その8 新しい家族

 8月末とはいえ、いや、8月末だからこそ、かなりの熱量を含んだ日差しがとめどなく空から降り注いでくる。そんな身体中の水分をごっそりと持っていかれそうな昼下がり。


「ねえ、瑠璃川、暑いから早く帰ろうよ……」


 荷物を両手に持たされているせいで、額から垂れてくる汗すら拭けやしない。なのに、瑠璃川は白いカプリーヌ―――女性が日除けのために使われるツバの広い帽子―――を被って、しゃがんで涼しい顔でさっき見かけたわんちゃんの頭を撫でている。


「何言ってんの! この子のほうが暑そうだよ!」


 なぜか、瑠璃川に怒られた。怒るのはいいよ、荷物を自分で持ってたらな。スーパーで買い物してたときに、ナチュラルに買い物かごを持たせてくる瑠璃川に「これって男女不平等だと思うんだ。重いものを持つのは男という固定概念に異議を唱えたい」と軽口を叩いてみたら―――


「あはは、確かにそうかもね。でも彼氏は違うでしょう?」


 ―――瑠璃川は上目遣いで俺を見つめてそう返してきた。ぶっちゃけ、ドキドキしすぎて、心臓が過労死寸前だった。というわけで、からかわれているのは分かってはいるものの、会計を済ましたあとも、俺はすんなりと瑠璃川が渡してきた荷物を受け取った。ははは、男って単純だな。なんか泣きたい……


 にしても、仮にも「彼氏」って呼んでくれたのなら、少し気を遣ってほしい。俺の価値は今出会ったばかりのわんちゃん以下か……


「るりか……」


 さすがに暑いから、また瑠璃川を急かそうとしたが、彼女の様子が変なのに気づいて、俺は言いかけた言葉を引っ込めて、瑠璃川の横にすり寄った。


 次の瞬間、俺は荷物を手放して、瑠璃川の前のわんちゃんを抱きあげた。荷物はそのまま地面に落ちて、ガタガタと音を立てる。


「ちょっと!」


 瑠璃川の声を一旦無視して、俺は手でわんちゃんの体温を測った。すごい熱い。しかも息が荒い。多分しばらく水は飲んでいないのだろう。見ず知らずの俺にいきなり抱っこされても抵抗できないほど弱っているのが何よりの証拠。

 大きさからして、まだ生後何か月も経っていない子犬のようで、母親とはぐれたのか、それとも見捨てられたのか……首輪がついていないのはそういうことだろうね。


「瑠璃川、行くぞ!」


「え、えっ?」


「動物病院だ! ほっといたらこの子の命が危ない!」


「あっ、はい!」


 俺からわんちゃんを受け取って、大切そうに抱える瑠璃川。彼女はそっと自分の帽子を取って、わんちゃんの体を覆うように被せた。


 瑠璃川の肌が雪のように白いのは、彼女の体質も影響しているだろうけど、普段から日焼け対策を怠ってこなかったのも大きいと思う。なのに、自分の帽子を躊躇もせず、わんちゃんのために使ったのは俺にとって少し意外だった。

 いや、瑠璃川と暮らしていて、分かったことがある。彼女は優しい。お人好しとは違った、しっかりとした優しさが彼女の中に宿っている。だから、この行為も驚くことじゃないのかもしれない。


 そして、俺は荷物を拾って、すぐにタクシーを呼んだ。




「もう少し遅かったら、熱中症で危なかったのかもしれませんね」


 獣医者の先生がほっとしたようにつぶやき、看護師の方は笑顔を浮かべて「ふわ」を抱えて瑠璃川に渡した。


「ふーちゃん、ほんとによかったよ。ママ、すごい心配したんだからね?」


 瑠璃川は「ふわ」を抱えて、ゆっくりと体をさすっていた。彼女の表情は母親のそれと寸分たがわなかった。


 うん、冷静に考えたら、分かることだよね……こうなることくらい。




 待合室でそわそわして待っていると、受付の看護師の方がすぐにやってきて、問診票を渡してきた。わんちゃんの様子を見て、看護師の方も緊急事態だと判断して急いでたのだろう。


