第55話 女商人と聖女


「では、私はこれで失礼します」


 高級宿からフリーダが出ていくところだった。


「ほ、ほんとにここ、泊っちゃって良いんですか? それにお金も、こんなにたくさん……」


 フリーダに『報酬です』と言われて押し付けられたのは、金貨が詰まった袋。それを腕に抱えた聖女セリシアが、出ていこうとするフリーダに声をかける。


「私はそんなに疲れていませんし、こんなにお金を頂けるなら、もう少し聖水を作ります!」


「いえ、聖水は十分すぎるほどいただいてしまいました」


 当初は大浴槽五杯分という条件で交渉したフリーダだったが、セリシアがとんでもない速度で水を聖水に変えていくため、急遽大浴槽十杯分に条件を変更した。その作業すら半日もかからずに終わってしまったのだ。


「で、でも……」

「本当にもう大丈夫ですよ」


 フリーダとしては聖水の適正価格に少し色を付けて支払いしたつもりでいる。一方セリシアは自らの作った聖水を直接誰かに売ったことはなかったので、それの売価を知らなかった。だから見たことのない大金にひどく戸惑っている。


 彼女が困惑する理由はそれだけではなかった。


「そういえば私が作った聖水、浴槽の栓を抜いて全部流しちゃってましたよね? あんなことして良かったんですか?」


 一回目の聖水が完成してセリシアが浴槽から上がると、フリーダはおもむろに浴槽の栓を抜いた。彼女の行動の意味が分からず、聖女は思考がフリーズした。それでも『問題ありません』とさも当然のごとくフリーダが振舞うので、言われた通りに浴槽に貯められるお湯を聖水に変え続けた。


「作っていただいている時にも申しましたが、問題はありません」


「もしかして浴槽の配管を工事して、どこか別の場所に繋いでいたとか?」


「そんな感じです。聖女様に作っていただいた聖水ですので、一滴たりとも無駄にするようなことは致しませんよ」


 フリーダは配管の工事などしていない。彼女の財力をもってすればそれも容易に可能だが、そんな面倒なことをする必要はなかった。


 彼女がやったのは、前もってケイトに収納魔法の取り出し口を排水口の下に設置させただけ。それで浴槽の栓を抜けば、聖水は全て異空間に収納される。彼の収納魔法は液体を容器などに入れずとも、そのままの状態で収納することが可能だった。


「セリシア様。此度は良いお取引ができました。今後もよろしくお願いいたします」


「あ、あの! もう少しだけ、私とお話ししてくれませんか?」


 役目を果たしたことをケイトに褒めてほしくて、この場を早く立ち去ろうとするフリーダ。そんな彼女を聖女が引き留めた。


「話といいますと、どのような?」


「……ケイトさんのことについて」


 まさかケイトと自身が繋がっていることがバレたのかと一瞬焦るが、そのような情報は漏らしていないはずとフリーダは冷静になる。ただの交渉相手だったという設定で対応することにした。


「彼はパーティーを抜けられたとか」


「はい。私はケイトさんと二年ほどの付き合いですが、実はそれほど彼のことを理解していませんでした」


「私が以前皆様にお会いした時、ケイト様はご在籍でした。その時の皆様は強い絆で結ばれているように思えました。私たちの暮らしを守るために命がけで魔物と戦っていただいているのですから、それも当然だろうと。でも貴女は、仲間のことを十分に理解できていなかったというのですか?」


「そう、みたいです。私、ケイトさんのことが良く分からなくなっちゃったんです」


 今にも泣きだしそうな震える声でセリシアがフリーダに質問する。


「彼って、どんな人だと思いますか? 例えば約束を簡単に破っちゃう感じですか?」


「約束を破るような人ではないでしょう。少なくとも取引していた時の彼は私との約束を破ったり、嘘をついたことはありません。ただ──」


「ただ?」


「事実を歪曲させて、屁理屈で私を説得しようとしたことは多々あります。彼ほど口の上手い人族はいませんね。まるで人の心を弄ぶ悪魔のように感じたほどです」


「そ、そうなんですか」


「彼に何か、約束を反故にされたのですか?」


「……先ほどフリーダさんも見ていたので、聖水の作り方はわかりますよね」


「えぇ」


「聖水を作ってる時の私は神聖なアイテムと化している状態なので、汚れや穢れはないはずです。それでも私が入ったお風呂の残り湯って感じじゃないですか」


 セリシアはそう言うが、彼女が聖水を作る場面を見ていたフリーダはとてもそのようには思えなかった。その場にいるだけで心が洗われるような、なんとも言えない気分になっていた。三回目くらいで慣れたが、初回と二回目は浴槽に浸かったセリシアが神々しく輝きだした時点でフリーダは自然と涙を流していたほどだ。


 確かに聖水は聖女が浸かった風呂の残り湯なのだが、その行為はとても神聖なものであり、出来上がった聖水に穢れなど一切ない。


「私、ケイトさんに『聖水は誰かに飲ませたりしないでください』って何度もお願いしてたんです。それなのに彼は……」


 フリーダは全てを聞かずとも、ケイトが誰かに聖水を飲ませてしまったのだと理解した。

 

「き、きっと彼にもやむを得ない事情があったのでしょう」


「そうかもしれません。そうであってほしいと思っています」


 ちなみにフリーダは聖水を飲料用途で使わないという条件でセリシアから大量購入した。ここで得た聖水のほとんどはエリクサーを作るための器具や素材の浄化に使われるため、直接誰かが飲むことがないのは確かだ。


「でも私は、勇者様にだけは、私の作った聖水を飲んでほしくありませんでした」


 大粒の涙がセリシアの目から零れ落ちる。


「私の神聖力がもっと強くなって、手を翳しただけで聖水を作れれば……。それだったら私がケイトさんを責めることなんてなかった。私が、私が悪いんです」


 己の無力を嘆いて泣いている聖女は美しかった。庇護欲が掻き立てられ、フリーダがセリシアを強く抱きしめる。


「えっ? あ、あの──」


「大丈夫です。貴女は何も悪くない」


 聖女の言葉はフリーダの耳にほとんど届いていない。とにかく今は、この美少女を守らなければならないと思ってしまった。この可憐な少女を泣かせた男が許せないと思った。



「もし私がケイトに会ったら、一発殴っておきます」

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