二章 第十四話「雪解け」
「ヴェルトモンドに山も海もなかった時代、大精霊の間にとある戦争がありました。伝説として残っている限りでは、精霊大戦と称される戦いであります」
最後列にロレッタと一人分空けて座り、エルキュールは粛々と語られる言葉に耳を傾けていた。
祭壇の前に立つ司祭。平日午後のミクシリア教会。今日のテーマは、リーベもイブリスも生まれる前にあったとされる古の戦いについてらしい。
「大精霊も、その傘下であった精霊たちも激しく争い、その熾烈を極めた戦いの結果、ベルムントは他の大精霊によって封印されました。これにより偉大な大精霊は、惜しくもその数を減らしてしまうことになります。しかし、破壊の後に創造があるように、この別れの後にも、ある大きな出会いがあったのです」
司祭の声が、次第に朗々と。前の方に座っている信者どもにも、目に見えて高揚が宿る。
どうやらここからが肝心なようだ。隣からは欠伸の音が聞こえていたが。
「戦いによって六属性の魔素が衝突しましたが、妙なことに、その一帯には精霊とは全く異なる生命が生まれていたのです。そればかりか、混沌としたヴェルトモンドにあるはずもなかった大地が隆起し、清水すらも流れ始めた! 即ち、物質と有機生命体の誕生! 莫大な魔素の放出の果てに、精霊たちは新たな世界の兆しを見た!」
歴史的名著、『ヴェルトモンド創世記』にも記された、リーベ誕生の章。書籍だけが友だったあの頃を思い出しながら、エルキュールは姿勢を正した。天地を創造せし精霊に対する畏敬ではなく、ロレッタの視線が居た堪れなくなってきたからである。
「ですがリーベと呼ばれるその生命は、精霊とは違って魔素との相性が良くなかった。外界の魔素を吸収して生きることはできなかったのです。大精霊はそんなリーベのために、彼らの住まう地を与えようとしました……」
司祭の語り口が穏やかに、哀を帯びる。
火のゼルカンと水のトゥルリムが山海と四季を生んだ。風のセレと土のガレウスが、新生ヴェルトモンドに恵風と豊穣をもたらした。光のルシエルが天に光球を拵え、天下を遍く照らした。
そして生を得たばかりの無垢なリーベたちは、精霊の加護の下、めいめい大地を闊歩し、争い、その数を次第に増やしていった。
「一方、かつてヴェルトモンドを制した大精霊は、残った精霊たちに呼びかけます。我々の時代はこれで終わったと。大戦の結果、もはや精霊の力は底をついており、天地創造の末にその命すらも直に尽きようとしていたのです……」
リーベにヴェルトモンドを明け渡した大精霊は、残った最後の力でこの世界に留まり、かつての友であるベルムントへ祈りを捧げた。混迷を極めた精霊同士の諍いに終止符を打ち、共に一つの時代を築いた同志の安らかな眠りを願った。
「やがて精霊は全て姿を消しますが、その恩恵だけは今も消えません。各地にある聖域然り、我々の存在然り。ベルムントの謀反が、精霊大戦が、そして大精霊の慈悲がなければ。我々は今ここに居なかったでしょう。故に、六霊に対する感謝の気持ちを忘れてはならないのです。日々を精一杯、生きなければならないのですよ」
司祭は説法を締めくくると、両手を前に広げた。整然と並ぶ長椅子に腰掛けた六霊の徒も、みな揃って両手を組み、目を閉じて祈り始めた。ここまで長かったが、ついに祈りの時間がやって来たようだ。
一方エルキュールは困惑していた。司教の話はとても興味深かったが、それで直ぐに信仰心が芽生えるというわけでもない。
助けを乞うようにロレッタを見る。
「……なによ、私を放っておいてありがたいお話に熱心だった挙句、心に響かなかったから今度はシスターに文句でも言うつもり? 見上げた根性ね」
「そんなつもりでは」
ぷくりと頬を膨らませるロレッタ。
きっと話があると誘っておきながらいつまでも本題に入らなかったので拗ねているのだろう。彼女にとってあの説法は対して聞きたくもなかったはず、エルキュールは素直に謝罪した。
「しかし、話そのものは意義あるものだった。俺がいま求めている情報にも通ずるところもある。ただ一つだけ疑問なのが、どうして先ほどのような古代の話が現代にまで伝わっているのかということだ」
六霊教が始まって1700年経ったが、リーベの歴史は少なくともその10倍近く続いているとされる。その間に一体幾つの文明が興っては滅びたのか、エルキュールは知らない。無論、その趨勢が如何様であったのかも。
「そうね。とても正しい意見だと思うわ。思考を停止させてそこで首を垂れている人たちよりも貴方は賢い」
いちいち棘がある物言いをするものだ。言葉を呑み込んで、エルキュールは続きを促す。
「説明してもいいけれど、今は都合が悪いわね。精霊に関することはあまり一般人には知られないようにって言われてるのよ」
「……気になることを言うんだな。だがそういうことなら先送りにしてしまった俺の提案の話でもしよう。時間が過ぎれば、人も直にいなくなるだろう」
教会の連中を邪魔しないよう、エルキュールらは隅に寄って声を潜めた。
「端的に言うと、君には俺の仲間になってほしい。デュランダルの特別捜査隊として、アマルティアの調査を手伝ってもらいたいんだ」
「……ふうん、アマルティアの。確かに、謎だらけな連中よね。あのディアマントといい実力もとんでもなかったし、デュランダルが策を講じるのも当然かしら」
