第5話


 二学期になった。体罰廃止の方針をクラスで発表した担任もいたが、照義はしなかった。岩谷のような生徒がいる前でそれを言うことは、こちらの丸腰を示すに等しいと感じたからだ。しかし言わなくても、教師が棒を持って来なくなったのを見れば分かることだった。生徒の前に立った時、体罰廃止の方針は照義には一種の不自由さとして意識された。行動の選択肢の一部を予め奪われているという制約感、ー思うようには動かせない体の重さのような感覚としてそれは意識された。                

 新しい方針は新しいやり方を教師に要求した。照義はこれまで提出物忘れや遅刻の生徒に対して、一定限度を越えると尻を叩いていたが、それができなくなったので、代りに掃除を課すことにした。当番ではなくても放課後残って掃除をするのだ。その監督など教師の負担は増えた。

 岩谷は二学期が始まってしばらくは目立つ行動はなかったが、九月の下旬、また照義との衝突が起きた。古文の文法の豆テストを終えて、授業に移ろうとした照義は、岩谷の机の上に教科書が出ていないのに気づいた。彼はすぐに教科書を出すように注意した。二学期になってからの岩谷の授業態度は彼にしては良い方だったし、注意にもあかららさまな反抗は見せなかったので、注意はしやすかった。

 岩谷も少しは変ろうとしているのかなと照義も思わないではなかった。岩谷は鞄を覗いて教科書を捜すしぐさをした。照義は岩谷が教科書を取り出すまで注視しているのも適当でないと判断してそのまま授業に入った。五分ほど授業を進めて、岩谷の机の上に視線をやると、ノートはあるが、教科書は依然として見当たらない。「岩谷、お前、教科書忘れとるのか」と照義が言うと、岩谷はうるさそうに照義を睨んで、ノートを上に上げ、「ここにあるわい」と、その下の教科書を示した。こいつ、俺をひっかけたな、と一瞬照義は思った。同時に、こいつはやはり変っていない、とわずかでも期待を抱いた自分を嘲笑う気持も起きた。怒りと岩谷が二学期に入って始めて見せる反抗に緊張して、照義は少し余裕を失った。「ちゃんと開けとかんか」と彼は反射的に言った。〈ノートで隠してどうするか〉とか〈読めるように出しとかんか〉とか言うべきところだった。岩谷は照義の言葉に、「開けとるっちゃ」と、教科書を上に上げて示した。なるほど、どこを開けているかは分からなかったが、教科書は閉じられてはいなかった。やられたな、と照義は思った。ひっかけるような紛らわしいことはするな、と言いたいところだったが、「注意を受けんようにしとけよ」とトーンダウンした言葉を照義は返した。すると岩谷は、「俺ばかり注意する。目の敵にしないでください」と文句を言い出した。

 照義の目が岩谷に向きがちなのは確かだった。一学期に三度も衝突しておれば、彼が他の生徒より岩谷を意識するのは当然とも言えた。しかし照義は客観的に見ても自分が岩谷ばかりを注意しているとは思えなかった。よくないところが目につけば他の生徒も注意しているつもりだった。彼には他の生徒の方が注意しやすかったのだから、注意の数はむしろそちらの方が多いはずだった。一人対複数では比較にはならないのであるが。とにかく授業中、照義の意識に占める岩谷の比重は大きかった。視界のどこかで彼の姿を捉えているので、「自分ばかりを注意する」と言われると、そうかも知れないと彼も自らを顧みる部分があった。  

