第35話 失いたくないもの《Precious》



 ふと、思い出すのは輝かしく燻んだ情景。

 そんな眩しいばかりの世界は宵闇に溶けていくものだ。


 なにせ夜は長い。

 空は、まだまだ闇の絨毯を敷いていた。その上にばら撒かれた星々は、水面に反射して煌めいている。

 街の東側を貫く巨大な運河のほとりを、ニアはぼーっと歩いていた。

 その両腕には、一〇の年頃の少女が抱かれている。薄い緑の病衣のようなものを纏っているが、くーくーと穏やかな寝息を立てており、顔色は悪くない。……むしろ、彼女を抱きしめている側の方が病人の顔色だ。


「にあ……おにい、ちゃん」


 ふと、病衣の少女——アイネが蚊の鳴くような声を漏らす。すわ起きてしまったのかと視線を落とすが、まぶたは深く落ちたままだ。


「お兄ちゃん、か……」


 家族を呼ぶ、普遍的な言葉。血のつながりがあろうとなかろうと、それだけで、そう呼ばれた者は兄なのだ。初めてはいつだったろう。戸惑いは大きくて、小っ恥ずかしさすら覚えていたくらいなのに。当たり前のことすぎて、わからなくなるくらいにはずっと呼ばれていた。

 そうだ。自分は。

 もう一度、お兄ちゃんと呼ばれたかった。

 何度でも、何度でも。

 アイネにも、ライネにも。もっと、ずっと。

 生意気な声で、舌ったらずな声で。

 アイネを無事に家まで送り届けたら、これで最後。ライネとは、もう、会うことはないだろうから。

 最後にその声を、言葉を、聞きたかった。無意識に、だからこうしてゆっくりと歩いていた。

 だからこそ、一言だけでも聞くことができた。片方だけでも、でも。

 でもやっぱり、

 これが、最後だなんて。


「嫌だな」


 幸せに生きる資格は誰にでもないらしい。

 それにきっと、自分には幸せを願う資格すらない。

 二二人。

 正確には、二一人の「被害者」から目を逸らして、大切なひとを取った。現状を知って、捜索までして、きっと見つかるよなんて上っ面だけの言葉を投げかけたその裏で、諦めた。


 なんて。

 偽善的であろうか。

 幼き少年少女たちは、かつての「誰か」と同じように鬩ぎ合い削り合い憎しみ合い、殺し合ってまで、出来上がったのは化物モンスター


 なんて。

 残酷な世界なんだろうか。

 こんな世界は嫌だ。もっと前向きに考えてみたらどうだろう。例えば件のブーストマン計画も、最初はほんの、軍隊の訓練過程だったのかもしれない。でも、カリキュラムだとか成長率とかが重要だって話だったから、まだ年端もいかない子供たちに英才教育を施す必要があった。そう、最初からちょっとした教育機関の試験プログラムで、あの軽薄な男が大言壮語するから変なリアリティが生まれただけで、みたいな。


