第18話 ココアの香り

 小学生の頃、俺には友達が居なかった。


 いや、居なかった…というのは少し語弊があるか。正確には居たが、裏切られた…と言ったところ。


 たかが小学校、所詮小学生だ。

 裏切られた、なんて形容するの程の事では無いだろうと俺だって思う。


 けれど、その時は確かに思った。

 裏切られたと…。


 今更恨んでるわけじゃないし、憎んでるわけでもない。今になって話を掘り返すことも、蒸し返すつもりも無い。


 ただ、あの時に初めて「信じていた人に裏切られる感覚」を味わった。


 以来まともな友人関係を作っては来なかったが、今では瑠衣と白雪が居るからチャラで。


 そして二度目が椿の浮気だ。


 昼休みになると砂埃に菓子パンのゴミをふっ飛ばされながら昼食を食べているか、一年生が気になる人に告白してる光景が良く見られる高校の屋上。


 そこでまさかの性行為に勤しむ椿と鍋島先輩の姿を目撃してしまったゴールデンウィーク直前の日。


 裏切られた、とそう感じた。


 それから、椿と話をすると同じ様な気持ちに何度もなった。


 母さん、遥香、如月、妹である雫に至るまで彼女を拒絶した。


 …なのに、何でだろうな。




「ん…ぅ…」


 どこか寝苦しく感じて、俺は枕から頭を上げた。


 夢を見ていた筈なのに、考え事をしていた様な感覚があった。


 俺の心の中にはどうして、未だに彼女が居るんだろう?


 好きだという感情は確かにあった。

 その感情は時間と共に幼馴染みとしての好きに変わって行ったんだと思う。


 間違いなく恋心はあったと断言できるの。それなのにいつの間にか、恋心とは別物になっていた。


 今は違うんだから、と切り捨てるのは容易い。


 だが俺にとって黒崎椿は、どれだけ腐っても隠し事をされていても、彼女だったし幼馴染みだ。

 俺の中には彼女を想う気持ちがある。


 だからと言うつもりは無い。

 理由なんて自分では判らない。椿と父さんの密会を雫に見せられてから、どうも心がモヤモヤする。


 椿の事だけじゃなく、父さんが相手だったから余計に何かを感じてるのかもしれない。


 端的に言えば「気に入らない」という事なんだろう。


 自分がここまで面倒な人間だとは知らなかった。

 居たら居たで嫌悪する癖に、居なかったらそれはそれで気になるのか。


 時間が経ってもスッキリしないのは、まだ隠し事をされているからだろうか。


 今どうなのかは知らないが、少なくとも以前まで彼女は俺の彼女という立ち位置に拘っていた。


 何故なのかは分からない。

 その位置に居なきゃいけない理由なんて何一つ無かった筈なのに。


 …駄目だな、俺一人では考えても分からない。


 俺と自分と同じ様にベッドに転がっていたスマホを手に取り、疑問をぶつけられる相手を探す。


「………あ、もしもし?」

『…どうしました。今、深夜ですよ?』

「あ、ごめん。てか、なんか声反響してる?」

『お風呂ですからね』

「この時間にかよ…」


 一瞬頭の中でお風呂に入る雫の姿を想像した。白い肌と美しい白髪が濡れて湯気を纏う……


「…後でかけなおすわ」

『このままで良いのに』

「…良くねえだろ」

『ならビデオ通話にしますか?』

「事態が悪化するわ」


 想像を現実にされちゃ困る。

 …あ、いや…?別に俺が困る事は無いのか。

 …めっちゃ困るわ、こっち思春期男子やぞ。


「そんな話じゃなくてな、少し相談…というか、聞きたいことがあってさ」

『スリーサイズですか、上から…』

「違う…『はちじゅ』おい違うっての!話聞けって!」

『ならなんですか』


 えっ、ちょっと待って?今上からで八十って言った?

 何気に凄い気になる部分の数字を聞かされた気がする。

 …と、それはそうとだ。


「雫から見てさ、椿が俺に拘る理由って何かあるか?」

『…はあ、何の話か知りませんけど…。少なくとも私は会った回数が10回未満にも関わらず5年放っておかれた後も片想い続けてたくらいには、凛華兄さんに執着してますから。10年以上一緒に居たら離れられなくなるのも当然では?』


 スゲェ…説得力が違い過ぎるんだけど。


『…で、何の話なんですかこれ?』

「あの、ほら。椿が妙に俺の彼女ってところに拘ってたから、何か理由があるのかなって」

『強いて言うなら、依存心』


 候補や可能性、そうかもね、という物ですらなく。


 依存心である、と雫は断言した。


『凛華は依存されやすいよ、間違いなく』

「…なんの根拠があって…」

『実体験』


 なんかさっきからこの子の説得力が凄いんだけど。

 どういうことなの?


