フリーダム FREEDOM

宝輪 鳳空

first season

第1話 ジャック

 〝真の自由は夢の中にある。昔も今もそしてこれからも〟

 ――ジョン・キーティング



 ****


 ――妹よ

 俺がそばにいる

 俺がお前の支えになる

 悲しみは今日を最後に

 区切りをつけよう

 いつか太陽は輝き

 闇は過ぎ去るんだ――


 そうジャックは洗面台の鏡を拭き、自分の顔を映した。

 揺れる薄明かりに澱む喧騒。

 よしこれでいこうと頷き、ぶかぶかのシャツの袖をまくって仕事へ向かった……。


 ****



「もたもたしてねえで、さっさと片付けちまえ!」

 太った店長が声を荒らげた。

「はい!」

「皿の一枚でも割ってみろ。てめえは即クビだ! いいな?」

「はいっ」

 ウェイターの少年は汗だくでずっと走り回っていた。

「ほらぁ、こいつを運べ! 二番テーブルだ」

 リッチー・ヘイワースはその少年をずっと見ていた。



 一九五六年、冬の夜のレストラン。

 白人労働者階級の男たちが汗と酒を臭わせてひしめき合う店のピーク時。

 客の熱気が窓ガラスを白く曇らせる。



 ウェイターの少年がピッツァと飲み物を運んできた。

 金髪リーゼントの大柄なルカが声をかけた。

「おぅ少年、がんばってんな。歳はいくつだ?」

「十三です」

「じゃあ、より三つ兄貴だな」と言って隣りに座る赤いダウンジャケットを着た男の子の頭を撫でた。

 その二番テーブルにはその子と四人の男たちが座っている。


 慎重に皿とグラスを配る少年に彼らは注目していた。

 まず、白いイスラムワッチにサングラスのホウリンが言った。

「仕事がんばれ、少年」

 褐色の肌の青年、ジミーも言った。

「あんな店長デブに負けんな」

 ウェイターの少年は軽く頷いた。

 リッチーがシルバーの指輪を光らせた手で黒髭くろひげをさすりながら少年にいた。

「ヘイ、ヤングボーイ。名前は? 俺はリッチー。リッチー・ヘイワースだ」

「……あ、ジャックです」



 清潔にセットされたダークブロンドの髪、蝶ネクタイが凛々しくキマる少年、ジャック。

 そのよく通る覇気のある声にリッチーが微笑んで握手を求めた時、

「ジャーーック! 何してる、三番片付けろ!」

「は、はい!」

 店長の怒鳴り声が響き、ジャックは慌てて仕事に戻った。



 ルカが高らかにジョッキを掲げた。

「そいじゃあ乾杯しようぜ。ブリウス、お前はジュースで我慢だ。いいな?」

 と言ってルカは隣りの少年の肩を揉む。

「……もう、当たり前だよ」「ワハハ」


 五人は聖杯をつき合わせ、渇いた喉を一気に潤した。

 その時、床に叩きつけられる食器の音が店内に響き渡った。ざわめく客。

 そこには膝をつき、割れたグラスと皿を手で掻き集めているジャックの姿が。

 ジャックは転んでしまった。

 運んでいた食器が宙に舞い、跡形もなく床に散った。

 布巾を投げ捨て、店長が鬼の形相で厨房から出てきた。

「このガキゃあ、本当にやっちまいやがったーーっ!」

「ごめんなさい!」と、ジャックは髪を乱して涙ぐむ。

「待ってくれ店長」そう言ってリッチーが立ち上がった。



 彼はジャックの方へ歩み寄り、の前で立ち止まった。

 そこには岩のような体の中年男が座っている。

 リッチーは詰め寄る。

「お前。足を引っ掛けただろう?」

 中年男は下を向いたまま、無視した。

「訊いているんだ。お前、ジャックの足を引っ掛けただろう? 見ていたぞ」

「……知らねえな」

「子供をからかって面白いか?」

 男はうつむいたまま、横目でじぃっとリッチーの顔を見た。

「知らねえっつってんだろ。てめえなんぞに口出しされる筋合いはねえ。とっとと失せろ、奴隷民族スレイヴス


 リッチーは男の胸ぐらを掴んだ。

 あせたデニムシャツを掴むその右腕はまるでクレーン車のように高々と、男の体を天井まで吊り上げた。

 二メートルはある巨体を軽々と。

 男は目が点になる。

「聞き捨てならん言葉だな。ここは自由と平等の国エルドランドじゃないのか?」

「……うぐっ」

 リッチーがもう一度問いただす。

「ここは希望と夢の国、エルドランドじゃないのか?」

 吊り上げられた男の仲間二人が立ち上がる。

「ヤロウッ!」

「外国人だから蔑むのか? お前の方が上なのか?」

 一人がリッチーに手を伸ばす。

「よそ者が出しゃばるんじゃねえ!」

 するとリッチーの脇にルカとジミーが回り、ガードを固めた。

 鋭い眼光でルカがその手を掴んだ。

「やるか? 酔っ払いども」

 ジミーは既にファイティングポーズをとっている。

 店長がうろたえ始めた。

「お、お客さん……ウチで喧嘩はやめてくれ、外でやってくれないか外で!」



 店内は騒然となり客が煽り立てる。

 リッチーは低く太い声で穏やかに言った。

「店長。俺は喧嘩がしたいわけじゃないんだ。この男が正直に答えないだけだ」

「……ぅぐぐ……は、放しやがれ……」

 中年男はまるで絞首刑にあわされる気分だった。

 その足はリッチーの胸元で踏ん張っているがリッチーはびくともしない。

 酔いほてった男の顔は黒ずんだ赤に変わってゆく。

 仲間の二人はルカたちに睨まれ動くことができない。

「……どうだ? 認めるんだ。ジャックの足を引っ掛けただろう?」



 白帽子のホウリンがジャックの落とした食器を全てトレーに集め、彼の横にしゃがんだ。

「リッチーは真偽を見抜く。彼に嘘はつけない。俺たちもな」

 ジャックはじっとリッチーを見ていた。

 その勇猛な姿に目を奪われた。



「わ、わかった……俺がやった、あ、足を……引っ掛けた」

 中年男はついに観念した。

「だろう? それでいいんだ。皿はお前が弁償しろ」

 リッチーはそう言ってゆっくり男を下ろした。

 ルカの人差し指が男を戒める。

「言葉には気をつけろ。そういうこった」


 リッチーは振り返りジャックの方へ。

 そして彼の頭を撫で、いたわるように言った。

「とんだ災難だったな」

 ジャックがコクリと頷いたその時、

「死ねやぁああーーっ!」

 恥をかかされ頭に血がのぼった中年男がビール瓶を振り上げてリッチーの背後を襲った。

 だが、同時に矢のように放たれたジミーの右ストレートが男の顔面へ。

「ジミーーッ!」

 リッチーが声を張り上げる。

 するとピタリとその拳は男の眉間一ミリ前で止められた。


「……」

 男は一瞬にして恐怖を覚えた。

 体が硬直して足元から震えながら床に崩れ落ちた。

「……ジミー」

「大丈夫だぜリッチー。ハナっから殴る気はなかったさ。わかってる」

 ジミーはジャンパーの襟を正し、ルカとホウリンの肩を叩きテーブルに戻った。


 リッチーはもう一度ジャックの顔を確かめ、青ざめている店長に言った。

「騒ぎを起こしてすまなかった。ジャックは精いっぱいやってる。認めてやってくれ」

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