 そんなことに……なってはくれないだろうか。


 知っていたはずなのに、希望に縋ってしまった罰が、いま、身体にざくざくと突き刺さって…………ニアは、考えることをやめた。

 助けて、と叫んだところで騎士様は来てくれないことも知っていたから。

 下手に強いってのも考えものだな、と思う。

 ニアにとって仲間とは、頼られる相手であって頼る相手じゃなかった。

 だからこそ、

 ニアは必死に口をつぐんだ。

 言葉を発するのさえ、罪だと。思って。


 ぽつん。

 透明の雫が一筋、幼い身体に滴り落ちた。


 と————、



「見つけた」



 声が、した。

 どんな犬よりも早く人の接近を察知できると自負していた嗅覚より先に、声が。


「…………」


 続いて、足音と荒い息遣い。

 パッと横を見る。


「……ッ」


 疑問が確信に変わる。

 宵闇はどこまでも暗かったのに、一瞬だけ月光がさした気がした。



「大丈夫か、ニア」



 本当に。

 不覚にも、憧れの「騎士」と見間違ってしまったことで、ニアは感極まってしまった。


 もう一度、ニアの頬を雫が伝った。



   ***



 前に足を出す、といった動作だけを繰り返しているニアを、オレは見つけた。

 その少年の表情があまりにも儚くて今にも死にかねないような顔だったから、思わず声が出たのだ。どうにも、自分の心臓すら高鳴っている。


「お前は、……」


 いったい何を、

 そう言おうとして……、「待てよ」と、彼のそういう声を聞いた。


「何してるんだって、聞きたいんだろう?」ニアはわざわざ被せるように、「安心していい。全て終わった。ほら、取り戻したからさ。ちゃんと無事だよ、アイネは」


 視線を下げて、慈しみを向けられる少女に、目立った傷はない。

 けど、ニアは違う。

 彼はボロボロだった。

 オレを認識した瞬間にそれはもう一流の役者みたいに雰囲気を切り替えて、完璧に「ニア」という人間を作り上げていたけれど……、人に嘘をついたことのあるオレだからわかった。

 見ていられない。


「無理、するなよ」


 見ていられないけど、どう声をかけていいかもわからない。


「無理……? 人間には無理でも無茶でもしなけりゃいけないことがあるんだ。それをやってきたから、もう、この話は終わりだ。……じゃあな」


 言って、再び歩み出したニア。

 先ほどよりも足取りは深く確かで——逃げているようにも見えた。


「待てよ」


 だから、今度はオレも言った。


幻想投影クリエイターとは、ちゃんと決着をつけたのか?」


 その「敵の名」を口にした直後、ニアの目から色がいっそう消えたように感じる。


「………………」


 静寂。

 夜は動かず、今度こそ月光はささない。


「はあ」一つ、少年のため息が響いて、「ちょっと、喋りすぎたかなぁ」


 どこまでも軽い声が、響く。


「で、アンタはどこまで知ってる? ここに来れたのはまあ、おれたちが暴れたのが原因だろうけど。第四位については……クソ、やっぱり喋りすぎた。ていうかずいぶん息が上がってたな? そこまでして、おれがぶちのめされるが見たかったのか、あるいは心配してくれたのか、それも、聞いていいか?」


 つらつらといつにも増して毒を吐くニアに……、「馬鹿野郎」、と。


 一蹴する。

 ピクッと、ニアの眉だけが動いた。


「心配したかだって? 当たり前だろうが! 友達が対物ライフルだかを持って殺し合いに行ったんだぞ!」


 あのババア、と彼は小さく呟いているが無視して、


「それにさ。あの誘拐事件がクソくだらねえ奴らの意思で隠蔽されてるってのは、薄々気づいてる。守護者アテネポリスの腰がやけに重かったり、第零都区の捜索が禁止だったり、な」


 自分ができることは、ぶつかることだけ。


「まともに国に掛け合っても仕方ないのはわかる。一個人にはどうしようもないこともわかる。だけど、せめて話くらいは聞かせてくれてもいいだろ、とオレは思った」


 これは受け売りだけどな、と続ける。

 オレは一人で突っ走る性格なので、何かあったらまず他人に相談しろと延々と釘を刺されているからこそ、言える言葉だった。


「話を聞いて、どうする?」


「相談に乗るさ。それで、解決策を考える」


「……呆れた。無知ってのは罪だな」吐き捨てるように言うが、その一方で、ニアはこちらへ向き直った。「まぁ、そんなに言うなら聞かせてやろう」


 深い眠りにつくアイネを優しく地面に横たえ、彼は大仰に手を振った。


「おれの一生をかけた頑張りと、諦めの物語を」


 ——知っての通り、奇術師マジシヤンたちは年端のいかない子供を大量にさらった。別に身代金目的や猟奇的趣味があるわけじゃないってのも、もうわかっているだろう。

 大切に育てられた坊ちゃん嬢ちゃんを、ご立派なハイソルジャーに作り直す——そんな計画がウラで動いているかららしい。

 なんのためにって、当然、戦うためにだよ。

 あの壁の向こう側にどれだけの数の化物が蠢いているかは、おれたち冒険者はよく知ってるはずだ。

 …………おかしなことを言うな。あれがそこまでするほど脅威あるものなのか、だと? 本気で言ってるんなら、治療院で頭を直してもらった方がいい。

 世界の半分を滅ぼしたクソ異形ヴアリア共と、率先して戦いに行く冒険者おれたちがおかしいって意味なら、それは間違ってないかもしれないが。

 ……何を驚いてる? まさか知らなかったとは言わないだろうな?