 問題はそこじゃない。迅速な対応はすごくありがたい。ただ、問診票の「ペットの名前」というところに何を書いたらいいのかが分からなかった。

 なにしろ、この子には名前がないのだ。ペンを持ってあたふたしていたら、隣でわんちゃんを抱っこして座っている瑠璃川に問診票を横取りされた。そして彼女は勢いよく「ペットの名前」の欄に「ふわ」って書いて―――


「ふーちゃん、大丈夫だからな? ママとパパがいるから」


 ―――と「ふわ」に優しく話しかけた。「ふわ」って、昨晩、俺に適当に付けた名前じゃないかよ……名前のリサイクルってやつ?

 しかも、「ふわ」って書いてるのに「ふーちゃん」って、瑠璃川はすでに里親になったつもりでいるみたい。


 あれ? 名前に気を取られて気づいてなかったけど、いま瑠璃川さらっとすごいこと言わなかった? パパとかママとか……


「早く問診票返してきて! ふーちゃんは辛そうにしてるから!」


 そういうこと考えていたら、瑠璃川は問診票を俺に突き付けて、受付に返してくるように言われた。いや、それも大事だけど、さっきの言葉がすごい気になるんだよね……


 精密検査した結果、ふわは栄養失調と脱水症状で命の危機に瀕していた。先生はすぐに栄養素と水分を補給させるためにふわに点滴をした。

 普通だったら、獣医者は飼い主になんでこんな状態になるまで放置していたのだ? と怒るものだが、先生はふわの薄汚れた外見と首輪がついてないのを見て、なにか察してくれたのだろう。これからの処置の説明以外、何も言わなかった。


 点滴の間、瑠璃川は頭をふわの頭の横に添えて、ふわをずっと抱き寄せていた。彼女のそんな様子を見て、学校一の美少女って言われているけど、瑠璃川は普通のどこにでもいる女の子だなとそんな考えが頭をよぎった。


「わーん!」


 点滴の針を抜いたあと、ふわは元気そうに吠えて、瑠璃川の袖に顔を擦り付けている。


「ねえ、なんでふわって名前を付けたの?」


 名前のリサイクルとはいえ、さすがにオスのわんちゃんにこんな名前を付けたら可哀想だなって思ったから、俺は瑠璃川に聞いてみた。


「女の子だからだよ?」


 瑠璃川は今度、自分の顔をふわに擦り付けながら、俺の質問答えてくれた。その表情は今まで見たことがないくらい、幸せそうだった。


 そうか、雌ならいいか。って、ふわって雌だったの!? 確かに最初に抱っこしたときに、変な感触はしなかったけど……薄く汚れていて、毛が無造作に伸びているから、てっきり雄だと思った。

 

