天使降臨

 バラ栽培を始めて二年目の晩春───大きな鉢に植え替えた新顔のジャクリーヌ嬢が落ち着き、木香薔薇もっこうばら三姉妹もそれぞれの鉢で安定して、まだアイアン・アーチに絡ませるほどには育ってなかった頃、日々の手入れ以上にすることがなく、私は暇になってしまった。しかもその時には、くだんのバラ農家さんによる苗の即売会は終了していたのである。


 そして、私は流浪の民になった。


 季節は、ホームセンターや園芸店にバラ苗が出回る最終フェーズ。

 仕事柄、かなり広範囲の移動をする上、送迎時間が指定されている予約を持っている場合が多いので、時間調整の為の待機タイムがある身の上だ。

 あちらこちらをのぞいているうちに、ホームセンターは同じチェーンのグループ店舗でも、比較的市街地にある店舗と郊外型の店舗では、品揃えの規模が違うことを知った。そして、ホームセンターに置いてある品種は比較的に育て易いメジャーな品種が多く、園芸店ではわりと珍しい品種も置いてあることも知った。特に、近域随一だろう大型園芸店では、素晴らしく美しく、素晴らしくお値段が張る品種にも遭遇出来ることも判った。

 だが、そうはいっても、特に目的の品種があって彷徨さまよっていたわけではない。『何か気になる品種はないかなぁ』的徘徊である。沼にはまっている者としては、とても危険な徘徊だ。

 基本的に、地面の持ち主である母が承諾してくれない以上、私のバラ栽培は鉢植えで行われる。それ故に栽培スペースが限られる為、人気品種の蔓性のアイスバーグやクライミングのピエール・ドゥ・ロンサーヌなどは場所を取るので禁じ手。蔓性の木香薔薇三姉妹とシュラブのジャクリーヌ嬢がいる以上、増やすなら場所を取らない木立性の品種が望ましい───などと考えている時点で、危険度は倍増。『うちにある品種は、イエロー系と白系ばかりなので、他の色も欲しいなぁ』と思ってもいたので、危険度は更に倍。

 加えて、週に三回組まれている送迎予約のコース上にある園芸店に、時間調整も含めて頻繁ひんぱんに顔を出していた為、とうとう運命の出会いを果たしてしまったのだ。


 そのバラの苗は、明らかに売れ残っていた。

 通常、苗は販売の最盛期に合わせて、多くの蕾を付け・一~三輪開花状態で店頭に並ぶ。おそらく、お客さんが開花した状態を想像し易く、『これからまだ咲くよ』とのアッピールの為だと思われる。この時期に売れ残ってしまうと、最初に付いていた蕾もすべて咲き終わり、ホームセンターなどでは少々見劣りする状態で値引きされている場合が多い。

 だが、私が通っていた園芸店では花殻の除去を行い、蕾は無くともそれなりに手入れをした状態で店頭に並べられていた。

 丁度、店員さんが手入れを終わらせたばかりの株は、店頭に並んでいる株としては珍しく主幹が長く、『木』としての硬質化が進んでおり、主幹の上部に緑の葉を茂らせている状態だった。株が大きくなり過ぎないように、頻繁に剪定せんていされた結果なのだろう。つまり、この株はわりと長い間この店にいたことになる。

 それほど長く売れ残っていたのであれば、あまり人気がある品種ではないのだろうと、さして期待もせずに枝に下げられていた品種名を書かれたタグを見た。

 『セラフィム』と少し草臥くたびれたタグに書かれたその名前───そして、その名のイメージを裏切らない淡いピンクから白のグラデーションの開花時の写真───もうそれだけで、購入は決定したのだ。


 つまるところ、『バラと紅茶とアップルパイ』というネジレたロマンとは別の角度で私のツボを直撃したのである。


 『セラフィム』とは、旧約聖書における職天使してんしのことだ。そして、私が中学生の頃にドハマりした天使だった。

 今でこそ、調べものは簡単にインターネットで多くのことを知ることが出来るので、職天使=四大天使(ミカエル・ラファエル・カブリエル・ウリエル)と天使時代のルシフェルことだと判るが、書物しか情報源がなかった当時、天使の中でも高位存在であるセラフィムに対して、イメージ先行の天使に対するロマンと妄想を暴走させた時代があったのである。

 それは、現在でもワクワクする懐かしい記憶だった。加えて、当時の妄想を裏切らない花の姿───もう本当に、購入しない理由はない。

 これはつまり、名前萌えの購入である。CDでいうところのジャケ買い・本でいうところの表紙買いといってもいい。

 こうして、私は売れ残りで弱った株のセラフィムさまを連れ帰り、細心の注意を払って世話を焼いた。その結果、この年に一輪だけ花を付けて下さり、その蕾の可憐さや開花していく過程での淡い色の変化の美しさに、間違いなくハートの矢で打ち抜かれたのである。


 それからもセラフィムさまは、年に十輪に満たない数の花をじっくり咲かせて下さる。その度に、淡くて切ない初恋のような感動を与えてくれ、ジャクリーヌ嬢共々、私にとってとても大切な一株になったのだ。


 余録としては、セラフィムさまを知ることによって、生産者である岐阜にある河本バラ園を知ることになった。それは間違いなく、更なる沼への次の一歩だった。



【セラフィム】

 ハイブリット・ティー 四季咲き ティー香

 強香 ピンク~白 木立性

 河本純子作

 名前の由来は、聖書の天使より

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る