 …………。

 はあ……アンタもさらわれた子たちと変わらない、世間知らずの坊ちゃんってわけだ。その割には異形ヴアリアとの戦いを知ってなお恐れていない、か。どっちにしろアンタは異常者確定だ。おめでとう。

 ……話を逸らすなとだけは、アンタに言われたくないね。おれがあとで教えてやることはできないから、あの馬鹿乳女に教えてもらえ。

 で、なんの話だったか。……ああ、今おれが何をしてるかだったな。

 見ての通り、アイネを家まで連れ帰ってる途中で、その後おれがどうするかはアンタには関係ないはず……なんだけど、言うだけ無駄か。


 まぁ、簡単な話だよ。

 

 ——おれが奴らの玩具オモチヤになる。

 それが、モルモットを一匹、実験用の檻から引っ張り出すための条件だ。


 な? 簡単だろう?

 一人の犠牲で、一人を助けることができるんだからさ——。


 ニアはまるで他人事みたいな口調で、自らの未来を語った。

 そこに希望や絶望なんて単純な感情なく、ただ虚無だけが漂っていることは彼の目を見ればわかる。彼は自分で言った通りもう、己の人生を諦めていた。


「死ぬ気、なのか」


 必死に絞り出して、オレは言う。


「死にたくはない。けど、死ぬ覚悟は常にできている」


「それは……そんなの、ダメだろ。間違ってる」


 語られた内容どうこうより、正直、目の前の少年が簡単に自分のことを捨ててしまっていることの方が、オレには許せなかった。

 だって、彼は守るために戦おうとするわけじゃない。

 失わないために、戦わない。そして自分を殺す。


 それではまるで——死ぬために生まれてきたみたいじゃないか。


「どこが間違ってる? おれの命の使い方は、おれが決めていいはずだ。アンタに止められる筋合いはない」


「そうだ、けど……否定してはいけないなんて決まってねえだろ」


「詭弁だな。……だいたい、この状況もおかしいんだ。どうしてそこまでおれに執着する? おれたちは、会ってせいぜい数日の仲だろう。共に命がけの冒険をしたわけでもない、長く付き合ったわけでもない、ただの——行きずりの他人だ」


 それなのに、どうして無理に関わろうとする? と。


 笑って尋ねた。

 さあ正体を現せと言わんばかりに、嘲笑うみたいに。

 多分、彼は答えを求めていない。きっと、どんな綺麗事を並べ立てようと興味を抱かないだろう。だから、言ってみようとオレは思った。



「…………レインに似てるからだよ」



 馬鹿正直に、答えた。

 反応はない。もともと静寂が支配していた場ではあったが、今度こそ時が止まったような錯覚を覚えるほど、空気が凍った。


 にははっ。


 まあ、直後に漏れ出た笑い声であっさり砕かれたのだが。


「あはっ、あはははははッ!」


 おそらく、本気の本気で彼は笑っていた。

 元々、感情表現が豊かな少年ではあったが、それでも限度というものはあった。そのまなじりに浮かぶ涙が、悲しみによるものなのかどうかわからなくなるくらいに、笑う。


「アンタ、人を不快にさせるだけじゃなくて、ちゃんと笑わせることもできるんだな」未だに表情筋を引き攣らせながら、ニアは明後日の方向を見やって、「久々に心から笑えたよ。ちょっとだけ未来が怖くなくなった。——これで、笑って別れられる」


 気色悪い満面の笑みを浮かべて、最後にぽつりと告げた。

 もはや、アイネの顔すら見ていない。


「なあ、また一つ頼まれてくれないか?」


「場合による」


「……アンタがアイネを連れ帰ってくれ。恥ずかしい話、ゆっくりしすぎてあまり時間がない」


「わかったと言うと思ってんのか」


 図々しいというか、さすがに呆れる。


「別に。それならそれで先を急ぐだけだ」


「あのな、そもそもお前が言ってることもおかしいぞ。アイネは今ここにいるんだから、お前が馬鹿正直に戻る理由はなんだ? だって約束したからとか、そんなタチじゃねえだろ?」


