第5話

店内はあっという間に煙に包まれた。

 外で様子を窺っていた男たちは、煙が収まるのを見て一斉に中に押し入った。

「いたか?」

 店の中には誰もいない。  

「いたぞ!」

 誰かが叫んだ。

 見ると、ショールを被った人影が、暗闇の中、街道を北へ向かって必死に走っているのが見えた。

 男たちは慌てて馬に飛び乗ると、その影を追った。

 徒歩と馬では速さが違う。あっという間に近づくと、先頭の男がショールに手をかけた。

 ショールを取ると、銀色に輝く髪が月明かりに浮かんだ。くるりと振り向いた顔に浮かぶ、血のように真っ赤な口がニヤリと笑った。

「ば、化け物!?」

 男の叫び声に、後ろにいた二人の男もひるんだ。

「誰が……化け物なんだよっ!」

 ぴょんと跳ね上がると、雪豹は一回転して延髄に一発蹴りと喰らわせた。男は白目をむいて馬から落ちた。

 と、同時に街路樹の上から黒豹が飛び降りて、後続の二人を次々になぎ倒した。

「これでも、洛陽にいた頃は紅顔の美少年で通ってたんだぜ」

 彼らが持っていた縄を奪い取ると、それで三人を縛り上げながら雪豹はぼやいた。

「コーガン……」

「兄貴、同音異義語は禁止な」

「なんだよ、同音なんとかって……」

 黒豹は三人の姿や持ち物を確かめた。皮衣に辮髪の姿。施された文身は薛延陀のもの。

「雪豹、お前付けられたか?」

「いや……そんなはずはないんだが」

 追っ手の気配はなかったはずだと、雪豹はいぶかしんだ。

 外にいる連中の話し声に気づいた黒豹のおかげで難を逃れたが、あと少し遅かったら大麻の煙で燻されて体がおかしくなっていたところだった。

「しかし、お嬢さん今日は受難だな」

 木の上に身を隠させていた姫を降ろすと、服のホコリを軽く払ってやった。三娘の服を借りて休んでいたので、体に合わずちょっとぶかぶかしていた。

 その間、姫はじっと黒豹の顔を見つめていた。それに気づくと、黒豹は慌てて顔の左部分を手で隠した。

「違う、違うんです」

 彼女は彼の手を掴んで言った。

「三娘さんは言いました。お茶一杯飲んでいる間に慣れるって……私、二杯も飲んだんです。だから、慣れました」

「あ? ああ、そうか。そりゃ良かった」

 姫はさらに力強く手を握った。

「あの……さっきはごめんなさい。悲鳴なんて上げて」

 それを聞いて黒豹は大声で笑った。

「何言ってんだ。あれが当たり前の反応だよ。この顔を初めて見て平気でいる女は、ケツの毛一本まで毟り取ろうとする商売女ぐらいだよ。気にすんな」

 明るく笑う黒豹の言葉を聞いて、姫は何故かもっと心が苦しくなった。

「兄貴、ちょっとこっち来てくれ」

 雪豹に呼ばれ、黒豹は姫の手を振りほどいた。

「これ、何だと思う?」

 薛延陀兵の懐に、水晶玉のようなものがあったのだ。それの中心にキラキラと光る点があった。

「何だ、これは……」

 暗闇に怪しく光るそれを見て、黒豹も首をかしげた。

「術をかけられていたんだよ」

 後ろから不意に聞き覚えのある声がした。声の主は落ちていたショールを拾うと、縁に縫い込まれていた骨片を取り出した。

 そして何やら口訣を唱えると、骨片は粉々に砕け、風に散っていった。

 同時に、雪豹の手の中にあった光は消えていった。



「驪龍先生……」

「なんだ、半日ぶりだな」

「相変わらず黒豹はつれないな。渡し忘れた物があってね」

 そう言うと驪龍は懐から一通の書状を取り出すと、呆然としている雪豹に手渡した。

「夜が明けたら、都護府にこれを持って行くといい。昔の誼みで多少の兵馬を動かしてくれるはずだ」

「ああ……」

 一番の伝手はこの道士だったことに雪豹は気づいた。彼は出家前、かつての秦王の麾下で名を馳せた優秀な武将だったと聞く。質素な単衣に適当にまとめたボサボサ頭をした今の姿からは想像もできないが。