『適度にワガママ聞いてくれるけど駄目な事は駄目ってハッキリ言ってくれるし。何だかんだ言いながら構ってくれる、肝心なときは頼りになる。かなり寛容な性格で適度な距離感に居る時は良い友達だけど、近くに居ると居心地の良すぎてダメ人間にされる。さり気なく弱み見せてくるから母性くすぐられるし、話してると誠実さが垣間見える、あと一途だから一緒に居て安心できる。それに…「流石にもう良いわ、お腹いっぱい」…あと百個くらい言えるけど』


 そんなに言わなくて良い、自分のいいところ探してくれ。今から探すまでもなくめっちゃ知ってそうだけど。

 聞いててめっちゃ恥ずかしかったんだけど、今顔めちゃくちゃ熱い。


『…とにかく、凛華は近い距離に居ると居心地良いの。だから椿が凛華に依存心を抱いてるとしても全く不思議じゃないですよ。たとえ体を許してくれなくても、あまり認めたくは無いですが、凛華と椿の心の距離は近いので』

「…成程ね、相談する相手間違えたと思ったけど、全くそんな事無かったな」

『その間に入って椿の事を蹴落とすのが私の目的ですから』

「大丈夫、そんな事するまでもなく雫との距離は近いから」


 雫と話して、一つ心に決めた。


 その内…いつになるかは分からないが、その内。


 椿ともう一度ちゃんと話した方が良いかも知れないな。


 ふと、スマホ越しにザパッ…と風呂から上げる様な音が聞こえてくる。

 ペタペタと風呂場を出て、体を拭いて…


「っておい!何聞かせてくれてんだお前!」


 めっちゃ想像できるのがなんか嫌だ。

 また前みたいに手のひらの上で転がされてる感覚にあるのが気に食わない。


『はい?こういうプレイは嫌ですか?やっぱり見ます?』

「その姉妹揃って隙あらば裸を見せようとするのはどうにかなんねえのかな」


 下ネタ姉妹って呼ぶぞ品のない奴らだな。


『凛華兄さんが拒否する前提で言ってますから。信頼の証ですね』

「要らねえよその信頼の証」


あとそれいつかの俺のセリフだろ。


『…今更ですけど、凛華って女の子体に興味無いとか…?それとも脱がせたいタイプですか?』

「せめて雰囲気から入りたいタイプだな、そんなのはどうでもいい、早く服着ろよ」

『なんで服着て無いの知ってるんですか、覗き?』

「布の音聞こえてこないから…ってそんなのどうでもいいんだっての!……こっちはもうちょい話したいんだから…」

『っ…!…分かりました。後でこっちからかけ直します』


 雫はそう言って一度通話を切った。


 一人で居る静寂と、不思議な孤独感に耐えられなくて俺は部屋を出てリビングに向かった。

 ド深夜、母さんも遥香も部屋で寝ているだろう時間にマグカップココアを作ってソファに座る。


 …いつもならこんな事無いんだけどな…。


 しばらくして空になったマグカップを片付けてソファに戻ると、丁度スマホが震えた。


『玄関開けてください』


 …はぁ…?


 えっ、あ?


 とりあえず文面の通りに動いて玄関に向かった。


 鍵を開けてドアを開けると、黒いネグリジェを纏う白髪美少女がスマホ片手に立っていた。

 うわぁ…夜空が似合うなぁ…。


「…何で来てんだよ…」

「寂しそうな声だったから」


 寂しそうな声…?

 雫が俺のすぐそばを通ると、ふわりと落ち着く香りが鼻に触れた。


 雫は特に何か言うでもなく二階に上がり、俺の部屋に入っていった。


「…雫…?」


 …あれ?俺、何気に女の子寝室に入れたの初めてじゃないか…?

 椿すらこの部屋には入って来なかったのに。

 なんせ娯楽の類は一切置いてないから。


 趣味がお菓子作りに特化してるから仕方無い。そりゃ同年代の友達できねえよ、趣味が欠片も合う人が居ないんだもんよ。


「凛華、こっち」


 雫に手を引かれて隣に座る…どころか、流れで同じベッドに倒れ込んだ。

 以前よりも至近距離に居る美しい少女の、金色にも似た瞳に吸い込まれそうになる。


 少し眠そうなその瞳に目を引かれて居たから、事態を理解するのに時間がかかった。


 ふにっ…と柔らかく重なり合った唇。

 熱を持った舌が音を立てる事もなく数回程度、優しく触れ合った。


「……?」

「ん…凛華、ココア飲んだ?」


 …えっ?


「…流石に、この先はダメですか?」

「………二百年待って」


 ちょっと頭が追いついてない。

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