「時間がないって言ったはずだ。アンタが熱を上げているお顔が、偽物とはいえバラバラになるのを見たいか?」


 それこそ呆れたといった様子で、挑発するような目を向けてくるニア。


「……何を、言ってるんだ……?」


 その不気味な目に、やはり色はない。


「ほらこれ」首をくいっと差し出してニアは言う。「見えるだろう?」


 コートに隠れて見えづらかった首筋には、黒い輪っか——チョーカーのようなものが見える。


「夜が明けると三、二、一、ボン! だ。首無し死体の出来上がりってわけ」


 それが、薄笑みを浮かべて語れることなのか。

「死ぬ覚悟はできている」と、その言葉の意味を如実に表している。


「…………っ」


 どうしてそこまで、とは言えない。

 言えるわけがないのだけれど、

 だけど、


「どうして、こんなことになったんだよ……」


 もちろん決まっている。

 世界は残酷で、非情だからだ。


「……もういいな? 再三言うが時間がない」


「いや、その……首輪、遠隔で爆発するってことは魔法で動いてるってことだよな」


「だから?」


 いい加減にしろと、目がそう言っているが、引けない。


「レインなら……消せる。どんな魔法道具マジツクアイテムだろうと、魔法によって動いてる以上は殺してくれる。そういう力を持ってるんだ。だから、」


「だからどうしたと言っている。その力が本当だとして、根本的解決にならない。奴らにもプライドやしがらみがあるだろう。どこまでも追ってくる」


「じゃあ、そんな奴らが律儀に約束を守るとでも思ってんのかよ。もし……お前が捕まった後に、お前の家族に手を出したらいったい誰が——」


「——わかってんだよ、そんなことは!」


 感情が、爆発する——。

 たった一言に乗せられた怒りが、オレの五体を強く突き抜ける。


「言われなくてもわかってる。気づかないはずないだろ!」ニアの激情は止まらず、「だけどな、行き詰まって生き足掻いて絶望して、どうっしようもない時に! 一パーセントでも救われそうな結末があるのなら、賭けたいと思って何が悪いんだ……ッ‼︎」


 止められなくて。

 自分の方が間違っているのかな、と、オレは思ってしまう。

 どっちが正しいとかもないとは思うが。


「……どうしてもおれを止めたかったら、おれを倒せ……いや、斬れ。斬って、殺すつもりで止めろ」


 ニアは、背中から剣を引き抜く。

 無茶苦茶な理論を振り回して、敵意剥き出しで。これ以上は無駄だと言わんばかりに、その眼差しには寄せ付けない力がある。

 そんな視線を受けたオレも、小手先の言葉だけでは止められそうにないということをいい加減に悟った。

 なので、最大級に己の意地だけをぶつける。


「じゃあ、おれも同じことを言ってやる。ここを通りたければ、おれを斬っていけ」


 互いに譲れないのならば、己の「意志」を通そうとするならば、ぶつかり合うしかない。

 だから——。


 オレは剣を、放り捨てた。


 斬っていけ、と言われたけれど、言ったけれど。

 剣は使わない。

 だって、剣は、誰かを守るためのもので、守るべき相手に向けるものではないから。


「やれよ」


 そう言って、ゆっくりと歩み寄る。


「ほら、隙だらけだぞ」


 歩み寄る。


「ほら」


 ニアは、動かない。


「…………」


 ——ごきっ。

 普段なら当たるはずのない大ぶりな拳は、ニアの頬に深く突き刺さった。

 衝撃のままにニアは大きく吹っ飛び、尻餅をつく。

 むしろ驚いたのはオレの方だった。田舎街のチンピラですらもうちょっと踏み込むぞというくらい、力任せなだけのパンチだ。かわすか、受け止めるかぐらいはすると考えていたが、まさか。


