第41話 想いやり

 目の前で拳を振り上げて……ぷるぷると震えている少年を、ニアはどこか哀れな目で見ていた。

 自分も大概だとは思っていたが、この少年もなかなかどうして損な性格だ。

 普通、気にしなくても良いのに。赤の他人なのに。

 どうして、涙を流せるのだろう。

 世間知らずの彼。優しい、というより甘い彼を、これ以上、闇の世界へ引き込むのは、ニアには耐えがたかった。

「いつまで乗っているつもりだ」

 とりあえず頭突きでもしてどかそうか……とも考えたが、もう戦う必要はないと判断して、そっとヒロの体を押し返した。思ったよりも薄い彼の胸板は、簡単に後ろへ弾かれる。

 ぺたんと情けなく崩れ落ちるヒロを一瞥して、ニアは立ち上がった。

 あ……、と言いかけたヒロの口は止まる。

 もはやただの反射だったのだろう。あまりにもその声は弱々しかった。

 当然、ニアの方に優しい言葉をかける理由も義務も権利さえもなく、黙って消えるしかない。……けど、やっぱりできるだけ日常に浸っていたかったニアは、ついつい口が出てしまう。

「散々、力関係は示していたはずなんだけどな。——アンタがおれに、勝てるわけないだろ」

 言うだけ言って、ヒロの反応を見る前にそっぽを向く。結局、ニアだってこんなところで自分の物語を終わらせたくないのだし、落ち着いて喋ってしまうとボロも出る。

 ふと、己が投げ捨てた銃と剣を見やるが、この先の運命には必要のない代物だ。

「武器はアンタにくれてやる。銃はともかく、あの剣は恩人からもらったものだから、大事に扱えよ」

 意識はあるはずなのに、心だけどこかへ行ってしまったような少年からは、変わらず反応がない。アイネの方も深く眠ったまま。

 だが、ここで立ち止まってしまうようではいよいよ道化だ。

 ニアは、闇に溶けていくために歩きだした。


   ***


 どれほど、時間が経ったのか。

 ニアの背中も、とっくに闇に消えていた。いつもよりさらに小さく見えた背中が離れていくのをはっきりと認識していたのに、オレは動こうにも動けなかった。

 どうしてだろうか。ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた感情のおかげで、自分は今、立てない。初めての経験であるはずなのに、心の痛みに身体が反応している。……これも、初めてじゃないのだろう。

 ようやく体が動くようにはなっていたが、かといって動く気にもならない。

 玩具オモチャ。モルモット。

 そうやって自分のことを簡単に揶揄するニアの言葉を思い出して、オレは再び気分が悪くなった。

 頭に浮かぶのは、いつか第四都区の農業地帯で見た家畜の姿と、彼のどこまでも諦めた顔。オレは比べてしまう。何も知らずにのほほんとエサをたらふく食った後に腹を掻っ捌かれ内臓まで綺麗に抉られバラバラにされて店頭で無様に並べられる豚と、全てを受け入れて諦めた顔とを。

 前者はいい。明日の己の運命など何も考えず、刹那的な快楽を享受している間に生涯を終えられる。自堕落に過ごす一生を『家畜の生き様』と称する人間がいることは知っているが(図書館とはやはりいろんな知識が手に入る)、それでもしかし、自堕落な生き方など変えられる。何歳でも、死の間際でも。

 では、運命に縛られた人間はどうなのか。

 簡単だ。それを人を『奴隷』と言う。


 ——ふざけるなと、思った。


 世間知らずの坊ちゃんと言われてしまったけれど、たとえ彼の犠牲にがあったのだとしても、「弱者」に全てを押しつけて存続する世界に価値はないと断言できる。

 でも、理想と現実の乖離はどこまでも、残酷で。

 結局、何も為し得ることができなかった自分は、こうして惨めにうずくまったまま。

 きっと、夜が明けて不審に思った近隣住民に声をかけられるまで動くことはないんだろうなと頭の片隅で思って、じゃあいいかと考えることがめんどくさくなってしまったオレの耳は。