「一応、ここでもトリミングができますが、どうしますか?」


「はい! ぜひお願いします!」


 看護師さんの問いかけに、瑠璃川は元気に答えた。

 それを見た看護師さんは少し微笑んで―――


「任せてください!」


 ―――と返事した。




「瑠璃川ってやはりふわを飼うつもりなのか?」


 待合室で瑠璃川と二人で待っていたら、俺は胸につっかえていた質問を彼女に投げた。


「うん? 違うの?」


 質問を質問で返す瑠璃川。美少女だからか、少し天然に見えて可愛かった。


「瑠璃川の家ってペット飼っていいんだ……もう、両親に話した?」


「えっ? 何言ってんの? わたしたちの家で飼うんでしょう?」


「うん?」


「うん?」


 首を傾げて見つめあう二人。

 なぜか、俺が聞き違いかなと思って首を傾げたら、瑠璃川も不思議そうに首を傾げた。


「わたしたちの家って?」


「わたしたちの家ってわたしたちの家でしょう?」


 話が一向に噛み合う気がしない。

 まさかあの六畳しかない部屋でふわを飼う気じゃないだろうな、瑠璃川。


「そうだけど?」


 うわー、少し頭が痛くなってきた。

 でも、なぜか俺はそれを断れなかった。むしろそれもいいかもって思ってる自分がいるのが驚きだ。


「……とりあえず大家さんに聞いてみるよ」


「はーい、いってらっしゃーい!」


 携帯を取り出して、病院の外に行こうとしたら、瑠璃川は元気よく送り出してくれた。

 はは、ほんとに気楽だね……大家さんと交渉するのは俺なんだけどね……




「どうだった?」


 大家さんと電話し終わって、帰ってきた俺を見かけたとたん、瑠璃川は目をキラキラさせて聞いてきた。


「いいって」


「やったー!」


 ほんと、拍子抜けだったよ。

 大家さんに話したら、すんなりOKしてくれた。そういえば、瑠璃川が来たときに大家さんに電話した時もこんな感じだったな。


 それって大丈夫なの? いくらなんでも適当過ぎない? まあ、二年も部屋を綺麗に使ってきたから、それなりの信用はあると思うけど。


「お待たせ!」


 タイミングを計ったみたいに、俺がソファーに腰をかけたとたん、看護師は診察室のドアを開けてやってきた。

 

 まるで別人、いや、別犬のようだった。

 さっきの薄汚く毛が無造作に伸びているわんちゃんはどこにもなく、看護師が抱きかかえているのは、綺麗にトリミングされていてフローラルだかラベンダーだかの匂いを漂わせているふわだった。白い毛がもとの色を取り戻し、くりっとした目がさっきまで伸びていた顔の毛で隠されていて見えなかったが、今はキラキラしていてとても可愛らしい。全体的にふわふわで、まるでお姫様みたい。

 俺がわんちゃんだったら多分求愛していただろう。


「うわー、ありがとう! すごーくいい匂い!」


「ええ、お風呂にも入れさせてもらいました」


 にこにこしている看護師からふわをゆっくりと受け取った瑠璃川は、ふわを大切そうに抱え込んでいて、ふわの毛をクンクンしていた。

 こんなハイテンションな瑠璃川は見たことがない。


 家ではもちろん、学校ではそもそも関わりがなかったから、瑠璃川はこんな表情もするんだなと少しだけ胸がムズムズした。

 今ほど、ふわがうらやましいと思ったことはない。

 ていうか、今日からふわの里親になったばかりだから、当たり前と言えば当たり前か。でも、薄々と、この先、俺はもっとふわのことがうらやましくなるだろうという予感がした。

 子供に嫉妬するなんて、大人げないけどね。

 

「ふーちゃん、ママだよ」


 そして、瑠璃川はふわの顔をこっちに向けて―――


「こちらはパパ」


 そう紹介してくれた。


 胸がジーンと熱くなる。まるでほんとに瑠璃川と結婚していて、子供が産まれたみたいな気分になった。

 そんな未来があったら……いいな。


「ちょっと、照れるから……」


「あはは、パパ照れてる、ねえ、ふーちゃん?」


「わん!」


 こらそこ、ママに合わせるな……あっ……

 流れとはいえ、まさか、心の中で瑠璃川をママと呼んでしまったなんて……

 こんなの瑠璃川にバレたら、笑われるだろうな。


「いいか、伊桜くん、誰でもふわのパパになっていいわけじゃないの!」


 瑠璃川は真剣な顔になって言葉を綴る。


「伊桜くんが優しいからパパにしたの」


「俺が優しい?」


「うん!」


「そんなことないと思うけど……」


「君の作品からも分かるけど……ほら、イヤリングのこととか……?」


 瑠璃川は少し照れて―――


「それに、わたしは人の優しさに気づける人間になりたいから」


 ―――独り言のようなことをつぶやいた。

 そんな独り言に俺はどうしようもなく瑠璃川の優しさを感じてしまった。

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