タベルナ・ベント
水原麻以
Wi-Fi飛び交う都会の片隅に疲れを癒す不思議な飲食店がある。店内ネット不可能。なぜ?
あまり知られていないことだが、大阪を流れる淀川の支流に寝屋川がある。そのほとりに隠れ家なイタリアンレストランが佇んでいる。
表通りから生活道路を数本隔てた住宅地を歩くと、小さな雑貨屋が見えてくる。
昼間でも開き戸にカーテンがかかっており、アートフラワーを乗せたワゴンが申し訳程度に置いてある。
営業中の札も下がってないので、多くの人は素通りしてしまう。
それでもお昼時にはスマートフォンを手にした客が立ち止まっては首をひねっている。
彼らはしばらく店の前を何度も往復したあげく、疲れた表情で立ち去ったり、怒りをSNSに吐き出している。
しかし中には諦めきれず住宅地をぐるりと一周した末に嬌声をあげる者もいる。
それにつられてたむろしていたグループが次々と姿を消していくのである。
彼らが進む先には狭い路地がある。薄暗くて窮屈で人ひとり分の道幅しかない。
赤色に輝く立て看板を見つけ「えっ、こんな細い路地の奥に?」と驚く。
無理もない。
「タベルナ・ベント」のオーナーはSNSに疲れた世捨て人で、それでもなお柵しがらみから逃れられない。
せどりブームで財をなし、アベノミクスと円安の差益で賃貸マンションを購入した。
安定した家賃収入で不労所得を得られるようになってから商売の軸足を隠れ家レストランに移した。
今ではくだらない写真映え競争や既読スルーから距離を置きつつも、つかず離れずの環境を望んでいる。
カラコロとベルを鳴らしてドアを開けると先客がいて、ごぼうスープを味わっている。
店のたたずまいは居抜きの物件を北欧調にリフォームしてある。もとはカラオケパブだった。
ありきたりなカウンター席と奥にテーブル席が二つ。手前の席で向き合ったOLが無遠慮にスマホをかざす。
するとオーナーがやんわり制止した。
「えーと、携帯はご遠慮ください。というか、使えませんので悪しからず」
二人はぎょっとして端末を置いた。白いテーブルクロスにはメニュー代わりに薄いタブレットが置いてある。
「だってLINE使ってるのよ」
片割れの元ヤン風女が無遠慮にスマホを置いた。その瞬間、アンテナ表示が【圏外】に変わった。
「チッ、使えねーよ」「帰ろ帰ろ」
常時接続に毒された女どもはさっさと帰ってしまった。入れ替わりに待ち客が席に着く。今度はラフな格好をした男性連れだ。片方はチェック柄のシャツをだらしなく着こなしている。見るからにオタク青年と言ったいでたちだ。吐息だか含み笑いだかわからない不明瞭な言葉を呟いている。ひかえめなイージーリスニングが茶色い声に遮られる。オーナーはそれを咎めるでもなく、空いたテーブルに二人を案内した。オタク君は席に着くなり沈黙した。そして、あわててポケットをまさぐってスマホの電源をオフにした。
”これでいいんだよな?”
彼は怯えた目つきで相方に無言の承認を求める。すると、オーナーがにっこりと微笑みながらメニューを差し出した。
「どうぞご遠慮なく。当店はお食事と会話をお楽しみいただく場所です」
あとは言うまでもないという風に睨みを効かせる。すっかり縮んでいるオタク君を横目に連れの男は酒と料理をオーダーした。静かな店内にはいくつかのグループがいるが、インスタ映えなどといった不作法な行為を企てている客は一人もいない。他の迷惑にならない程度の音量で取り留めないお喋りを交わしている。SNSが普及した時代に失われた隔絶感や非日常がただよっている。
「これぞ、THE 隠れ家って感じだよな」
男はグラスに酒を注いだ。イベリコ豚の赤ワイン煮が運ばれてきた。
蛇蝎のごとくハイテクコミュニケーション手段を忌み嫌うレストラン。
「タベルナ・ベント」
謎は深まるばかりだ。それとも味わい深いそれこそが、メインディッシュなのか?
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