第36話

 翌日私は何食わぬ顔で明天殿に行き、晶賢妃のお衣装選びをいつも通りに始めた。

 衣装庫で出くわすなり、麗質リージィは呆れたような顔をした。


「皇帝陛下は賓客として詩月王女をもてなすと仰っていたのに……」

「部屋にいるより、麗質さんと仕事をしている方が、楽しいんです」


 大真面目にそう伝えると、麗質は破顔一笑した。


「そう? 嬉しいわ。じゃ、早速働きましょうか!」


 麗質の変わらない態度が、ありがたい。





 皇太后が捕らえられ、皇帝から離宮に蟄居ちっきょを命じられると、後宮には今まで充満していた妙な緊張感がなくなった。

 黄貴妃の懐妊は後宮の人間には周知の事実となり、宮に籠もりがちだった貴妃も、外に出て庭園を散策するようになった。

 今は蟄居の身となっている皇太后だが、じきに皇帝から死を賜ることは明らかだ。皇子を毒殺したのだから。

 だが、懐妊中の貴妃を気遣い、皆がその話題は避けた。

 神策軍が宮城を留守にしており、決して平和とは言えない状況かもしれなかったが、後宮には張り詰めていた糸が切れたような、緩い空気が流れていた。

 その数日間の後宮の雰囲気は、実に穏やかだった。






 妃嬪達の夕餉が終わると、女官達はようやく食事にありつける。

 日が沈み、後宮中の灯篭が灯された頃、私と麗質は食堂で夕食を食べ始めた。

 並べられた残り物から、適当に食べたいものを選ぶので、自分が取ったものが何なのかがよく分からないのが、女官の食事だ。

 混み始めた食堂の席に着き、円柱状の包子にくまんにかぶりつく。驚いたことに、中には麺が入っていた。

 特段味のない麺だ。


「変なの取っちゃいました……」


 思わず呟くと、向かいの席にいる麗質に見せる。彼女はフッと小さく噴き出した。


「小麦粉で出来たものの中に、小麦粉で作ったものを入れないでほしいわねぇ……」


 そう言うと、小皿を私の前に押し出した。


「この鶏足、あげるわ。味が濃いからきっと合うわよ」


 お礼を言いつつ、鶏足を手に取り、口に含む。

 華王国では鶏足は食材ではなかったので、少し戸惑いながら。

 鶏足の可食部は少なく、中を骨が通っている。骨の周りの少しぶよぶよとした可食部を歯でこそぎとるのだが、それがまた慣れていないと難しい。だが甘辛い味付けは、味のない包子と麺によく合う。

 鶏足と麺入り包子を交互に食べていると、食堂の席に着いていた女官たちが、急に次々と離席した。

 ガタガタと椅子を鳴らし、食事を放り出し、一斉に外へと向かう。

 何事か、と出口付近を見やると、女官の一人がどこかを指差し、叫んでいる。


「神策軍が帰城したんですって!」


 私も麗質とさっと目を合わせた後、鶏足の骨を皿に戻し、すぐに望楼に向かった。

 手の空いている女官たちは皆、同じ方向に向かっていた。望楼の近くまでやって来ると、騒ぎをききつけた妃嬪たちや野次馬根性を見せる女官たちでごった返していた。望楼の脇を走る小径から、押し合い圧し合いといった状態で皆が集まっていた。

 なんとか上まで上がると、女官たちが外廷に面した物見台に集まりすぎて、望楼が倒れるのではないかと不安になるほどだった。

 女官たちの頭で外廷が良く見えず、背伸びして高さを得ようとする。

 平雲州行きから帰ってきた兵士たちは、太極殿の前に整列していた。

 以前見かけた姿とは、様子が随分違っている。

 皆泥にでも汚れたのか、遠目にも軍服は茶色く煤けてみえる。甲冑をしていないものも、あちこちに白いもの――おそらく包帯だろう――を巻いたものたちも多い。

 行きは何十本も掲げられ、風にたなびいていた皇帝の旗である翠華は、僅かに数本が残るのみ。

 一見しただけで、平雲州への往復がどれほど難しかったかが分かる。


「先週の出発の時と、随分人数が違いますね。全員帰ってきたわけじゃないのでしょうか?」


 思わず隣にいる麗質に尋ねると、彼女も口元を押さえた。


「まだ平雲州に残っている部隊があるのかしら。出兵の時の半分にも満たないじゃないの」


 露骨に人数が減っているので、俊熙を探してしまう。

 だが殿舎と女官たちの頭に遮られ、よく見えない。

 やがて兵士たちの一人が初老の男を引きずるようにして太極殿の入り口前まで歩きだした。

 兵士によって乱雑に引きずられている男は、両手を綱できつく縛り上げられており、太極殿へと続く階段の手前まで連れて来られる。


「劉 宇航ユーハンよ! あの山羊みたいな髭! 捕まったんだわ」


 太極殿前の広場を見つめていた女官の一人が、そう叫んだ。


 太極殿の階段から降りてきた皇帝が、建物の死角から出て、こちらからもその姿が見える。

 望楼の女官たちは誰一人言葉を発さず、異様な静けさの中で皆一様に皇帝を見ていた。入り口に立っていた皇帝は、何事かを簡潔に命じ、劉氏は兵士にまた引きずられ、どこかへ連れていかれてしまった。

