南極老人星

地球から310光年も離れた恒星が南極老人星カノープスと呼ばれる理由は幸運長寿の象徴として崇拝されているからだ。天下泰平の世に限り現れると司書に記録がある。有人探査船αカナリエがわざわざ赴いた目的も似たようなものだ。老人星は質量が太陽の65倍、直径が9千万キロもある。光の速度でも横断に5分もかかる。すなわちこの星自身が過去と現在に横たわっている。星の裏側は5分前の世界だ。しかし老人星は発光している。光の出所が定まらない。従って何処までが過去か正確な時制の定義が出来ない。


「そこで貴方はマイクロブラックホール(MBH)を撃ち込んで時間の断続を試そうとした。一つ、結果には原因が存在する。二つ、経験則が通用する。以上の事からこの宇宙において情報は永遠に保存される。しかしMBHに呑みこまれた物質は特異点で粉砕される。媒体に記録された情報も同じです。これは情報保存則に反するのではないか?」

凛菜は銃口をこちらに向けたまま背後の屍を数えた。直哉の死体がない。

「『寿命の尽きたMBHが蒸発する際に情報も排出する』なんて馬鹿な話があるか。考えてもみろ。それが本当なら爆弾発言を仕込んで未来の政権転覆が可能になる。因果律が崩壊するぞ。後出しじゃんけんでなかった事にできる」

斎苑は動機を暴露した。

「それで直哉を殺したの?」

銃がわなわなと震える。教授は眉間に皺を寄せた。

「人聞きの悪い!過去も未来もない、この老人星の輻射として”保存”されている」

凛菜も負けじと声高に反論する。

「五分ごとに順列組合せを試される雑音ノイズとしてでしょう!それが私の夫と言えて?」

「君はこの旅の目的を忘れてしまったようだ」

松戸はモニター前に着席し紫煙を燻らせた。慣れた手つきで老人星の現況図を映す。

身体の部位により時間の流れが異なる物体は自己矛盾によりすぐ崩壊してしままうだろう。安定できる理由は物体ではなく自我を備えた個体として生きる点だ。知的生命体は過去を反省し一貫性を保とうとする。

「確かにαカナリエは過去をリセットし、決意を新たに全方向へ一歩を踏み出せる恒星級時間渡航生物を観察するために派遣されました。しかし、貴方の実験は未承認です。許可もない」

すると松戸が爆笑した。

「捕らわれたのは私達の方だよ」

松戸が言うには老人星は地球人が持っているある仮説に興味を示した。有名な世界五分前創造説だ。この世界はたった五分前に創られた。ビッグバンから現時点までの歴史をひっくるめてという思考実験だ。検証する方法はない。

魅力的な仮説だ。星自身の構造を説明し、将来の野望も抱かせてくれた。

五分ごとに改築される世界には様々な用途がある。外敵を隔離したり反逆者を軟禁できる。時制を随意に制御できるなら、どんな時代だって行ける。そして五分前仮説に支配地を閉じ込めて恐怖政治も出来る。

教授は全て見通したうえで綿密な計画を立てた。老人星がクルーを人質にして脅迫して来るかも知れない。

それならばMBHを投下して逆に老人星の情報を棄損して五分五分に追い込もう。

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