「……にははっ」


 オレから食らった初めての「傷」を受けて。

 ニアはまた、小さく笑った。


「…………やってくれるな」


 唇が切れたらしく、ぺっと血を吐き出しながらニアは睨みを利かせる。


「お前が言ったことだろうが。オレだって、剣じゃなくて拳だったら勝てるかもしれないし、な。つべこべ言わずにかかってこいよ」


 軽くステップを踏んで、挑発してやる。

 もう言葉で語る段階は通り越して、穏便に止めることなど叶わない。


 それでも届かせたいなら、痛みで、拳で、力で。

 


「しつこい男は嫌われるぞ」


「つべこべ言うなって、言ったはずだぜ。顔見知りを斬るのは怖いか?」


「いやなに……敵前で武器を放り捨てる曲芸に驚いてただけだ」


 ニアも背負った武器を放り捨て、身軽になる。

 物騒な得物を失った少年は……より一層、隙がなさそうに見えた。


「——後悔するなよ」


 瞬間、オレのみぞおちに拳がねじ込まれる。


「ぐぁっ」情けない声とともに、たたらを踏んだヒロは、五歩の距離を一瞬で詰めてきたニアを目の端に捉える。「てめ……この野郎!」


 反射的に彼のコートの裾を鷲掴みにすると、そっくりそのままの一撃を返した。

 しかし顔をわずかに引き攣らせただけで、ニアは頭を大きく反らせて——額に割れるような痛みが走ったかと思うと——頬を打ち抜かれた。

 今度はオレが吹っ飛び、馬車に轢かれたような勢いで地面を転がった。すぐ立ち上がろうと腕に力を込めようとするが、脳がうまく指令を送ってくれない。


「どうした? お前が始めた戦いだろう。根性見せろ」


「あたり……まえだ」クラクラしつつもオレは立ち上がり、また構えを取る。「準備運動、終わったとこだよ」


 チッ、と舌打ちが聞こえた気がした。

 と、同時に伸び上がってくる足。鮮やかな脚撃は一瞬で届き、とっさに交差させたオレの腕を軋ませる。意地でも彼の足を掴もうとするが、その思考は透けていたとばかりにするりと指を掠めると、体の回転する勢いを乗せた二撃目が、横っ腹に直撃する。


「がぅ……」


 確実に折れた気がしたが、具合を確かめる暇なんてない。

 三撃、四撃と殴打が続いていく。

 あくまで彼の目は死んでいて、戦略性なんてものはなく、次はどこを殴ろうか、または蹴るか、そんな攻撃の数々。速さが違いすぎてどうしようもないのだ。

 それに、オレに身につけている格闘技術は、おそらく一般兵士レベルでしかない。単純な才能センスの方も、絶望的な違いがあった。


「……抗えリバース……」


 ならば、別の部分で補うしかない。

 世界の色を落として、知覚情報の精度を上げる。「戦い」にしたくはなかったが、もはやそんな余裕はない。


「……来たか」


 ぼそりとした声とともに繰り出された拳は、ギリギリでオレの頬を掠め外れる。初めて当たらなかった攻撃に、ニアが目を瞬かせたのを見て——低くかがみ込んでタックルする。


「なっ……」


 オレの全体重を乗せられたニアは——あっさりと倒れた。

 このわずかな隙さえあればよかったのだ。はなからまともに戦う気などない。

 いや……正確には、一撃で勝負を決める気でいた。

 初めに彼を殴った時、確かに力任せの攻撃を放ったわけだが、「狙い」は定めていた。まあ、少し顔を動かされたので当たらなかっただけで。

 当てれば決まっていた。

 これでも、のだ。

 レインには何度も何度も、「おまえには余計な知識を与えすぎた」と言われたくらいには。

 つまり、技術はなくとも、オレ自身に刻み込まれた「知識」と「経験」があれば……、


 ——負けはねえ。


 咄嗟に上半身を庇おうとするニアだが、遅い。

 必殺の拳で腹の人中を貫こうと振りかぶった。

 振りかぶって。見た。


 レインの腹部で雑に巻かれた包帯が、はらりとめくれていて。

 赤い液体が滲み出していたのだ。


 振りかぶった拳を……オレは降ろせなかった。


 心を傷つけても。

 体は傷つけられない。

 傷つくところを見たくない。



 ——結局は、ただそれだけのお話だった。


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