 劉氏にはさまざまな疑惑がかけられていた。これから取り調べが行われるのだろう。


 その一部始終の間、私は数多の兵士の中から、俊熙を懸命に探した。

 だが俊熙は目につくところにはいなかった。




 望楼をおりて仕事に戻ってからは、上の空になってしまった。

 俊熙はどうしているだろう。

 無事に戻ったことを、私に知らせにきてはくれないのだろうか。

 職場である錦廠きんしょうには、いつ戻ってくるのだろう。

 そうこうしているうちに、就寝時刻を迎えてしまった。

 私が突然皇帝に呼ばれたのは、まさに寝間着に着替えようという頃だった。

 突然首席女官に声を掛けられたのだ。






 後宮の出口である大和門を通ると、皇帝が待つ太極殿を目指す。

 こうして皇帝に呼び出されたことは今までなかったので、不安な気持ちが胸中を渦巻く。皇帝から何の話があるのだろう。

 いくつかの殿舎を通り過ぎたころ、向かいから歩いてくる人物と目が合った。

 戸部侍郎の梓然だ。随分遅くまで仕事をしていたらしい。流石は戸部で二番目に高い役職に就いているだけはある。

 私は手を胸の前で組み、軽く膝を折った。


「戸部侍郎様。その節は傘をありがとうございます」


 梓然は一瞬呆けた。


「傘?」

「帝都の年越し祭りでお借りしました」


 ああ、と梓然は表情を緩めた。


「あの時のことか。忘れていた。――年明けに重大事変が矢継ぎ早に起きすぎて、あの休暇が遙か前のことのようだ」


 皇帝に呼ばれている私は、早くこの場を去りたかったが、梓然は私の進路に立ち塞がった。


「――まさか華王国の王女とは、知らなかった。数々の無礼、申し訳ない。お詫び申し上げる」


 無礼とは、どのことだろう?


「とんでもない。こちらこそ色々と教えていただき、勉強になりました」


 そう言うと梓然は苦笑しつつ首を左右に振り、腰を折って丁寧にお辞儀をしてくれた。





 梓然と別れると、太極殿はすぐだった。

 太極殿の白い基壇には、三つの階段がある。中央は皇帝のみが上がることを許されている。

 左右の狭い階段を上って入り口に辿り着く。

 朱塗りの太い柱に支えられた内部は、今夜は異様にがらんとしていた。そのせいか、いつもは穏やかな皇帝の声がよく響く。


「詩月王女。夜中に呼び出したりして、申し訳ない」


 皇帝は奥にある玉座を降り、私の方へつかつかと大股で歩いてきたので慌ててその場に立ち止まり、膝を折る。


「皇帝陛下に拝謁致します」


 皇帝は片手をひらひらと振った。


「そのように畏る必要はない」


 私のすぐ目の前までやってくると、皇帝は私の両腕にそっと手を当て、私を立たせた。

 その表情は宿敵の劉氏を捕らえたにもかかわらず、随分と暗かった。彫りの深い大きな目が、窪んで見える。

 顔色が優れないせいか、生気を感じさせない。

 本来皇帝のそば近くに侍っている宦官も、一人もいない。


 ――俊熙は、どこ?


 嫌な予感に、心臓がどくどくと嫌な鼓動を打つ。

 皇帝は重そうに口を開いた。


「先ほど勇敢なる我が神策軍が帰ってきた」

「はい。望楼からも見えました」

「劉 宇航は私兵と一部の州軍を用いて、激しい抵抗をみせた。最後は渓谷に逃げ込み、船を使って逃げようとしたらしい」


 私は皇帝の顔を見上げていたが、彼はどこを見るとでもなく、大きな瞳をぼんやりと私の後ろに投げかけていた。


「渓谷に逃げ込んだ劉軍を、勇猛なる神策軍右軍が追いかけた。だが、それこそが劉の狙いだった。風上にいた劉軍は油入りの樽を転がし、殿しんがりの船にも火を放った。火は強風に煽られ、撤退の遅れた右軍を……」