 ん……、と。

 幼い声を聞いた。

 音が届いた川辺の方を見やる。

「あれ……?」ずっと眠りに落ちていたアイネが、あっさりと起き上がって、「ニアお兄ちゃん、いたはずなのに……」

 幸か不幸か。

 ようやくそこでオレは立ち上がれた。

 思い出せたのだ。自分が必死に守り抜いたものを託せるほどの「仲間」は、絶対に全てを放り出して逃げたりしない、と。

「なあ、君は、オレのことを覚えてるか?」

 まだ寝ぼけた眼をしている少女に語りかける。自分で言うのもなんだが、インパクトは強いはずだ。

「……えーと、ヒロ、お兄ちゃん、だよね?」

「お、おう……。そうだ、ヒロだ」

 お兄ちゃん呼びは気恥ずかしかったが、覚えていてくれたなら話が早い。

 と、

「ニアお兄ちゃんがどこ行ったか、知ってるの?」

 少女は、確信をつくようにいった。

 まさか、意識があったのだろうか。

「…………ごめん。オレも探してたんだけど、見失ってしまった」

 わからないので、あくまで正直に、本当の気持ちを言う。

「そっか……なら、しょうがないよね」

 どうにも大人っぽい反応の少女に、この子ならばわかってくれるのではないかと思ってしまう。血は繋がっていなくとも、兄妹。受け入れてしまうのでは、と。

「——アイネも、失敗しちゃったんだ」

 けど、少女は言う。

「失敗……?」

「うん、ライネが襲われたのが許せなくてね。アイネが犯人を捕まえようとしたんだ。結局、守護者(アテネポリス)にも仲間がいたから、騙されて……捕まったんだと思う」

 聡い少女なのは口調からわかるが、なんでもない風に語られるそれは、信じがたい。

「君は……一人で奴らと戦おうとしたのか?」

「そうだよ?」

「怖くなかった、のか?」

「緊張はしたけど、怖くはなかったよ」

「……」

 どう、捉えたらいいのだろうか。

 子供故の無鉄砲さと言えばそれまでなのだろうけど、それとも、「普通」、なのか。

「大切な人」のために、命をかけるのは。

「ねえ。ヒロお兄ちゃんも、一緒に探してくれる?」

 頭の中で駆け巡る疑問をよそに、アイネはちょこっと首を傾げて——。


「・犯人と・、ニアお兄ちゃん」


 言った、それは。

 オレが初めから捨てて、逃げていた答え。

「…………君は、強いんだな」

 その言葉を聞いて、素直な気持ちがこぼれ出た。

 この少女は身に余る狂気を理解してなお、前に進み続ける。大切な人だとか他人だとか関係なく、自分の正しいと思うことを為そうとしている。

「アイネ、喧嘩は弱いよ。だからヒロお兄ちゃんが協力してくれると、嬉しいな」

 自分はなんと、浅かったことか。

「……オレは君の逆で、気持ちの方が弱いんだ。だから君が、そこを助けてくれるか?」

「もちろんだよ」

 少女は、笑って言った。

 ——が、直後にふらっと崩れる。

「……っ」急いで距離を詰めて、オレはアイネをギリギリで受け止めて、「大丈夫か⁉︎」

「あは、足を引っ掛けちゃった」

 アイネは気丈に言うが、前触れもなく崩れ落ちたことを何よりオレが間近で見ている。やはり、この小さな体で、相当の体力を消費していたのだ。

「……家まで送るよ。お母さんもすごく心配してたし、無理はしちゃいけない」

「でも……アイネのせいで! アイネのせいでニアお兄ちゃんが……!」

 浅い息で、必死に訴える少女。

 ……やっぱり、わかってたんだな……。

 彼女の橙に近い茶髪を撫でて、強く、オレは言う。

「大丈夫だよ」

 ニアが何よりも大切かと問われても、そうだとは答えられない。

 命をかけてなんて軽々しく言えるほど、深く関わったわけでもない。

 ただ、思い出せ。

 彼はずっと泣いていた。


「ニアは絶対に連れて帰ってくる。——オレと君の、『約束』だ」


 たとえその彼より弱くても。

 立ち上がる理由としては、十分だ。


 両腰に刺した一対の剣。その意味。

 剣は、守るべき相手に向けるものではないのだとしたら。

 ——脅威に立ち向かうためにある。

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