春帝国 宦官の章

第23話

 

 俊熙が大左遷されることになった噂は、後宮中に瞬く間に広がった。


「蔡侍従のお顔が、見るに堪えないほど腫れていたそうよ」

「あの美貌になんてこと! あのヒゲ面翰林学士! ヤギ男!」

「でも辞令を受けても、蔡侍従は殆ど動じなかったそうよ」

「それはだって、あの鉄面皮の侍従だもの。それに、義母に頭が上がらない皇帝陛下に、ついに愛想が尽きたんじゃないの?」


 女官達は様々に言い立てた。


 正午ごろになると、仕事を放り出してたくさんの女官たちが持ち場を離れてどこかへ向かった。

 何かあったんだろうか。

 訝しく思いつつも、忙しくて自由に動く時間がない。

 年末の長期休暇を控え、年内にやり終えねばならないことが山積みなのだ。

 私は麗質と手分けをして、晶賢妃の装身具の洗浄を行っていた。

 柔らかな不織布に磨き薬を塗り、銀製の首飾りを優しく拭っていく。そうすると錆びて霞んだ汚れが落ち、不織布に黒い色が移る。

 磨くほどに銀のくすみが取れ、きらきらと美しい元の輝きを取り戻していく。

 麗質と二人でそうして丁寧に賢妃の持ち物の手入れをしていると、花琳が部屋の中に飛び込んできた。


「珠蘭、蔡侍従がこれから内侍省を去るわよ!」


 私と麗質は作業を中止すると、花琳の後を追って急いで内侍省へ向かった。



 内侍省の殿舎の外には、既に野次馬の宦官や女官たちがたくさん集っていた。

 あろうことか、淑妃と徳妃の姿まであるではないか。まだ若い徳妃は、涙を手巾で拭っている。


 俊熙は殿舎の入り口に立ち、腕には大きな木箱が抱えられている。おそらく次の職場に持って行く私物が入っているのだろう。

 遠目にも彼の頰と目の上の痣が痛々しく、目立つ。

 俊熙の周りには、同僚の宦官たちが集まり、別れを惜しんでいる。

 中には俊熙の袖をつかみ、涙を流している宦官もいた。

 やがて皆に一礼をすると、俊熙は内侍省に背を向け、殿舎の階段を下りた。

 その表情は意外にも、晴れ晴れとしており、屈辱からはほど遠い。

 そうして俊熙は後宮の外にある、内廷南西の小さな殿舎の中にある、窓際部署へと移っていった。





 翌日、私は昼休みに大和門を抜け出ると、南西に走った。

 俊熙の様子が心配だった。

 麗質に教えてもらった地図を頼りに、碁盤の目状に広がる宮城の建物の間を、ひた走る。

 内廷と外廷を区切る長い塀の角に、錦廠の殿舎はあった。

 宮城の中にあるほかの建物に比べれば、かなり小ぶりで瓦の色も霞んでいる。手入れが行き届いていないのだろう。


「あれなの?」


 随分見劣りする素朴すぎる殿舎を前に、しばし佇む。

 思い切って近づくと、急に私の目の前に槍が突き出された。


「止まれ、何者だ!」


 驚いて一瞬息が止まる。

 槍を構えた衛士が、私の前に突然現れ、行く手を阻んでいる。

 銀色の兜の下から覗く目は鋭く、槍の刃先はぴったりと私の鼻先に当てられている。

 私は両手を上げて、非武装を主張する。


「蔡侍従のいとこの、蔡 珠蘭です。蔡侍従に会いにきました」

「言付けてくる。ここで待て」


 いうなり衛士は殿舎の中に入っていく。

 いくらもしないうちに、中から俊熙が出てきた。

 彼は私を藪睨みし、少し不機嫌そうな顔をしていた。

 迷惑な登場だったらしい。

 私の前まで歩いてくると、彼は腕組みした。


「勤務中に用もなく、後宮を出るものではありません」

「昼休み中だから、大丈夫よ。どうしているのかと思って」


 すると俊熙は片眉を跳ね上げた。


「窓際なりに、それなりに雑務をこなしておりますよ」

「衛士がいるなんて、驚いたわ。あの衛士は貴方を見張っているの?」

「私を? ――ああ、そういう風に見えるのか…」

「違うの?」


 俊熙はそれに答えず、殿舎から離れるように歩き始める。


「俊熙が悪くないことは、みんな知っているわ」

「それは慰めてくれているおつもりで?」


 苦笑しつつ俊熙が私を横目で見下ろす。

 紺色の宦官用の官服は遠目には一見変わりないが、よく見ればその地位を表す腰の革帯は見慣れたものとは違い、飾り気ない。

 袖口の刺繍もなくなっている。


「あの、落ち込んでいないかと思って」

「落ち込んでおります」


 あまりそうは見えないけれど。


「顔の腫れが昨日よりだいぶ引いたみたいで、良かったわ」


 私は腰帯の巾着をこっそりと開けると、中から手の平に乗る大きさの紙包みを出した。

 それを俊熙に差し出す。


「干し果物よ。葡萄と芒果マンゴーの」


 俊熙は黙ってそれを受け取った。

 何やら物言いたげに、紙包を見つめている。


「たしか、それ大好きだったでしょう?」

「――覚えていて下さったのですね」

「当たり前でしょう? 大切な人の好物は、忘れないの」


 俊熙は微かに眉根を寄せ、私を見上げた。

 もしかして、食の好みが春帝国に来てから、変わってしまった?