 「俺はお前ばかりを注意はしよらんぞ。お前が注意を受けるようなことをするからだ」と照義が応ずると、「びびっとんのか。あんたは嫌いだから言うことはきかん」と岩谷は言った。それはこの前の衝突の再現だった。照義は自分の無力を思った。本当にぶっ叩く教師にはこんな物言いはしないのだろうがとも思った。教壇を下りて叩きたい衝動を覚えたが、体罰は既に禁止されているのだった。「俺も好きで注意しよるわけじゃない。せんで済むのが一番いいんだ」と照義は言った。「そんならするな」と岩谷は応じた。照義はムカッとしたが、「お前は学校という所がどういう所か分かっとんのか」と問い返した。岩谷は苦い表情をして照義を見た。照義は一呼吸置いて、「教師から注意を受けて、それが聞かれんのなら学校をやめろ!」と大きな声を出した。岩谷は照義の顔を睨んだ。「教師の言うことが聞かれんのなら学校に来る意味がなかろうが」と照義は言葉を続けた。すると、スイッチを切り換えるように岩谷はニヤリと笑って、「わかった」と言った。「わかったか」と照義は少しほっとした気持を感じながら問い返した。「はい、はい、わかりました」と岩谷は俯いて首を縦に振りながら答えた。それは口先だけの言葉であることが明らかな口調であり態度だった。しかし〈何だ、その言い方は〉とは照義は言えなかった。おとなしくなりかけている岩谷を刺激することを恐れた。教師には他の生徒達の目というプレッシャーが常に加わっている。生徒達の前で彼は岩谷から教師としての対面を損なう言葉をこれ以上浴びたくはなかった。照義は代りに言葉遣いを改めるように言った。教師に対する言葉遣いについての注意であり、この前の衝突の時言い聞かせたはずのことだった。言いながら彼は情けない気持を感じていた。岩谷はこれにも「はい、はい」と二回返事で応じた。照義はさすがに怒りを覚えた。これで終っていいのかと思った。岩谷の態度に見合う激しい言葉を浴びせたかった。しかし一方でこれで終りにしろという思慮も働いていた。体罰も禁止されているんだ、これ以上関わっても意味がない、という気持があった。迷って教壇を行き来する十秒足らずの時があり、「つまらんやっちゃ」と照義は岩谷の方は見ずに吐き捨てるように言った。すると、「まだ言いよるんか。言いたいことがあったらはっきりと言え!」と岩谷が吠えた。「ぐちぐち言うのがムカつくんたい」と続けて噛み付くような語勢で言った。「はっきり言うとるやないか」と照義が応じると、「わかったと言ったのに何でまだグチャグチャ言うんか」と岩谷は大きな目を剥くようにして照義を睨んだ。この二人のやり取りは四十名の生徒達という言わばギャラリーの前で行われているのであり、双方がそれぞれにその目を意識しているのだった。「分かったなら分かったらしい態度を取れ。お前の態度には本当の反省が見られん」と照義はようやく本音を口にした。「それはあんたがそう思うだけやろ」と岩谷は言い返した。「ほら、またそういう言葉遣いをしよろうが。反省してない証拠やないか」と照義が指摘すると、一瞬詰まるが、「それはあんたがムカつかせるからたい」と言い返す。二人の応酬は更に二、三度続いた。照義は、「職員室で話をしよう。貴重な授業時間をこれ以上潰すわけにはいかん」と言って打ち切ろうとした。岩谷は「そんな暇はない」と反発したが、その声のトーンは下がった。「くだらんことで時間をとった」と照義は吐き捨てるように言い、二人のやり取りは打ち切られた。

 チャイムが鳴った後、照義は職員室に来るよう岩谷を促したが、「そんな時間はない」「なんの話があるか」などと言って従わない。「廊下に出ろ」と言うと、これには従って出てきた。向き合って照義が、「お前は俺の言うことが聞けんのか」と改まった調子で尋ねると、「聞けんこともない」と、少し考えるような顔付きをして岩谷は答えた。照義は岩谷の変化を感じとった。「それなら聞けるんだな」と訊くと、頷いた。照義はほっとしながら、さて、何を言ったものかと少し迷ったが、「言葉遣いに気をつけろ」と、さっきの注意を繰り返した。「わかった」と岩谷は答えた。もっと何かを言わなければいけないと思いながら、照義には言葉が浮かんでこなかった。自分でも中途半端だと思いながら、「よし」と言ってしまった。岩谷は薄笑いを浮かべて教室に戻った。