「その通りだ。魔物が活性化している今の状況には、彼らの影響が大きくある。目的や弱点、組織の規模などを知ることができれば、人々の安全をより確かなものにできると」
「つまり私の力を見込んで、その新しくできた隊に参加してほしいと……話は理解できたわ」
端の壁に背を預け、目を閉じるロレッタ。腕まで組んで思案する様は、一般のシスターからあまりにかけ離れていて。エルキュールは苦笑を禁じ得なかった。
やがてロレッタが小さく息を吐いた。考えが纏まったか。
「もしかしたら、ジェナやあの胡散臭い馬鹿から聞いているかもしれないけれど。私はね、何もこの世界のためにだとか、人間の平和のためにだとかいう理由で魔物を殺してはいないの。ただ憎いから奴らを殺すの。報いるために、今まで必死に生きてきたのよ」
ロレッタは事実を語る。家族が魔獣によって奪われたこと。縁があってこの教会の世話になったこと。独学で戦闘技術を学び、魔法を覚えたことを。
「母さまと父さま、姉さまを私から奪っていったこと、絶対に許さないわ。私が戦う理由は、ただそれだけ」
悲壮の少女、憎悪に彩られた双眸。その意志は固く、歪んでいる。
互いの思想は相容れないとでも言うつもりか。
けれどエルキュールには理解できていた。彼女の目元に滲んだ雫の意味も。堅氷に覆われた本意も。
礼拝を終えた者がエルキュールらの背後を通って次々と教会を後にしていく。
ある二組の男女の会話が聞こえた。
「精霊様に祈れば魔獣に怯えなくても済むよね……?」
「ああ……精霊様は俺たちに力をくれるはず。街をこんなにした魔物どもなんてすぐに根絶やしさ。そうしたら、このヴェルトモンドを自由に歩ける日が来るんだ」
「……わたしは平和に過ごせるなら、争いも自由もいらない。とにかく、もう傷つきたくない」
エルキュールの注意が逸れた一瞬の後、既にロレッタの表情は元通りになっていた。身を切るような北風の如く、近寄り難い態度。
「確かに君とは、魔物に関する考えが合わないようだ。俺には君のように復讐を貫くことはできないだろうから」
「あら、そう。似た境遇の者同士なのに、残念ね。ならさっきの話も撤回する? 貴方のように甘い人間は、きっと私についてこられないもの」
あのように悲痛な顔を見せた今となっては、その頑なな態度も単なる強がりにしか見えなかった。
エルキュールは迷わずに告げる。
「そんなことはない。むしろ君と行動を共にすることは、お互いに有益なことだと思う」
「……どういうこと?」
「君の容赦ない態度を見ていると、俺も身が引き締まる。必要なところで一歩踏み込める、そんな自分にならなければと思わざるを得ない」
魔物との戦いに躊躇いなく臨み、同時に自らの罪深さも忘れないでいられる。彼女がもたらすのは、言うなれば毒のような勇気だ。
「そして君みたいな人間は概して一人でいることを好むが、戦いにおいて孤独は時に死を意味する。君もあの襲撃時に思い知ったはずだろう?」
「一理あるけれど……いの一番に飛び出していった人に諭されるとは滑稽ね」
そこを指摘されると弱い。エルキュールは言葉に詰まる。しかし一人で行動していた時の苦労を思うと、逆説的にその言葉の正しさは証明されるだろう。
わざとらしい咳払いで空気を改める。
「……たとえ何もかもが異なっていたとしても、俺たちは同じ方向を向けると信じている。多少は妥協を強いることになるだろうが、それでも君に損はさせない」
グレンに過ちを諭され、ジェナに道を照らされたように。ロレッタに言葉を贈る。彼女のその命まで魔物に奪わせはしない。死と隣り合わせの殺戮の道を一人で歩いてほしくない。
もしそんな役割をこの世界の誰かが負わなければならないのなら、それは魔人であるエルキュール一人で十分だ。他の誰かが傷つく姿も、過度に傷つけられる様も。
ヌール=ミクシリアの変と今日のこれまでの経験を経て、改めて胸に刻んだ願い。
その成就のためならば。どんな矛盾にも、果てしのない喪失感にも耐えよう。このヒトの世界で自分が生きるためには、アマルティアを止めるには、もはやそうするほかないのだ。
「……はあ、もう、分かったわよ」
睨み合った視線を先に切ったのはロレッタだった。不満そうに唇を歪めているが、声色にはやけに優しいものが混じっている。
「確かに私にとっては利のある話だものね。一介のシスターでいるよりずっと良いわ。だから貴方のその必死さに免じて折れてあげる。協力してあげるわ」
それは間違いなく、求めていた快諾の言葉であった。
少女の変心にエルキュールはそっと胸を撫で下ろし、隊に加わってくれることに礼を述べようとしたが。
宥めるようなロレッタの物言いが妙に気がかりだった。彼女に「だって泣きそうな顔してるわよ」と言われて、ようやくエルキュールも自覚した。そして幾ばくかの羞恥を覚える。単なる勧誘のはずなのに、何をそこまで感情的になっているのかと。
万が一にも自分のことが全て知られてしまったら、それこそ本末転倒だ。仲間を得るどころか、全てを失ってしまうのだから。
ロレッタへの感謝もそこそこに、エルキュールの胸には色濃い反省の念が沸々と沸き起こっていた。
「ふ、ふふ……! 可笑しな顔で、可笑しなことを言う人ね、まったく。どうしてそこまでするのかしら……」
しかし、目の前で笑う年相応な少女の姿を見れば。そんな失態すらも意味のあることのように思えたのだった。
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