 もう好きじゃなかっただろうか。


「無邪気にそんなことを仰るものではありません。勘違いされて、痛い目に合うのはご自分ですよ」

「どう言う意味? 本当のことを言っただけじゃないの」


 すると俊熙は首を傾けて、蔑むような眼差しで私を見下ろした。


「その八方美人な態度であの堅物、戸部侍郎の梓然をグラグラさせているというわけですか?」

「梓然がどうして出てくるの」


 梓然と噂があるのは、俊熙の方なのだが。


「陛下の前で、庇っていらした」

「あれは、面倒ごとを避けたかったからよ。――万春殿日誌も持っていたし」


 一瞬嫌な記憶が蘇りでもしたのか、俊熙が目を見開くと顔をしかめて目を閉じ、額を抑えた。

 やがて振り切るように顔を上げると、彼はどこか挑発的な目つきで私を見た。


「戸部侍郎はそうは思わなかったかもしれませんよ?」

「梓然は何も関係ないでしょう」


 思わず俊熙の肘を掴むと、彼はそれを振り払った。

 手の中から俊熙の肘が抜ける。

 彼は険のある瞳で私を見た。


「気安く異性に触るものではありません。貴女はお幾つです? 年頃の女性でしょう」

「十六歳のふりをした、二十歳よ」


 計らずも俊熙が噴き出し、笑った。

 だがすぐに表情を引き締め、私をキツく睨む。


「ご自分が世間知らずだと、自覚された方がいい。――それとも男を誘ってるのですか?」


 かぁぁ、と自分の顔が熱くなるのを感じる。

 俊熙が、まるで私を男好きのように非難している。私は何も変わっていないのに、俊熙には私の今の姿があの頃と違って見えるのだろうか。


「違うわよ! 私、ほかの男の人にこんなことしていないわ。貴方が幼馴染だからよ」

「貴女はそういうことに疎いですからね。――清雅国に嫁ぐ日も、嫁ぎ先で何をされるのか全く分かっていらっしゃらなかった」


 不意をつかれ、言葉が継げない。

 あれから色んなことがあった。俊熙と別れて六年の月日が流れ、私も大人になった。

 本当はあの詩月王女は、今どこにもいない。


「私を幼馴染だと、今もそう思っていらっしゃるのですか?」


 俊熙が数歩大股でこちらに寄り、私の至近距離に迫った。

 後ろの塀に追いやられる。

 どん、と塀に俊熙が右手をつく。

 春帝国の後宮に来たばかりの時に、私にしたことをまた俊熙がしようとしている。

 展開を察知した私は、反対側に逃げようとしたが、俊熙は残る左手も塀につき、私を封じる。

 私を追い詰めると俊熙はぐっと身体を寄せた。

 頭上に彼の息がかかる。


「俊熙、離れてよ」


 なんとか強気な表情を作り、俊熙を睨みあげる。


「貴方ったら、女官たちに陰でこういうことをしているの?」


 まじめに諭しているのに、俊熙は薄く笑った。


「だったら、どうされます?」

「下品だわ……! 女性を誑かそうとしているみたいだし」

「……貴女にしか致しませんよ、こんなこと」

「そ、それなら良かっ…」


 いや、そうじゃなくて。

 身体を捩って反転しようとすると、俊熙の右膝が私の足の間に割り入れられる。

 普段は人に触れられない太腿の内側に、彼の体温を感じる。

 かっと身体中が熱くなり、俯いていた顔を上げ、俊熙をにらみ上げる。


「やだ、やめて。足をどけてよ」


 懇願はあっさり流され、俊熙は更に身体を押し付けてくる。

 心臓が暴れる。


「衛士が見てるかもしれないでしょ? お願い」

「彼等は余計な口外はしません」

 

 そういう問題じゃなくて。

 動くと内腿に俊熙の足が当たり、顔から火がふくほど、恥ずかしい。いや、じっとしていても当たっている。

 あの口先だけは遠慮がなかった下男から、身分差を取り払うと、こんなことになってしまうのか。

 俊熙は私に囁いた。


「私は左遷に落胆してはおりません。ご案じなさいますな。ですから、錦廠には二度といらしてはいけません」


 最早息苦しいほど俊熙が私に身体を押し付けてくる。

 わかったから離して、と何度も懇願すると俊熙はようやく離れてくれた。

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