な表情の彼の後ろで、偽慎王子は居心地悪げに頭を掻いている。
「子豪。貴方はここまでのことを成し遂げたわ。かつての華王国の東半分は黒龍国に、西半分は貴方の支配下に置かれたわ。……では、何も
私は子豪の前から一歩下がり、距離をとった。
そうして腕をゆっくりと胸の前に組み、膝を折る。
「詩月様……?」
頭上から彼の戸惑う声が掛けられるが、答えることなく、子豪の足元に膝をついた。
そのまま床すれすれの位置まで、頭を下げる。
「新華王国、国王陛下の拝謁の栄を賜りました」
「詩月様! 私は自分が国王になりかったわけではないのです」
「顔を上げるお許しをお与えくださいませ」
私は許しを得るまで、頭を下げ続けた。
子豪が苦悩するような、粗い呼吸が聞こえる。
だがやがて彼は私を立たせるために、口を開いた。
「顔を上げよ」
私は上半身を起こすと、子豪を見上げた。
「弟は失敗致しました。華王国を支配していた李家に代わり、どうか民をお導きください」
「俺は詩月様に、そんなことを言わせたかったんじゃないんです……」
子豪は苦しげにそう呟いた。
だがその瞳の奥に、野心がぎらついたのを私は見逃さなかった。
誰しも――いや、特にこのように己を信じ、のし上がる者は皆、大なり小なり獰猛な獣のような権力への欲望を、心の内に飼っているものだ。
この男も例外ではないだろう。
慎王子と称する男を担ぎ上げたとしても、ゆくゆくは王位の禅譲を狙っているに違いない。
どちらにせよ、この新華王国の担ぎ上げる慎王子が国王の座にいる時間は、そう長くないだろう。
「私の兄は王太后によって、既に十年前に殺されています。無実の罪を着せられ、その死さえ隠された兄の、その名を利用し死後も名を汚すような真似を、どうかなさらないでください」
「……その話、本当ですか? 王太后が?」
「冷冷宮の床下に埋められたと聞いております。どうか弔ってやって下さいませ」
再び頭を下げると、子豪が私の手を取った。
彼は私をそっと起こすと、言った。
「俺の方こそ、詩月様にお礼を言わねばならないことがあります」
「礼?」
「黒龍国に華王国が攻められる半年前、俺が一度目の反乱を起こした後、魏家はお家取り潰しにあいました。一族は殆どが死罪か流罪になりました。ですが幼い頃に養子に出ていた兄だけは、罪に問われなかったのです」
子豪は一旦言葉を切った。
俯き、何度か瞬きを繰り返す。
家族をめぐる後悔が胸中に押し寄せているのだろう。
やがて深い溜め息をついてから、再び私を見つめた。
「黒龍国の侵攻を前に、華国王が王宮を放棄した時、重鎮ではなかった兄は王宮に置いていかれました。事態に気づかず、興和殿の前で控えていた兄に、詩月様が声を掛けてくれたと聞いています。逃げろ、と」
あの朝の光景が瞬く間に蘇る。
そうだ、私は王宮から逃亡して官吏を置き去りにした弟に怒り、逃げるよう彼らに命じたのだ。
「兄は詩月様のお陰で助かりました」
「そうだったの。良かった……」
「今日ここに持ってきた宝石は、他の誰でもなく、詩月様のものです。お返しします」
「――いらないから、ここから帰っていいかしら?」
そう尋ねると魏司令官はぶっ、と吹き出した。
「持って帰ってください。帰りは送らせます。……失礼ながら、帰る場所はあるのですか?」
「とりあえず、王都に帰ろうかしら。私にはもう、家族と呼べる人はいないから」
「――貴女の母方の祖父はご存命ですよ」
えっ、と戸惑いの声を上げる。
母方の実家は没落し、一族は離散したと聞く。祖母はその結果、出身国の春帝国に帰ったのだ。
祖父とはほんの小さい頃に会ったことがあるだけだ。顔も既に記憶にない。
「揚州の燕緑山に住んでいます。遠征で通ったから、間違いない。燕緑山は南部の神仙山脈の隣に位置し、現地では燕緑仙人と呼ばれているらしいですよ」
「本当に? 私の祖父が……」
それなら、そこに――燕緑山に行ってみたい。
棒立ちになっている偽王子を肩でどかせると、子豪は私を部屋から連れ出した。
そのまま廊下を歩き、階段を下りる。
長い距離を歩き砦の外に出ると、日の光の眩しさに目を眇めた。
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