舟は流れて
紀乃
春はじまりて
春期休暇最後の日、トウイチは自転車で街に漕ぎ出ていた。昨年から猛威を振るう新型ウイルスの影響もあり、休暇中はほとんど室内ですごしていた。しかしずっと巣ごもりでは不健康だと思い立ち、街中をサイクリングしているわけである。
(二か月もネット漬けってのはな……。天日干ししないと)
トウイチの住む街は昔大藩の藩庁があった場所で、中心部には藩庁を開くために開削された河川が通っている。そうした物流の基盤があるため河川の周りには町工場が多く、地元の人間の重要な就職先となっている。
河川沿いの道は緩やかな一本道で、等間隔に植えられたサクラの木は満開になっている。舞い落ちた白い花びらで鮮やかな様相になっていいる道を自転車を走れば、春特有の空気が体を吹き抜けていく。
(マスク、外しちゃだめかな?)
清涼な風をマスクを外して体感してみたいが、世情によりそうもいかない。感染のリスクよりも周囲の目を配慮しなくてはいけないからだ。
着いたのは大藩時代に栄えた渡船場跡だった。いまは公園として利用されており、大きな石垣で造られた敷地内には三人ばかり人影が見える。誰もが地元の年金生活者と思われる人々だ。
瓦屋根の東屋の前に自転車を停めて船着場の先まで歩けば、ここで幅が広くなった河川の対岸の様子がよくわかる。低い町工場の建物がひしめく上には、ほんのり灰色をした雲がかかっていた。トウイチはジーンズのポケットからスマホを取り出して、その風景を写真に撮った。
清涼な空気を感じながらいい風景の写真を撮るのは楽しい。しかし明日からはじまる大学三回生の生活を思うと溜息しか出ない。新型ウイルスによる就職難で、そうした対策講座はもう明日からはじまるらしい。
「今晩も、なにか夢を見れればいいけど……」
現実逃避気味にトウイチは呟く。深呼吸してみれば河川からはほんのり潮の香りがした。
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