第8話 元型・5(苑)~禍室~
1.
「『禍室』は元々は、九伊と同じ一族だ。本家に最も近い血筋のね。それが九伊を『神』にするために分離したんだ」
「分離?」
苑の言葉に、里海は頷いた。
「『神』になるための清浄さを保つために、『穢れ』を払った。その穢れを収める場所が『禍室』だ。
禍室は『神』のために穢れを払う人であると同時に、穢れを収める場でもある。禍室がいなければ、『神』は存在できない。穢れは『神』の一部でありながら、分離していなければならないものだ。つまり『禍室』が在り、しかも『神』から離れていることによって、『神は成立している』」
里海の言葉を聞く苑の表情は、戸惑いから真剣なものになっていく。
苑が言った。
「その……『禍室』、のかたが今もいる、ということですか?」
「いる」
君が存在しているのが、その何よりの証だよ。
里海の言葉に苑は目を見開く。
里海は肩をすくめた。
「と、まあ、九伊の口伝ではそうなっているわけ」
少し口調を改めて、話を続ける。
「馬鹿馬鹿しいおとぎ話だとは思うけれど、ね。僕らより年代が上の人間は、こういう話を本気で信じている。
九伊本家がご神体、九伊の分家が神の四肢、僕たちのような九伊の名を持たない分家の者たちが神に仕える民、皆が務めを果たすことで、神の恩恵と奇跡が受けられる。
外から見れば荒唐無稽な話なんだけれど、その場を構成する人間たちの暗黙の合意によって形成される『法』は、明文化された法律なんかよりもずっと強力だ」
里海は苑と紅葉の顔を見た。
「苑さんや三峰さんも、学校や寮でそういうことってあるだろう?」
そう言われるとそうかもしれない。
ある「場」を共有する人間たちの中でのみ機能する、暗黙のルール。
それはどんな「場」にも存在する。
苑は不安そうに言った。
「里海さんがこの屋敷に連れてきたい、ということは、今の禍室のかたの境遇が……余りいいものではないのでしょうか?」
里海は、皮肉のこもった眼差しで苑を見ながら頷いた。
「今の話で想像がつくだろうけれど、禍室は九伊の暗い部分を引き受ける存在なんだ。今もちょっと……奇妙な風習の中で生きている」
里海は今までにない、はっきりとした口調で言った。
「僕は……彼をそうした境遇から連れ出したい」
「彼?」
紅葉と苑が同時に顔を上げる。
「男の人なんですか?」
「あれ? 言わなかったっけ?」
紅葉の問いに、里海は首を捻る。
「そうだよ。今の禍室は男なんだ。かなり珍しいらしいけれどね」
「里海さんは、その人のことが好き、なんですか?」
里海は強く頷いた。
「だから今の境遇から連れ出したいんだ。
苑さんが気を遣ってくれるのは嬉しいけれど、どちらにしろ今の法律では、僕は彼と正式には結婚できない。苑さんと結婚して、九伊の人間たちに発言力を持てるほうが僕としては都合がいい」
里海は黙って俯いている苑に、声をかけた。
「苑さんは、同性同士の恋愛に偏見がある人?」
苑はハッとしたように顔を上げて、慌てて首を振る。
「ご、ごめんなさい、そうじゃなくて」
苑は里海の顔を見つめて呟いた。
「里海さん、その禍室のかた、もしかして私と同い年じゃないですか?」
里海は軽く目を見開いた。
「そうだけど……知っているの?」
「いえ……」
呟きながらも、苑の脳裏にひとつの光景が浮かび上がる。
幼い自分に語りかける、父親の声が響く。
(苑、苑と同い年の子をこの家に引き取るとしたら、どうかな?)
(苑の親戚の子だ。余りいい環境で育てられていなくてね、うちで一緒に生活したほうがいいんじゃないかと思うんだ)
(男の子だけどね。仲良くなれると思うよ)
あの子だ。
黒い真っすぐな髪に白い肌。
深海のように深くて青い瞳。
いつも不機嫌そうで、苑が話しかけると邪険に扱われる。
(お前は本当に鈍臭いな)
でもそう言いながら、いつも仕方なさそうに手を握ってくれる。
いつも意地悪で無愛想で怖くて、でも優しい男の子。
(私はあの子が来るのをずっと待っていた)
(あの子の話を聞いてから、ずっと)
だが結局は来なかった。
(苑、その話は無くなった)
会えなかった、あの子と。
私はずっと待っていた。
あの子もずっと待っていた。
それなのに会えなかった。
苑の目の前に、広い野原で一人で星空を眺める男の子の姿が浮かぶ。
そうこのイメージ。
ふとした拍子に頭の中に浮かぶ。
あの子はいつも強がっているが、本当は寂しがり屋で傷つきすい繊細な子なのだ。
だから私が行ってあげなきゃ。
あの子は、ずっと私のことを待っているのだから。
今すぐあの子が一人でいる場所に行って、隣りに座って手を握ってあげなきゃ。
待たせてごめんね。
そう言ってあげなきゃ。
あの子はいつも通り、無愛想な声で「待ってなんかいない」と言って、こっそり目に溜まった涙を拭くはずだ。
それでも手はずっと握っている。
一度つなげれば、そして握り返してもらえれば。
その先は何があっても、二度と離さないのに。
二度と。
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