クラゲになりたい
穏やかなだな,と思った。始めて自分の顔を客観視する。赤坂仁,と書かれたネームプレートの晴れた部屋には入ったが,そこにいたのは鏡に映る自分とは全く別人のように思える。いや,こんなことになる前には,もっと暗い顔をしていた。何にでも噛みついて,強がって,寂しくて。鏡の中にはいつも不安げに立ち尽くす自分がいた。
ベッドに横たわった自分は,穏やかな顔をしていた。何かから解放されたような,心地よさそうな寝顔だった。このまま寝かせておいた方がこいつにとっては幸せなのかもな,と思った。無意識で,何かと疲れる現実にうんざりしていた。赤坂仁に意識があったころ,彼は幸せだったのだろうか。まるで他人事のように考える。
大介はどうだろうか。あいつは自分の身体に戻りたくはないのだろうか。俺の身体に入り込むでもなく,自分の身体に戻るでもなく,ただあの暗い空間を漂っている。それはそれで気分がいいものなのだろうか。
ふと,昔おふくろに連れて行ってもらった水族館のことを思い出した。小学校に入学する前くらいだろうか。いつも仕事でほとんど家にいないおふくろだったから,一緒に出かけることは滅多になかった。そのため,最初で最後の水族館は印象深かった。
あの頃,一番見たかったのはタツノオトシゴだった。あの不思議で愛くるしい姿に魅了され,買ってくれとおふくろにせがんだこともあった。もちろん買ってもらうなんてことは叶わず,その代わり「水族館に連れて行ってあげる」という言葉に踊るように喜んだ。「いつ行けるの?」とせがむ俺に,「休みを取れるように頑張るからね。それまで我慢していてね」と言った。今までにも何度かそういうやり取りをしたことがあった俺は,おふくろが休みがなかなか取れないことを分かっていた。朝から晩まで働きづめで,それでも自分のことを気にかけてくれることが嬉しかった。果たされなかった約束の方が圧倒的に多かったけど,それでもよかった。
忘れたころに「今度の日曜日に休みが取れたから,水族館に行こうね」と言われたときには思わず「いいの?」という言葉が口をついた。「だって,約束したじゃない」と言う母親に飛びつくようにして抱き着いた。「いつもごめんね」とつぶやく声には気づかないふりをした。
そんないきさつがあったから,水族館に着く前から興奮しっぱなしだった。受付のお姉さんにチケットもらった時には,まだ入りもする前にスタッフに「タツノオトシゴはいますか?」と尋ねていた。おふくろもスタッフも笑っていた。
入り口をくぐると,そこには別世界が広がっていた。部屋全体がガラスで覆われていて,その向こう側には名前も分からない魚が数えきれないほど泳いでいた。まるで,自分が海の中にもぐりこんだみたいだった。
部屋を少し進んだところにある水槽には,優しく触ってね,と注意書きがしてある。
「ねえ,触ってもいい?」
「もちろんよ。その代わり,優しく,ね」
頭をポンポンと叩かれた後,行っておいでと伝えるように背中を押された。水槽まで駆け出して中を見ると,そこには色とりどりのヒトデがいた。
「うわ,きったねえ。ぬるぬるしてるし」
「石の上に置いたらどうなるのかな」
小学校低学年ぐらいだろうか,先に二人の子どもが遊んでいた。悪気はないのだろうが,子ども心にヒトデを傷つけるような言動に感じた俺は,そういえばここでも尊大な正義感を発揮したのだ。
「やめろよ。かわいそうだろ」
「誰だよお前。あっちいけよ」
「お前たちがあっち行けよ。生き物を大切にしないのなら出ていけ!」
掴みかかろうとしたその時,「こらこら」と後ろから抱きかかえられた。
「ごめんね。邪魔しちゃって」
おふくろが二人の子どもに軽く頭を下げると,ばつが悪そうにしてその場を去っていった。
「なんで謝るの? 悪いのはあっちなのに」
おふくろはすぐには何も言わなかった。でも,その顔は叱りつけるときの顔でもなかった。
「そうね,仁,立派だったわよ」
立派ならどうして止めるんだ,という気持ちと,褒められてうれしい気持ちの間でどういう顔をしたらよいか分からないでいるうちに「でもね」とおふくろは続けた。
「どれだけ正しいことをしても,相手を傷つけたらダメなの。分かった?」
正しいことと,相手を傷つけることは反対のことだと思った。そんなことを同時にするはずがないと思ったけど,今まさに自分がしていることがそうだったのだと思い至ると,おふくろは「偉いね」とうなずいて頭をなでてくれた。
「見て見て! すっごいかっこいい!」
近くにいた人が振り向くほど大きな声でおふくろを呼んだ。「他の人もお魚さんもびっくりしちゃうよ」とたしなめるのも聞かずに,腕を引っ張って水槽の前に駆け出した。
不思議な形をした生き物だ。ゆらゆらと漂う姿は愛くるしいが,成長したら強くなりそうなロマンが感じられる。家に持って帰って大きく育てたらどれほど幸せだろう,と思う。
「ねえねえ,連れて帰って良い?」
冗談で言った言葉に,反応はなかった。おふくろの方を見ると,視線は隣の水槽に映っていた。
「何見てるの? あ,クラゲだね。クラゲが好きなの?」
「クラゲさん,いいね」
「うん,きれいだし,ぼくも好き!」
「ゆらうら気持ちよさそう。脳みそとかあるのかしら。なーんにも考えずにただふわふわしているって気持ちいいんだろうな。私もクラゲになりたい」
言っている意味が分からず,おふくろをじっと見つめていた。その視線に気づいて,「ごめんごめん,次あっち行こっか」と次は腕を引いて歩きだした。
水族館で一番明瞭に浮かび上がる思い出は,その瞬間だった。
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