第八十七話

 グレイがヘレナに頼んだことはある本に書かれてある内容を教えてほしいということだった。普段のヘレナであればまず間違いなく断ることなのだが、彼女としてはあと数時間も何もせずにここでただ闘技場の様子を眺めているというのは正直いって退屈極まりなかった。

 どんな人物であろうと少なくとも会話相手の一人は欲しい。それが例え多少苦手な相手であったとしても少なくとも一人でいるよりかは何倍かはましになるだろう。

 それに何よりグレイが見せたその本はヘレナの興味を惹くには充分であった。


「はぁ、その本貸して。あとちょっとだけ時間をちょうだい、その本読んじゃうから」


 グレイは軽く笑みをこぼして差し出されたヘレナの手に本を渡す。それを静かに受け取ってヘレナはペラペラとページをめくっていく。

 本に視線を落とすヘレナをチラチラと観察しながら闘技場の様子を眺めていたグレイ。二人とも互いに話しかけることもなく数十分が経過するころだった。

 グレイがおもむろに口を開いた。


「…………ヘレナさん、読むの早いんですのね」


「うーん、そう? 別にこれくらい普通だと思うけど」


 ヘレナはページをめくる手を止めることなくグレイの質問に答える。


「いえ、私ならそこまで読み進めるのに三日は掛かる自信がありますわ。というかさっきから流れるように読んでますよね、何というか前のページに戻って確認とかしないんですか? 私、いつも読んでる途中で訳わかんなくなって途中で止まってしまいますの」


「ん、まぁ言いたいことは分からなくもないかな、こういうのって基本面倒くさいくらい遠回りで書いてあるからね。実際私も最初に書いてあることとかほとんど覚えてないよ」


 相変わらず迷うことも止まることもなくただ淡々とページをめくるヘレナの手。確かにそれははたから見れば本当に読んでいるのかと疑いたくなる速さであった。


「えっ、その読み方あってますの? もっとこう、専門書は隅々まで読み込むからこそその内容を理解して自分自身で使えるようになるのではないですか?」


「うーん、私的にその読み方って小説の読み方なんだよね。物語の全体を理解するには始まりが肝心でしょ。最初からあやふやだと途中で「あれ? 何でこうなってるんだ」ってわけわかんなくなっちゃう。でもさ専門書これなんて小説と違って要点だけを読んでいけば大体の内容はわかるんだから。やたらと難しく書いてあるだけで実際に言ってることなんてこの半分もないと思うなぁ、私は」


 どうせ最後に結論は書かれてるわけだからさ、とすっぱり言い切る彼女にグレイは驚きを隠せなかった。これまでの自分とは全く違う読み方をする目の前の少女、言ってることは理解できなくもない、ないけれど少なくともグレイには初見の書物に書かれている要点を見つけるなんて芸当は到底できるはずもなかった。だからこそ何度も途中から途中に戻り読み返しを繰り返して少しずつでも確実に理解を積み重ねた。


「いや、まぁそうかもしれないけど専門家かれらにしかわからないことだって書いてあるかもしれないのに要点以外は読み飛ばすって」


「だからってわざわざ難しく書いて自分たちから避けられるのって違くない? もっといろんな人に読んでもらえればそれだけいろんな考えを見つけられると思うんだよね。そうすればこの本の言う魔法の別の使い方だってもっと簡単に見つかると思うけどなぁ。それにグレイはこの本の内容が分からなくて私に聞いてきたんでしょ、確かに万人が理解できる本なんて作れないとは思うけどさ、少なくとも大多数が理解しやすいように書くことだって必要だと思わない?」


「それは……」、言いよどむグレイはここに来てようやっと目の前の少女がただの七歳児ではないということを理解した。深く息を吐いて闘技場に目をやる彼女を横目にヘレナはそっと本を閉じる。


「まぁ、それも含めて考えろって言いたいのかもしれないけど、私はそれが嫌い。やっぱり本は読んでて楽しくなれなきゃね」

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