迷い猫の居酒屋めし

筋肉痛隊長

一章 迷宮を統べる者たちの居場所

客のこない居酒屋

 フランベ王国の北部、山と海に程よく近いアントレの街。

 厳しい冬が終わり、ところどころ残った雪もとけるのを待つばかり。

 とはいえ陽が沈むとまだまだ寒い。早春は、温かい食べ物とお酒が恋しい季節。


 アントレで迷宮が発見されたのは12年前だ。

 さびれた村に過ぎなかったアントレは、それによって急成長を遂げた。

 いまだ拡大を続けるこの街で、街の象徴ともいえる迷宮の真ん前に店を構えるのは『居酒屋 迷い猫』。

 8人掛けのカウンターに大小のテーブル席が4つと、こじんまりした店だ。天井は高く、照明は落とし気味。よく磨いた板張りの床はピカピカだ。テーブルには手元を照らすキャンドルが据えられ居心地の良い空間を作っている。


 カウンターの向こうは料理人の聖域、厨房だ。洗い場や調味料棚が並ぶ一見普通の厨房だが、コンロを始め保冷庫、保温庫など料理人垂涎の高価な魔道具が詰め込まれている。


 そこで腕を振るうのはこの俺、住み込みで雇われた王都出身の料理人だ。

 この店は迷宮の向かいに店を構えている以上、冒険者向けのがっつりした料理と酒を出す店だ。俺の実家は王都でも人気の宿屋で、子供の頃から冒険者好みの料理を叩き込まれて育った。

 当然この店の設備に見合う腕を持っていると自負している。

 だというのに――


「……雇われて1週間経つけどさ、一人も客が来ないってマジ? 聞いてる、店長?」


 俺はカウンター席で暇そうに魔導書を読んでいるオーナー、女店長メルセデスに声を掛けた。

 間もなく深夜。今日ものれんをくぐる客はなく、ぶっちゃけ俺も暇だった。

 ハァ……労働したい……。


「……ぅーん」


 さすがのアホ店長も伏し目がちに唸り声をあげた。1週間も経てばまずい状況を自覚できたようだ。

 メルセデスはアホだが美少女だ。ゆるく編んだピンクブロンドの髪、紫がかった瞳と目立つ容姿でもある。背は俺より少し高いから女にしては高い方か。


 いや、店を持つくらいだから少女という歳でもないだろうか。それでも20歳の俺より年上ということはないだろう。

 メルセデスは美人で胸もでかいから、ここはひとつ表で客引きでもさせれば、スケベな冒険者たちが押し寄せるのでは……いいや、うちはそういう店じゃない。というか、そういうのは料理人として負けた気がする。


「もう……食べられないよぅ、エミールくーん……ぅへへへぇ」


「営業中に寝るんじゃねぇ、アホ店長っ!」


 思わず手に持っていた包丁をメルセデスに向かって振り下ろしてしまった。


          ***


「おいしくなーれ、おいしくなーれ……」


 ポクポクポク。

 包丁の背で叩くと肉が柔らかくなるんだぜ……。


「まぁ肉を叩くときはミートハンマー使うけどな!」


「しくしくしく……痛いよぅ、エミール君」


 店長はとんかつ一枚分叩かれた頭を抱えている。俺はそれを一瞥して厨房の片付けを始めた。この時間から来る客もいないだろう。


「迷宮の前にお店出せば人気出ると思ったんだけどなぁ……」


 涙を拭きながらつぶやくメルセデス。

 確かにここは迷宮の出入り口の真正面。広場を挟んで50メートルの好立地だ。迷宮に潜る前の腹ごしらえにも、迷宮帰りの一杯にも最適な場所。

 そしてなにより人通りが多い。迷宮に近いということは、それに関係する冒険者ギルド・衛兵詰め所・治療院にも当然近い。


 このアントレの街は迷宮目当ての冒険者と、冒険者相手の商人で賑わう街だ。経済の中心は迷宮であり、街中の道は迷宮を中心に整備されている。だからこの店の目の前は、街で最も人通りの多い道だ。だが、


「そりゃ人は多いけど、迷宮帰りは怪我人も多いからな。3軒向こうの角を曲がると遺体安置所モルグに行く道だから、死体もよく通ってるし」


 営業時間外の話だが、店前の人通りがピークを迎える昼時、この辺りは血の匂いがする。迷宮広場の敷石が黒ずんでいるのは伊達ではないのだ。

 冒険者相手に武器や魔道具、携帯食を売るなら最高の立地だが、飲食店にとってはトイレに囲まれているに等しい最悪の立地かもしれない。


「これでも開店から3日はお客さんいたんだよぉ」


 メルセデスが乱れた髪をゆったり編み直しながら答えた。

 だがおかしい。俺が入店してから1週間、客など見たことがない。雇われた料理人は俺が最初だと聞いているから、てっきり1週間前に開店したのだと思っていたが。


「うちの店の開店日? 1か月前だよ?」


「ん? 料理人は?」


 洗い物から顔を上げると、メルセデスが自分の顔を指差してニコニコしている。

 俺は目線を手元に戻した。


「……で、料理人は?」


「わたしっ、わたしだよっ! 元々『迷い猫』はわたしが作ったお料理食べてもらいたくてお店作ったんだよ……え……何、エミール君、その顔……?」


 俺が今どんな顔をしているのかは鏡を見ないとわからない。

 だが気分はまるで、酢の入ったコーヒーを飲んだようだ。もしくは味噌汁の中に角切り肉を見つけたような気分だ。もしくは鳥の丸焼きにナイフを入れたら季節のフルーツとあんこが出てきたような気分だ。なぜなら、


「あんた料理できないじゃん」


 ――忘れもしない、あれは俺がここへ来た初日。賄いを作ったのはメルセデスだった。


 ………………。

 …………。

 ……。


 うん、やっぱ忘れよう。脳が思い出すことを拒否した。

 料理が下手な原因は人によっていろいろだろうが、幸いメルセデスの味覚はおかしくない。うまいものは喜んで食べるし、味気ないものを出すとしょんぼりしながら食べる。

 健康や宗教など味以外のものを優先するわけでもない。

 メルセデスの場合は調理法ルセットを守れないタイプのメシマズだ。どんくさすぎて手順どころではない。


 なぜ飲食店を開いてしまったのだろう……被害者たちが不憫でならない。誰か止めてくれる人はいなかったんだろうか。


「でもエミール君が来てくれて、毎日おいしいもの食べられるね。やっぱりお店開いてよかったぁ」


「客が来ないのは立地のせいじゃなかったんだなぁ……」

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