 職員室に帰り、興奮の冷めない頭で照義は出来事を反芻した。言わなければならないことを言い切っていない、閊えたような感覚があった。それは言うべきことを言えなかった屈辱感として彼の胸を焦がしていた。もっと岩谷をガツンと凹ますようなことを言うべきなのだった。それができなかった悔しさが彼にあれこれと反芻をさせていた。彼は何か言い落としたことはないかという形で出来事を反芻し、その結果言い落としたことを見出だした。それは「あんたは嫌いだから言うことはきかん」という岩谷の言葉に関することだった。その教師が好きであろうと嫌いであろうと、事柄の道理に関係はない。誰から注意を受けようと、道理を弁えることが大事なのだと照義は岩谷に言っておきたくなった。やはりあの時言うべきことはあったのだと彼は悔やんだ。しかしまた岩谷を呼び出して言う気はしなかった。

 面倒なことにその日はもう一時限受持ちクラスの授業がある日だった。そうでなければこの事はそれで終りになる可能性の高いことだった。照義は言い落としたことを次の授業の時に岩谷に言ったものかどうか考えなければならなくなった。また岩谷と関わり合わなければならないことが彼の気持を重くした。衝突の後、岩谷がどんな態度を見せるかということも気になることだった。照義は言うか言わないか決めないまま二度目の授業に臨んだ。

 岩谷は前の時間の衝突のせいか態度に落着きがなかった。授業に入ると、この生徒にはあまり見られないことだが、近くの生徒と私語を始めた。照義はまたかという不快と緊張を覚えながら注意した。岩谷は注意されると私語を止めるが、しばらくするとまた始めるという具合で、授業に集中する様子はなかった。そんな岩谷と向き合いながら、何で一日に二回も同じクラスで授業をしなければならないのかと、照義はうんざりしながら思うのだった。

 彼は週に九時限、担任クラスの授業を持っていた。ロングホームの時間を加えると十時限だった。週三十五時限の時間割の中で十時限は少ない数ではなかった。週に四日は一日に二度担任クラスの教壇に立つことになった。なぜそうなるのかと言えば、コース制になって、カリキュラムもコース毎に編成されていたからだ。コース毎の大学受験に必要な科目を重点的に履修するという観点から受験に不必要な科目は削られ、その分、必要な科目の時間数を増やしていた。私文コースは数学や物理・化学などはカリキュラムから除かれ、代りに国語や英語の時間が増やされていた。照義の担当教科は国語だった。国語は現代文と古文、それに問題演習の三科目があったが、全て照義が受持っていた。担任はそのクラスの教科の時間を全部受持つというのが国語科の不文律のようになっていた。生徒管理がその方が徹底すると言うのが理由のようだった。担任クラスの授業は他のクラスの授業より概して神経を使うものだ。他のクラスなら放っておけるような生徒の態度も、自分のクラスの生徒となると見過ごしにくくなる。学校の管理システムの中で、担任は自分のクラスの生徒については全責任を負っているような過剰な責任意識を持たされていることが多い。だから生徒と衝突することも多くなるのだった。そんな苦労の多い担任クラスの授業を一日に二回もしなければならないのは照義にはかなりな負担だった。特に岩谷など、手を焼く生徒がいるので尚更だった。一日に二度自分のクラスの教壇に立たなければならない日は、最初の授業が終っても次の授業が済むまで解放感は訪れなかった。

 照義を悩ます生徒は岩谷だけではなかった。確かに岩谷が最大の難物だったが、その岩谷を頭格にして、いわゆるワル達のグループがクラスの中に形成されていた。それらの生徒達は何かと照義の指導に反発を示していたが、その他の目立たない、或いは問題のない生徒達も照義の言葉に素直に従うということにはなっていなかった。岩谷との何度かの衝突がクラスの生徒達の照義に対する信頼感を損なう作用をしているのは確かだった。

 言い落としたことを岩谷に言う機会は二度目の授業の間には結局なかった。照義は仕方なく帰りのホームルームを利用することにした。岩谷に言うべきことに三点を付け加えて、全体に注意する形で彼は話した。付け加えたのは、注意を受けたらすぐ態度を改めること、そして反省すること、同じ注意を何度も受けないことの三点だった。岩谷は無表情に聞いており、照義には理解したとは思われなかった。他の生徒達も唐突に感じたのか、これは岩谷のことだと判断したのか、ザワついていて、照義は言葉が受けとめられていく手応えを感じなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る