第40話 プロポーズ

久しぶりに南先生の家に行く。

研究メンバーには「どうしても今日は休ませて」と頼みこんで日勤後に帰れることになった。

研究メンバーはニヤけながら「大丈夫ですよ。楽しんでください」と私の胸元を見ながら言っていた。

スタッフの中で一番最初に業務を終わらせ、休憩室のロッカーからバッグを取り出す。

今日のために買った下着とネックレスの袋を確認する。

忘れ物ないよな。

緊張と不安と期待が入り乱れる心を、強い覚悟で締め上げる。

意外と涙もろいから泣いてくれると嬉しいな。

そういえば、何が食べたいか聞いたら「お刺身」と言われた。

誕生日にお刺身って。

空っぽの冷蔵庫に醤油だけはあったから、お刺身は時々食べてたのかな。

最寄駅にあるデパートの地下でお刺身を買おう。

ケーキは好きではないのでケーキの代わりにプリンを買おう。

この間モロゾフのプリン好きって言ってた。

やっと好きな食べ物が分かった。

プリンが好きとか言ってかわいいな。

強い覚悟で締め上げた心が、今度は愛おしさで一杯になった。

口元が自然に緩む。

今日はオペもカンファもないし、担当患者は最近落ち着いているから早く帰れそうと言っていた。

早く行かなきゃ。

緩んだ口元に力を入れて無理矢理元に戻す。

休憩室の扉へ向かおうとすると、外から他の看護師の声が近づいてきた。

いつもよりも声が大きい。

そんな大きな声で話すと患者に迷惑なんだけど。

さすがに注意しないとと、扉の前で待ち構える。

扉が開くと同時に後輩の看護師達は私に声をかけてきた。

注意する間もなかった。

というか、注意するとかそんなどころではなかった。

「良かった! 青木さんまだいるかなって急いで来たんです! 南先生、来年からアメリカの病院行くんですって! なんか、5月には決まってたみたいで! 知ってました?!」



えっ……



なに、それ……



あまりの衝撃に全身の力が抜けていく。


バッグが肩からずり落ち床に落ちた。


「青木さん、どうしたんですか?」

「あ、ちょっと、びっくりしちゃって、なんか」

今の返答は心の動揺を隠せた気がしない。

「びっくりですよね。私達もさっき聞いて」

バッグを拾いながら聞く。

「それって、本当なの?」

「昨日のカンファで正式に発表があったって、師長さんが言ってました」

「チョコレートのお土産くれた学会でなんか気に入られてとんとん拍子らしいですよ?でも、何年か前からそんな話出てて、いつでも行けるように準備とかしてたって聞きました。色んな手続きとか? よく分かんないですけど」

「それにしても先生減っちゃって大丈夫なのかなあ。南先生って医局引っ張ってるよね?」

「だからじゃないの? 期待されてるからアメリカに経験積みに行くんじゃないの? 戻ってきたら医局長とか!」

「いくら南先生できる人でもさすがにそれは年若すぎじゃない?」


五月に決まってたって。

五月。

もしかしてこのことだったの……


「先に帰るね」

「お疲れ様です」

着替えた後、私はそのまま駅に向かった。


刺身盛り合わせと、和食の惣菜をいくつか買った。

モロゾフのプリンも買った。

先生がよく飲んでいるレモン風味の炭酸水も買った。

けれど。

私は先生のことをまだ何も知らない。

先生が何を考えているのか全然分かっていない。

買ったものが入っている袋の重みは虚しいだけだ。

どうして言ってくれなかったのだろうか。

答えが見当たらない疑問がずっと頭の中をめぐる。

気がつくと南先生の玄関の扉の前にたどり着いていた。

部屋に入り、買ってきたものを冷蔵庫へ入れた。

何もする気がおきない。

ソファへ崩れるように座る。


私は来年度小児科に異動する。

希望が通ったことを先生の誕生日に言って、一緒に喜んでもらおうと思っていた。

先生もそのつもりだとは到底思えない。

五月には決まっていたという。

先生の様子がおかしかった時だ。

その時、先生は私に何も言ってくれなかった。

先生はずっと何を考えていたのか。

アメリカっていつ行くの? 

いつもどってくるの?

その間、私はどうすればいいの……

その時気づいた。


それは私が決めることだ。


え。

待って。

ちょっと待って。

それって、それってもしかして……

それに気づいた時、今までのことが次々とつながり始める。


先生は。

南先生は、最初から私に全部決めさせてた。

先生が私に告白してきた時、それからずっと私が決められるようにしてきた。


付き合いたいと私が決めた。

部屋に行きたいと私が決めた。

名古屋に行くのも、半同棲する時も、半同棲を解消する時も。

それ以外だって、先生はいつも「〜してくれる?」って言って私に決めさせてた。

全部、私の意思。

そして先生は私が決めたことに拒むことはなかった。

先生と一緒にいることは私が決めたことで、先生から言われたことじゃなくて。

そこまで分かると涙が溢れた。

二十八歳になって、先生が付き合う時に言っていたことの意味が分かってきた。

あの時は先生の臆病な部分の現れだと思っていた。

今考えると私の若さで理解できなかったのだと思う。

先生は宣言通り三年かけて私をどんどん好きにさせた。

先生以外考えられないし、自分の幸せに先生は不可欠だ。

だからこそ先生が危惧していた不安がチラつくことに苛ついた。

でも今は、むしろそんなことはどうでもよくて、南綾乃が私のそばにいてくれさえすればいい。

私はこんなに、こんなにもあなたのことが好きなのに。

あなたのことを愛しているのに。

あなたはなんで、私にこのことを伝えられなかったの?

バッグの中の水色の紙袋が目に入る。


プロポーズなんてできないじゃん。


しばらく涙が止まらなかった。

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