帰郷・下


 芽依が車をコインパーキングに止める。


「着いたわよ。ここから少し歩くけど」


 私は端末の音声をイヤホンに切り替える。扉を開けると、むっとした熱気に包まれた。


「うふふ、誰にも私のことがバレちゃいけないって、何だかスパイみたいで楽しいね」


 耳元の補聴器型のイヤホンから、ナユタの気の抜けた声が聞こえる。別にスパイごっこをしているわけではないが、ナユタが楽しんでいるのなら何よりだ。


「早く行きましょう。日が暮れるわ」


「あぁ、そうだな」


 芽依に促され、私達は目的地に向けて歩み始める。


「それにしても、ナユタはどうしてこんな所に行きたいんだ? 楽しい所なら、他に幾らでもあるだろ」


「えー、絶対に楽しい所って確信があるからだよ。蓮さんや芽依さんは楽しくなかったの?」


「……楽しい事ばかりの場所じゃなかったさ。特に俺や芽衣みたいな人間にとっては、毎日の戦いの場所だったからな」


「ふーん。蓮はそう考えてたんだ。私は好き勝手やってたから、楽しかったわよ」


 私は苦笑しつつ、芽衣に続いて道を行く。


 懐かしき街並み。ナユタの身体が死んだあの日まで、私は毎日この道を通っていた。気に入っていた店にはシャッターが閉まり、テナント募集の張り紙が張られている。かと思えば、見覚えのない定食屋が真新しい看板を掲げている。まだ半年も経っていないというのに、この街には時の流れを感じさせた。


「芽衣はここに来るのは何年ぶりだ?」


「ええっと、猿の脳味噌をばら撒いて追い出されて以来だから、七年ぶりかしら。そう考えると随分経ったのね。蓮と出会ったのも、ついこの前みたいだわ」


 私は芽依が、セクハラ教授に対してホルマリン漬けの猿の脳味噌を投げつけた事件を思い出し、笑いがこみ上げる。


「……ちょっと、なにニヤニヤしてんのよ」


「いや、何でもない。それより着いたぞ」


 私たちは正門へとたどり着く。広々としたキャンパスと立ち並ぶ校舎を見上げ、ナユタは感嘆の声を漏らす。


「ここが大学かぁ……広いなぁ」


 ナユタが最後の外出で行きたかった場所は、私と芽依が出会った大学だった。


「俺や芽依の居た理系の学科だけじゃなく、文系の学科もあるからな。生徒数も敷地面積も平均的な大学よりも大きい。あまりここを普通だとは思わない方がいいぞ」

 

「えっそうなの? でもやっぱり、広いキャンパスはテンション上がるよ! いいなぁ、私もこんな所で大学生活やってみたかったなぁ」


 ナユタが何気ない様子で言った言葉で、ナユタがここに来たがった理由が理解できた。


 もしもナユタが生きていたのなら、その延長上にあったが大学生活だった。彼女はあり得たかもしれないその生活に思いを馳せるために来たのだろう。


「……今日は土曜日だが、図書館は開いていたはずだ。一般の人間にも開放しているから入れるぞ。講義もあるから校舎を見ることもできる。流石に講義に潜り込むのは勘弁してほしいけどな」


「学食はやってなかったと思うけど、生協は開いてるわ。お昼はお弁当を買って、ラウンジで食べましょう」


 芽依もナユタの心情を察してか協力的だ。


「……二人ともありがとう!! それじゃあ、図書館から見てみたい!!」


 一般人による大学図書館の利用は有料だった為、受付で印紙を購入し図書館へと赴く。


 土曜日は講義数が少ない事もあり、学生の数は疎らだった。三階建ての図書館は中央が吹き抜けになっており、広々とした空間の中で少数の学生が勉学に励んでいる。


「すごい……ドラマとかアニメに出て来る図書館みたい……」


 流石に図書館の中で声を出すわけにはいかず、私はただ頷いて見せた。確かにこの設備は目を見張るものがある。ドラマのロケにも使われた事があったはずだ。


 館内を歩いていると、芽衣が私の肩を小突く。振り向くと、ある一画の本棚を指さして、その方向へ進んでゆく。


 一体何なのだろうと不思議に思い、その書架のプレートを見て納得する。過去の卒業生たちが残した、卒業論文の収められている区画だった。


 芽衣は本棚から手早く二冊の本を見つけ出し、それを抱えて戻って来る。そして上の階を指さして階段に向かう。この図書館では、三階の一区画が談話室として開放されており、そこでなら会話が許されていた。


 私と芽衣は階段を昇り、談話室へと入る。私たちのほかに一組の学生グループが談笑していたが、彼女たちは私たちを気に留める様子はない。


「懐かしいものを持ってきたわよ。蓮の博士論文と私の卒業論文」


「俺のはそこまで昔じゃないだろ。院生の途中で追い出された芽依の論文は確かに懐かしいがな」


「学生時代の論文!? 見たい見たーい!!」


 ナユタには難しい内容だろうと思いつつ、テーブルに座り芽依から論文集を受け取り開く。


 芽依の論文はハツカネズミを用いた神経細胞の縮小について。私のはニューロンの伝達信号のデジタル変換について。


「お互いに今とやってること変わらないな」


「そうね」


 自分が書いた論文の文章の拙さや理論の飛躍が恥ずかしくなり、適当のページを飛ばす。そして、何気なく開いたそのページで思わず手を止める。


「……ん? これは」


「どうしたの?」


「ちょっとこれを見てくれ。俺が博士の論文を上げた年だ」


 論文集には、その年の学生論文が分野ごとに収められている。芽衣が持ち出したのは工学分野に関する論文集であり、博士論文以外にも院生や学部生の論文も収められていた。


「これは……学内コンペの受賞論文ね。電子の経路記憶? あ、凄い。付属校の高校生が学部生や院生を押しのけて受賞したんだ!」


「確かに凄いが問題はそこじゃない。名前を見てみろ」


 私は執筆者名の欄を指さす。


「へぇ変わった名前……っていうか、うそでしょ!」


 私の指先には「神無川かんながわ 海珠みたま」の五文字が印字されていた。

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