2章 潜入、ガンコーシュ帝国
1/5 無辜の避難民
A21U01:きのは特別な幸せ者だよ
宗教団体エルモの礼拝堂には秘密の空間がある。
表では、平穏のために動いている。民の些細な悩みを傾聴し、重い秘密を赦す。多数を占める弱者にとって、生きるために必要だ。
その裏で、傭兵団体アナグマの拠点でもある。あらゆる秩序に抜け穴を作り、はみ出し者の居場所となる。
二つの顔に願いは一つ。誰であっても、生きる場所が必要だ。秩序への贄を出させやしない。
徐々に気温が下がる頃、大聖堂の地下で事が動いていた。中心に立つあどけない少女キノコは、機材設計班への指示をまとめて、自ら担う準備を済ませていった。三日三晩かけて、ようやく次に進める。伸びた赤髪をかき分けて、教官たちが待つ部屋へ向かった。
「お待たせ。ユノアさんは?」
「ここに。どうしたの?」
「前髪が邪魔でさ、切りたいんよね」
「だめ。あと九日だけ我慢しなさい」
「そんなあ。ユノアさん、ひどいや」
今回の一件ではユノアは指揮を執る。これからたったの三人でガンコーシュ帝国へ潜入する。先の戦禍に相応の身なりに扮し、避難民として船に乗り込む。髪や爪が整った者はいないし、風呂ですっきりした者もいない。少ない備蓄でどうにかやり過ごした容貌を作る。
髪や爪を汚す中、キメラだけは普段と大差がない。元々が前線担当ゆえ、いつでも避難民になれる。
「よお二人とも。もういいか?」
「きのはいいよ。キメラおねえちゃんもでしょ。早く始めよう」
「よし、これよりキノの短期集中訓練を始める」
キメラは言葉と同時に背筋を伸ばし、倉庫から道具を持ち出した。右手に拳銃をひとつと、左手に細長い棒をふたつ。キノコはその棒をじっと見ている。
「なんだ? これはただの金属棒で、特に仕組みとかはないぞ。先にやるか。これを武器にして構えてみてくれ」
キノコは受け取るとすぐに、棒の片端を持ち体の正面で構える。その姿勢が訓練の必要性を周囲に伝える。
「そうなるよな。ただの棒にも構え方がある。見てな」
キメラが手本として棒を構える。正面から見ると垂直ではなく斜めになり、側面から見ると腕の間に空間がある。
「まず大事なのが手の位置。左手が上で、右手は端っこを持つ。離れた場所だぞ。この持ち方なら、こんな動きができる」
キメラは右手だけを動かした。連動して棒の先端が右へ左へ、後ろへ前へと彷徨う。観察するキノコの顔に当たりそうで、ぎりぎりで離れる。
「テコは知ってるだろ。左手が支点、右手が力点だ。棒はこう見えて勢いじゃない。操作するんだよ。太くて重い奴ならなおさらだ。今度、どっかで試してみな」
キノコはただの棒を大興奮で動かす。前へ後ろへ、右手の動きで先端を操る感覚を体に馴染ませる。キメラの見様見真似でも、この様子なら身につけるまでは早そうだ。
「たのしい!」
「そりゃよかった。しばらく遊んだら、次は銃だぞ。突貫工事でもこの調子だし、キノなら大丈夫だろ」
キメラは薬室が空で弾倉がダミーカートと確認し、構えて見せた。前から、横から。そしてキノコが肩の後ろから覗く形で、注目すべき部分、銃の上部にある突起を指した。後ろ端に凹型のこれが照門、前端に凸型のこれが照星で、
それぞれ白い点で目立たせてある。
「この点を目印にして、一直線上に並べるんだ。キノの目、後ろの点、前の点、そして的。真っ直ぐ並べて撃ったら、狙った場所に当たる」
キノコと前後を交代し、同じ動きをさせる。まずは構えるだけで重さにふらついた。調整しようにも手が震えて、いつまで経っても『真っ直ぐ並べ』られない。
「重いもんな。そこで構え方だ。右手は思いっきり押して、左手は思いっきり引く。これで力が吊りあう」
「けっこう疲れるんだね」
「まあな」
ここまで伝えたら、キノコの右手と右肘を掴み、前腕を胸に密着させる。ここまで見守っていたユノアが口を挟んだ。
「撃つ前も構えの一部だぞ。動くときの銃は胸の前だ。落ち着ける場所まで逃げて、撃つときに腕を伸ばす。銃の動きを減らすためだ」
「待ってキメラ。キノちゃんにそこまで教えてどうする気?」
そんな動きをする機会を与えるのかと。体が小さいのは単に撃ちあいでは的が小さい分だけ有利ではある。だからって死と隣合わせの境遇を無闇に増やすなど。肩がまだ弱い身だ。反動が確実に負荷になる。ユノアの指摘すべてはもちろんキメラも把握した上で、答えは決まっている。
「そりゃあ、付け焼き刃に頼りはしないさ。けど、この小さな差が生死を分ける。そんな局面はいくらでもあった。もし知らなかったせいで死んだら、そんなのは最低だ。私はキノに生きのこってほしい。同じだろ」
ユノアは渋々ながらも頷く。キノコが危機のキの字も知らぬままでいられる手を打っているとはいえ、状況が転ぶ先はいつでも悪いほうだ。キメラも銃の撃ち方だけわかっていればいいと明言した。狙うときは足を止める。動きながらは難しいし、慣れるほどにはさせない。離れすぎなぐらいに離れて、追ってくる相手だけをじっくり狙う。逃げて済むなら全力で走って済ませる。
様子を察知したキノコが口を挟む。
「心配してくれるみんなに囲まれて、きのは特別な幸せ者だよ。だいすき!」
胸の前で両手を握る姿勢で湧き上がる笑顔を見せる。極上の絵になる一枚を前にして、キメラも、ユノアも、考えは同じだ。汚れ役は少ないほうがいい。この場にはすでに二人もいるんだ。三人目になど、させるものか。
演習を続けながら日を待ち、いよいよノモズからの知らせが届いた。
三人はまず地下トロッコで二番堂へ向かう。ひとつ上層に匿われた一般人に紛れて、船着場へ向かう。
大陸の北部に急造された、ほとんど桟橋と小屋を置いただけの貧相な一帯だ。ガンコーシュ帝国領のうち、スットン共和国に最も近い集落だった。首都までの道が山で分断され、海路での行き来が中心だった。先の戦火の流れ弾で破壊されるまでは。
ここには多数の逃げ遅れた民がいる。エルモの礼拝堂をはじめとする地下シェルターでやり過ごして、仮設でも港を復興してから、仮設住宅へ移送する。その波に乗じて帝国に潜入する。近くに見知らぬ顔がいて当たり前の今なら、几帳面な連中からも隠れられる。
雑踏はユノアの得意分野だ。港への道に見える何かの残骸は、周囲の話によると、馴染みのケーキ専門店の外壁らしい。周囲の雰囲気は沈みきっている。自分たちも合わせて、誰でもない大群の一部になる。
紛れ込む一環を兼ねて、キメラも呟く。
「キノと約束したケーキ、買えなくなっちまった」
「待つよ。いつまででも」
船着場に近づくほど啜り泣く声が増えていく。元々ここにあったものはすでに片付けられている。訪れた船乗りが求める飲食店や酒盛り場をはじめ、多数の産業があった。関わる人間が多いほど、失った人間も多い。そんな調子に加えて書類の焼失もある今、身元の確認もないまま、続々と船に乗り込んでいった。
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