将棋ではあかりさんを救えない
『三月のライオン』の最新刊を読んだ後に第1巻を読んでみたら、零君の顔が今よりも老けていることに驚いた。この作品は時間がきちんと経過するタイプのものであり、たとえばひなたは明らかに今よりも幼い。
零は、作中で成長もしていくのだが、同時に子供時代のやり直しもしているのかもしれない。両親を亡くして、プロ棋士の世界に飛び込んで、彼は普通の子供らしい日々を送ってこなかった。「大人のような立場」が作ったのが登場時の表情であり、そこから「普通の子供として」の日々を徐々に過ごせるようになったのだろう。
最新刊では表情が穏やかになっただけでなく、私生活も充実してすっかり「救われた」感じになっている。このまま幸せになれるんだろうなあ、と安心して見ていられるまでになった。しかしだからこそ、物語の中で救われていない登場人物たちのことが気になってしまう。
その一人は、香子である。零の義理の姉であり、姉弟子ともいえる。零に勝てなかったことから将棋をやめることになるという、主人公とはかなり因縁のある関係となっている。彼女が好意を寄せるのは父親の弟弟子で、妻帯者である後藤。とても救われる気がしない。
そして同じく救われていないのが、ひなたの姉のあかりである。両親がいない中、妹たちの母親代わりとなって働いてきた。自分の幸せを常に後回しに考えているような節がある。その容姿から多くの人々から好意を寄せられるが、彼女を救えそうな人が現れているわけではない。
零にとってあかりは「優しくて綺麗なお姉さん」であるはずだが、異性として魅力を感じるような表現はない。零にとってもまた、彼女は母親代わりのような立ち位置なのだろう。ひなたを救うためならば少々の無茶をする彼にとって、あかりは救うべき相手に見えていない。読者は神の視点で見ているのであかりさんの苦しみは見て取れるのだが、登場人物にとってはやはり「ニコニコとした綺麗なお姉さん」に見えているのだろう。
香子と違い、あかりは苦悩からすぐに行動に出るタイプではない。それどころか周囲の幸せな様子を見て、それを見守るのが役目とすら思っていそうである。もしあかりを救える人がいたら、それは「優しくない人」ではないかと思う。彼女に必要なことをすべて隠さず言ってしまい、彼女が望むこと(おそらく、家族のありきたりな幸せ)をかなえてあげようとはしない人。
ひなたも香子も、「将棋に打ち込む人」の輝きに救われている。物語が将棋をテーマにしている以上、魅力的な男性の魅力の源はどうしても将棋になる。しかし、あかりを救えるのは、そういう人ではないと思うのだ。あかりは困った人、空腹な人に満足を与えることに幸せを感じる。そして、自らの満足を自ら与えることに慣れてしまっている。与えられる喜びを知り、わがままな幸せを感じられるようになるには、勝負の世界にはいない、感受性豊かな人が救いに来る必要があるのではないかと思うのだ。
零は、将棋の世界で強くなっていこうとする姿が眩しい。その輝きから来る危うさもまた、人間的な魅力となっているだろう。零はどこまでも優しく他者に向かえる強さがある。しかしその優しさがあかりに向かう時、あかりの目指そうとしている姿も応援してしまう。「家族のために生きる」ことをアイデンティティとしているあかりに優しさが向かう時、より強くその決意は固められてしまうのだ。末妹のモモが大人になるまでは、彼女は母親代わりという役割を完璧に受け入れるつもりだろう。自らを好きになってくれる人がいるとか、デートをするとか、そんなことは想像もしていないように見える。
つらい。そんなあかりさんを見ているのがつらい。零は新しい家族に馴染めず、自ら家を出た。そして出会ったひなたと、将来家族になることまでを想像している。その一方であかりは、崩壊していく家族を守るため、そこから出ていくという選択肢は全くなくなってしまっている。零は店を手伝うため、共に暮らす家族になってくれるかもしれない。しかしそれは、彼が選び取ることである。しかしあかりは、何を選び取れるのだろう?
あかりを救えるような人が目の前に現れたとしても、彼女がそれをすんなりと受け入れるのは困難だろう。なぜならば少しでもわがままさが見えれば、父親を思い出さずにはいられないからだ。家族を捨て、舞い戻ってきてかき乱す最悪の男。そんな父親のような男だけとは仲良くすまい、と決心していると思う。けれどもなんでも受け入れてしまうあかりにとって、必要なのはかき乱す人ではないかと思うのだ。作者がどこまで意識しているかはわからないが、そういう「血の残酷さ」は本作のテーマでもあると思う。
あかりに好意を寄せる林田先生や島田八段は、人格者であるがゆえに彼女の心の深層までたどり着ないのではないか、と感じる。もしくはたどり着くために、一皮むけるような話が今後用意されているのかもしれない。少なくとも今のままでは、「綺麗で優しい女性」への対応以上はできないだろう。
『三月のライオン』は、どのように着地していくのだろうか。あかりさん救われてくれ! という思いが日々強くなっていくのである。
参照 羽海野チカ『三月のライオン』(2007-)白泉社
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