一章 第十二話「黄昏時の小休止」
「……う、うーん……ん?」
か細い呻き声が耳を打つの感じ、それまで沈みゆく陽をぼうっと眺めていたエルキュールは視線を横へと滑らせる。
見やると、亜麻色の髪の少女が未だ霞む眼を擦りながら、辺りの様子を不思議そうに見回していた。
急に意識が飛んだのだからその反応も無理はないと、エルキュールは疲弊した精神に鞭を打って努めて明るく切り出した。
「どこも痛くないか、ジェナ」
「え……? ああ、エルキュールさん……うん、大丈夫みたい」
「そうか、ならいいんだ」
ジェナには痛みを訴える様子はなかった。それに受け答えもしっかりしている様子だ。
ならば一刻も早くもここから脱出するべきだろうと、闇の空間転移魔法を詠唱しかけたエルキュールだったが、すぐにその動きが止まる。
「ん……? どうかしたの?」
「ああ、そうだな――」
当然ジェナからは疑問の声が上がる。対するエルキュールは一瞬どう切り出すか迷うようにまごつく。が、意を決したように息を吐き、対するジェナを見据えた。
「言うのが遅れて申し訳ないが、まだ君に礼を言っていなかったなと……」
「お礼……ってなんのお礼?」
「いや、覚えていないのか? 俺が不意を衝かれたとき、身を挺して守ってくれただろう?」
やはり記憶に混濁が生じていたのだろうかと、若干心配になりながらも詳しく説明をするエルキュール。
その懸念に反し、ジェナは説明を聞くや「ああ」と納得したように声を漏らした。
それだけならまだしも、彼女は何かを思い付いたかのように、その丸っこい瞳をさらに丸くし、酷く慌てた様子でエルキュールに詰め寄ってきた。
「そうだ、そうだよ! あの時、私はすぐに気を失っちゃったから分からないけど、あれって魔人だったよね!? エルキュールさんこそ、あれと一人で戦って大丈夫だったの!?」
少女の変わりように、エルキュールは身をのけ反らせながら首肯する。こちらがお礼を述べたというのに、それを意にも介さず逆に身を案じてくるとは。
善人を通り越して流石に人が好すぎるのではないかと、彼女の自己犠牲の心に気を配るが、今の自分が言えた義理ではないとすぐに思いなおす。
「ああ、それなら――」
そしてアマルティアの魔人、ミルドレッドとの戦闘についてジェナに語り始める。もちろん自分が魔人であるということと、ミルドレッドがアマルティア幹部だという情報は触れないでおいた。
前者は論外として、後半部分については帰ってから皆が集まった時に触れたほうがよいと判断したからだ。
とにかく今は、ジェナを安心させることだけを考える。
「――ということで、何とか痛み分けという形でこの場は退いてもらった」
それまでずっと神妙な面持ちで聞いていたジェナは、エルキュールが話を終えるや否や盛大に息を吐いた。
「そっかぁ……はあぁぁ、よかったー……」
それから安心しきった様子で相好を崩すジェナに苦笑しながら、エルキュールは逸れた話題を本意へと戻した。
「……そう、俺が窮地を脱することができたのも、君のおかげだ。だから……ありがとう、ジェナ」
「……ふふ、そっか。うん、どういたしまして」
真摯に目を合わせてお礼を言う。これほど面と向かって自身の思いを伝えたのは相当久しぶりかもしれない。皮肉にもあの魔人との邂逅が、エルキュール自身の気持ちを僅かに良い方向へ変化させたようだった。
かえって真っ向から感謝をぶつけられたジェナは、少し恥ずかしそうにはにかんで答えた。沈みかけている陽のせいか、その顔は少し赤みがさしている。
「……って、それってこんなに畏まって言うことかな!? びっくりしたなぁ、もう……」
生まれた空白はそれほど長いものではなかったが、それでもジェナにとっては気まずさを感じるには十分過ぎる時間だったようだ。彼女はわざとらしい大声で照れくささを誤魔化す。
だが、そんな女性の心の機微がエルキュールに伝わるはずもなく。彼は至極当然に、先の彼女の言い分を正す。
「それはそうだろう、下手すれば命に関わることだったのだから。というより……よく会ったばかりの人間に対してあれほど熱心に振る舞えるな。どうして君はそこまでできるんだ?」
「……えぇーっと……それは……」
言葉を濁らすジェナに思わずはっとする。まるで大したことないように振る舞うものだから、つい口をついて疑問をぶつけてしまっていた。
恩人に対して口にするには、少しばかり失礼だったかもしれない。エルキュールはすぐさま言い繕うとしたが、それよりも早くジェナの口が開かれた。
不思議なことにエルキュールにはその表情が、何か一つ、大きな覚悟を決めたようにも見えた。
「ねぇ、エルキュールさん。それについてはね……少し訳があるんだ。私も今の今まで気付かなかったことだけど……どうやら私の方からも、あなたに言うべきことがあったみたい。良かったら聞いてくれるかな?」
その内容はエルキュールにとって心底意外なものだった。
意味深な口ぶり。それでいて本人も意図していないようにも思える、曖昧な話し方であった。
真意は測りかねるが、あれこれと考えるよりも先に、エルキュールの口は動いていた。
「分かった。話があるというのなら聞こう。聞くが……それは長くなるような話だろうか」
「うーん、どうだろう……取り留めのない話だからなぁ。ひょっとすると長くなるかもしれないけど……」
「ならば、歩きながら話そう。本当なら魔法で移動するところだったんだが、何だか俺も……疲れてしまったみたいだ」
疲れはあるが、魔法を放出できない程ではない。これは単にエルキュールが彼女を気遣った結果出た言葉だ。
エルキュールにとっては珍しい、婉曲的な方便。
会って間もない彼女に、なぜそこまでと思わないこともない。それほどまでに彼女の話が気になったからなのかもしれない。
それとも、このジェナという少女に、エルキュールは何か特別なものを感じているとでもいうのだろうか。
答えはこの黄昏の空のように仄暗く、曖昧だ。そうして、二人は揃って夕暮れに染まる木々の道を歩き始めた。
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