「時間も場所も考えると、おそらく宿衙から四、五里の場所までなら兵馬を出せそうだ。何とかなるか」

「五里か……助けるのに半時、逃げるに半時で一時いっとき(二時間)あればやれそうだな。よし、何とかなる」

 次の手が見えて雪豹はほくそ笑んだ。

「ところで、お前たちに頼みがある」

 驪龍の頼み事なんて、珍しいこともあるもんだと二人は思った。

「お前たちも、女狐の命によって動いているとは思うが、こちらにも浅からぬ縁があってね。司祭の術に関してはこちらに任せてはくれまいか」

「ああいいよ」

 雪豹はあっさりと答えた。

「こっちの“仕事”にいろいろ突っ込んでくるなんて、滅多にないことだから。そんなことだろうと思っていた」

 それを考えて、娘たちの救出中心に計画を立てていたと、雪豹はあっさり白状した。

 黒豹は内心面白くはなかったが、計画は雪豹に一任している以上、反対するすべはなかった。

「そうか、じゃあ、これは昼間渡しそびれた子守の礼だよ」

 そう言うと、驪龍は雪豹に油紙で包んだものを渡した。中味を耳打ちすると、雪豹はにやりと笑った。


 三娘の店に戻ると、出遅れた二人の薛延陀兵が三兄弟に熨されていたところだった。

「叔父貴、お帰り」

 満面の笑みで三郎が言った。

「店の中がぐちゃぐちゃになっちまったよ」

「そいつらに後始末させればいいだろ」

 黒豹の言葉に、三郎は嬉しそうに頷いた。

「叔父貴の許可もらった」

 そう言うと、破顔一笑しながら、思いっきり薛延陀兵を蹴り上げた。

 黒豹は三郎の兄二人のところに寄って訊いた。

「あいつ、怒ってる?」

「かなりね。一番怒らせちゃ行けない奴を怒らせた」

 二郎も呆れたように言った。

「南無」

 太郎は一言そう言うと、夜明けから始まる農作業のために帰って行った。

 太郎は請われて郊外の荘園へ婿に行ったが、彼が来て以降、荘園を荒らす泥棒は影を潜めた。二郎は二郎で市場の顔役であり、揉め事があればまず彼の元に話が行く。そんな二人が一目置くのが三郎。末っ子ならではの気の強さで、二人にからは狂犬とまで呼ばれていた。

「やり過ぎないように見てろよ」

「解ってますよ……。まあ、お袋が出てくれば大丈夫かと」

「あの人こそ怒らせたら一番ヤバいだろうに……」

 コソコソ話す二人の後ろには、そのヤバいと言われた三兄弟の母親、三娘が立っていた。



 夜明け前には黒豹の仲間たちが続々と集まってきた。

 一番手は胡忇。波斯人など西方民族の色々な血が混じった彼は、小麦色の巻き毛に青い瞳をしていた。彫りの深い整った顔立ちをしており、よく黒豹からは「顔だけはいい」としょっちゅうからかわれていたが、馬の扱いにも長けており、馬を走らせたら女狐の一味の中でも一二を争う腕前を持っていた。

 雪豹は胡忇に書状を渡すと、夜が明けたら都護府に持って行くように告げた。すると胡忇はそのまま休むことなく都護府に向かった。

 その後は石亀と蜉蝣かげろう。二人ともかつて黒豹と同じ軍におり、ギリギリのところで彼に命を助けられた過去を持つ。長い付き合いの二人だ。

 最後に来たのは摩勒まろく天竺ティンドゥの出でとにかく身軽。いつも目をクルクルさせ、どこかに面白いことはないかと、落ち着きなく探していた。雪豹と馬が合い、斥候を任されることが多かった。

