第42話
まえがき
***
俺が帰ると当たり前のように刹那が出迎えてくれる。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
もう慣れてしまった。
「ただいま」
元を
「紗弥奈はいるか?」
「いません。彼氏と寄り道してるそうです」
あ、そっか。紗弥奈は彼氏いるのか。
「そうか。残念。刹那は迎え入れる時、それ言わなきゃいけないと思ってる?」
「いえ、接客業をする身として餐す行為の勉強になるかと思いまして。それに綾薙君になら将来仕えてもいいかなって。この挨拶、お互い照れると思うんです」
「将来メイドになるって、え? あと照れるならやらなくていいよ」
「今のは忘れて下さい」
惑わすなよ。
「それとお茶にしますか? 紅茶にしますか? コーヒーにしますか? それとも……私と……」
今日の刹那はいつもと違った。
「紅茶かな。でも自分で用意するからいい」
「そう言わず私が用意しますので」
「何の真似だ」
刹那は紅茶を淹れて持ってきた。澄まし顔で。紅茶を溢さず持ち運ぶ手際の良さは流石接客業してるだけあるな、と思った。歩く足音さえしない。
「熱いのでゆっくりお飲み下さい」
「何で敬語なんだよ」
「あくまで接客の勉強です」
わけ分からなかったが紅茶をゆっくり飲んだ。それは今まで飲んできた紅茶の中で上位に入る美味しさだった。やっぱりプロか。と思ったが、ファミレスはセルフサービスじゃなかったっけ、と思案した。
「そういえば刹那、営業スマイルとか出来るのか? 接客だと無表情だと客警戒するだろ」
「それは確かにそうですね。もしかして綾薙君、私の笑顔が見たいんですか」
「ああ、見たい」
俺は素直な事を言っただけだが、刹那は目を丸くして目が点になっていた。固まってしまった。小刻みに肩を震わせている。
「わた、しの……笑顔は100円かかっ、ります……」
もう噛み噛みだ。
「モックのスマイルはタダなんだがな。おかしいな」
「じゃあ、私を笑わせてみて」
唐突に言われた無理難題。どう対処すればいいものか。
目隠しをして手を離して「ぱ」と言った。
「からのーくるりんぱ」
自分でやって凄く恥ずかしい。これじゃあ、子供じゃあるまいし、笑わないだろうなと思った。俺は芸人じゃない。
「……」
無言。キツい。体張って無言はキツい。
「刹那はありのままの刹那でいいと思うよ。無理して笑う必要は無い。飾らなくていい。このままの刹那でいてくれ」
「ぷっ。あはは」
笑った! 何がおかしかったのか。
そして可愛い。笑う刹那など全く想像がつかなかったが、ようやく想像できた。笑うとこうなるのか。
「ギャップ……ふざけ顔からの真顔。イケメン。ウケる」
笑うというより爆笑している。ギャップがどうやらウケたらしい。俺には分からず、寒すぎて今の俺は無表情だ。
お腹痛いと言ってたので笑いが収まるまで待っていた。
二人が冷静になった頃、刹那が先に口を開いた。
「二人きりですね」
言われるとそうだ。
「月が綺麗ですね」
「月なんて見えないし、何の真似だ」
どうせ言ってみたかっただけなんだなと思って聞き流す。
「二人きりなので間接キスとかしちゃいますー?」
「そうやって弄ぶ言動やめろ」
「ごめんなさい」
「紅茶冷めちゃいますよ」
あ、忘れてた。間接キスってそういう意味か。
紅茶を全部流し込むように口に含んだ。美味しかったので飲み干して悲しい。もっと飲みたい。
「もう一度笑った顔が見たいな」
不意に出た言葉が刹那の顔を赤くする。
「しょうがない子ですね」
俺は俯く。
「紅茶美味しかった。ありがとう」
「嬉しい。ご主人様の期待に添えるようこれからも頑張ります。またのご注文をお待ちしております」
そう言って刹那ははにかんだ。これまでにない明るさで。目が光輝いていた。彼女が通り過ぎていく際に周りに花と光を纏っているような気がした。
「そのはにかみ!」
「写真撮りたかったー撮ってなかったーあちゃー」
写真を撮り損ねた事に今気づいた。営業スマイルは笑わせて出る物ではなく、自然に出る物なんだと思い知らされた。何かおかしいと思ってたんだ。
だが、俺の興奮など気にせず、刹那はカップと皿を運んでいた。
運び終わって戻ってくると、
「笑顔のことは秘密にして下さい。確か笑顔は寮では綾薙君にしか見せた事がありません」と刹那は言った。
えーそうなのか。俺だけなんだ。何だろう、この優越感。
「分かった」
まだ言い残した事があったんだ。少し欲が高ぶったのは反省してる。
「俺のメイドになってくれないか?」
「は……」
刹那はまた硬直しだした。
「だから、将来メイドとして働いてほしいって。メイドになりたいんだろ?」
「そんな事言ってないって」
すると大部屋の戸が開いた。
「ただいまー」
結局、メイドになるかの答えは聞けなかった。
皆が帰ってきた。
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