 皇帝は言葉を継げなかった。

 語尾が震え、彼は大きな両手で己の顔を覆った。

 喉仏が震え、嗚咽を堪えている。

 私はここまではいくらか冷静に皇帝の話を聞いていた。

 被害が大きかったのは、右軍らしい。俊熙は左軍にいたはずだ。それなら、彼は無事なのだろう。


「右軍は炎に包まれ……」


 続きを話し出す皇帝がまだ言い終わらないうちに、私はたまらず割り込む。


「陛下、神策軍の左軍は……」

「左軍は火を免れた。後々、川を迂回し先回りして劉 宇航を捕らえたのは左軍だ」


 微かに安堵の溜息をつく。

 皇帝は手を顔から離すと、その円らな瞳をやっとの思いで動かすかのように緩慢に私に向けた。

 目が合うと彼は言った。


「詩月王女、申し訳ない」

「陛下?」


 詫びられる理由が分からない。

 皇帝は続けた。


「特殊な地形に逃げ込んだ劉軍に深入りするなと警告する為に、先頭にいる右軍の将校のもとに果敢にも馬で駆けたのは、俊熙だった。俊熙は、右軍が撤退を始めるまでそこにいた……」


 皇帝の口から紡ぎ出されるのは、聞きたくもない情報ばかりだった。

 耳を塞ぎたい衝動に駆られ、無意識のうちに私は正面に立つ皇帝の両腕をきつく握っていた。

 袍の生地を掴み、指先は力のあまり皇帝の腕に食い込んでいる。


「陛下、それでは俊熙は……?」

「右軍の先頭は火が回る前に倒れた劉軍の船に巻き込まれた。右軍生存者の証言によれば、俊熙は大きな津波にのまれて岸壁に叩きつけられ、そのまま川の中に沈み、消えた」

「……きっと、どこかに流されただけです」

「禁軍は探し回った。今も近隣の村々を訪ね、捜索している」


 私は皇帝から手を離し、来た道を戻ろうとした。


「それなら、私も探しに行きます」


 踵を返しかけた私に皇帝が手を伸ばし、肩に手をかける。


「まだ劉軍の残存兵がいる。川の流れは激しく、渓谷も急峻だ。火も燻っている。到底王女が行ける所ではない」


 そう言うなり、皇帝の目から一筋の涙が溢れ、頰を伝った。


「状況は、非常に厳しいと言わざるを得ない」


 彼は自身の濡れた頰を拭うと、私を見た。


「突然のことすぎて、理解が追いつかないであろう……」

「でも……俊熙はただ怪我をして、下流まで流されて動けずにいるだけかもしれません」

「希望を最後まで捨てるつもりはない。今、人手を挙げて全力で捜索させている」


 皇帝はそう言って私を慰めたが、その口調にあまり希望を感じさせない。

 皇帝は私の両肩に手を添えた。


「詩月王女。俊熙がたとえ戻らなくとも、春帝国にいてくれ。余はそなたの幸せを俊熙に約束したのだ」

「幸せ……」


 私の幸せは、俊熙がいてくれることが大前提だ。


「きっと、帰ってきます。見つかります」

「すまない、詩月王女。本当に申し訳ない」


 謝らないでほしい。

 まだ何も決まっていない。


「そもそも、なぜ俊熙は劉 宇航を捕らえに行かなければならなかったのですか?」

錦廠きんしょうで暗躍するよりも、直接劉軍を押さえ込む役回りを俊熙に与えたかった。そうすることで、皇太后派一掃の暁には、俊熙を正式に文官として六部内に据える予定だった。錦廠は俊熙が居るべき所ではないからだ」

「宦官の俊熙を、正式に官吏に?」


 皇帝は私の背をそっと押し、太極殿の奥まで歩いた。

 玉座のある高台に隠れて、さらに奥に通じる扉がある。

 皇帝がその目立たぬ簡素な扉を開けると、その先には小さな書斎が広がっていた。太極殿の裏には小さな宮があり、皇帝が執務の合間に休憩をとる空間となっていた。

 宮の中には横たわれる長椅子や卓、それに本棚があった。

 皇帝はその宮に私を招き入れると、濃い木の色の扉をそっと閉じた。

 そうして両手を後ろで組むと、小さな部屋の中を歩き回り始め、話し始めた。


「俊熙は、本当の宦官ではない。本当は去勢手術など、受けていない」


 驚きのあまり、返す言葉が見つからない。

 それは万春殿日誌や女官たちの希望の中だけの話のはずだった。じつはついているらしい、などという女官もいた。

 だが、それが事実だと俊熙を雇った皇帝自身からすら言われるとは、予想もしなかった。


「どうして宦官のふりなどしていたのですか?」

「それが短期間で高位にのぼり詰められる、最も現実的な選択だったからだ」


 皇帝は深い溜息をつき、私を見た。


「そなたに今俊熙をかえしてやることが、出来ない。だが、余だけが知っている、俊熙の思いをそなたに伝えねばなるまい」


 そう言うと、皇帝は語り始めた。

 私の知らない、俊熙の物語を。

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