「で、結局徹夜かよ」

 胡忇が行った後、他の三人が来るまで軽く仮眠を取っていた雪豹は、起き抜けに店の掃除を手伝っている二郎に言った。

「朝飯買いに来る客に迷惑かけられねぇって」

 なんだかんだと三娘を手伝っている黒豹を指さしながら二郎は答えた。

 もっと気の毒なのは薛延陀兵だ。にこやかに笑いながら細かい指示を出す三娘に休む暇なく動かされ続けていた。それに仕込みをしている三郎が追い打ちをかけて指示を出す。

(有無を言わせない笑顔ってあるんだな……)

 その様子をみて、雪豹はぞっとした。

 とりあえず三人と卓を囲むと、雪豹は黒豹を呼んだ。

「兄貴、店の手伝いで疲れ切って動けないなんて、情けないこと言うなよな」

 慌てて席に着いた黒豹に雪豹は言った。

「何だよ。昨日、紫陽先生に導引をやってもらったせいか、あと一晩徹夜で店に出てても問題ないぐらいだ」

 悪びれない彼に、雪豹は冷ややかな視線を投げかけた。

「じゃあ、もう日が昇る。段取りを話すから夜明けと同時にここを出よう」

「私も行きます」

 雪豹の話を遮るように、亀茲の姫が言った。髪と服を整え、いつでも出られるように身支度を済ませていた。

「はぁ……!?」

 雪豹は呆れて彼女を見た。彼女は黒豹の方に詰め寄って一気にまくし立てた。

「アイーシャの手当をしなければ。彼女は私を待っているの。それに、私じゃないと他の侍女たちも言うことを聞きません。だから行くのです」

「お、おう……」

 気圧された黒豹は気の抜けた返事をした。

「兄貴……これじゃ助けた意味がないだろ」

 雪豹は呆れた様に言った。

「連れてってあげてよだって」

 雪豹と黒豹の間に、バガトゥールがひょっこり顔を出した。二人は思わず声を上げて驚いた。

「バガトゥール!? なんでまた」

「先生と来た」

「は、早起きだな」

「うん、早起きした」

 二人がする質問に、嬉しそうに少年は答えた。

「姫君は、司祭の術から完全には抜けていない。戻ろうが戻らまいが、何らかの妖術が姫君に飛んでくるぞ」

 入り口には、いつの間にか驪龍が立っていた。

「ここにいたら、またこの店に迷惑がかかるってことか」

 雪豹は頭を抱えた。

「で、なんでまたバガトゥールまで……」

「この子は、特異な体質を持っていてね。あらゆる方術や呪術をはねつけることができる。まあ、本人とその周り、極限られた範囲だけだけではあるが」

「こいつを盾にしろってことか」

「私の方術だけでは、防ぎ切れないかもしれない。それだけ相手は強い」

 はあ……と、雪豹は大きなため息をついた。

「こいつやお嬢さんたちに刃が来たらどうすんだよ」

「黒豹」

 ふいに姫が口を挟んだ。

「黒豹が守ってくれる。そうよね?」

「お、おう」

 黒豹は気圧されながら頷いた。

「あーっ! 解ったよ!!」

 頭をかきむしりながら雪豹は言った。そして少し考えてから三娘に訊いた。

「三娘さん、そこの薛延陀兵借りていっていい?」

「あら、まだ片付けが終わっていないのよ?」

 にっこり笑いながら三娘は言った。ちょっと怖かった。

「あ、三人だけ……あとの二人は残すから……」

「あら、たったの二人? 少ないわね。まあ、いいわ」

 さっきから目は少しも笑っていない。三娘の笑顔はこんなに怖い物だと、雪豹は肝を冷やしながら思った。

「とりあえず……」

 気を取り直して雪豹は言った。

「動きながら指示を出す。行くぞ」

 出ようとしたところで、入り口に立っていた驪龍はが消えていることに気づいた。

「先生は?」

「けがしている人がいるから、治療しに先に行ってるって」

 雪豹の問いにバガトゥールは答えた。

 それから、姫の方を向くと言った。

「大丈夫だよ」

 それは姫には聞き慣れた吐火羅の言葉だった。

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