第34話 配信のない日常
引退配信を終え、余韻に浸る間もなく次の日は仕事に向かった。特別疲れていたわけではないけれど、仕事中もなんだか集中できず、オーダーを二回ほど間違えた。
「千尋さん大丈夫ですか?体調でも悪いんですか?」
柳くんに神妙な顔で心配されてしまい、思わず苦笑いをする。結局その日は店長からもう帰りなさいと言われてしまい、十五時に上がらされた。
ここ半年はまともに配信をしていなかったし、ここ一カ月に至っては引退に関する配信しかしていなかったのに、まさかここまで現実に影響が出ると思わなかった。配信をしない方が日常で、ただ何もなかったころに戻るだけのはずが、どうしてこんなにも放心状態になっているのか、自分でもわからない。
引退配信から数日はそんな感じで、ほとんど仕事にならなかった。それでも一週間も経てば徐々に気持ちが現実に向いていき、いつも通り仕事をこなせるようになった。
配信をやる前の生活に戻ったわけではない。私が配信を始めたのはもう一年半以上前で、その頃に戻るには時間が経ちすぎた。だから、配信活動を終えて先に進んだと表現する方が近いかもしれない。そんな言い方はおこがましい気もするけれど。
「千尋さん、なんか元気ですね」
客足が落ち着いた午後二時、テーブルを片づけていると柳くんからそんな風に話しかけられた。
「元気、かなあ。まあ昨日休みだったし、元気ではあるけど」
「そうじゃないですよ。なんだろ、精神面?最近明るくなったなあって思って。なんかいいことありました?」
まさか事情を知らない柳くんにそんなことを言われると思わず、びっくりして言葉を失う。明るくなった、と言われるのはさらに意外だった。
「……あれ、俺変なこと言いました?」
私が布巾を握りしめたままぼうっとしているからか、柳くんが不安そうに私の顔を覗き込む。ハッとして、手を動かすことに集中した。
「ううん。……別に、何かあったわけじゃないよ」
私とバーチャルの世界は、一週間前から切り離されていて、もう交わることはない。でも、あの頃の出来事がいいこととして私の中に残っているのだと思うと、なんだか嬉しかった。
「なんか、新しい趣味とか探そうかなあ」
メニューを揃えて立て直しながらそうつぶやくと、え!?と柳くんが大げさに反応をした。
「そんなびっくりする?」
「いやなんか、千尋さんって趣味とか作らなさそうだから……」
確かに、配信をやる前の私は趣味なんか無いに等しかった。せいぜいテンシちゃんの動画を見るくらいで、それ以外に何をしていたのか思い出せない。それは学生時代からそうだった。周りで流行っていることを少しだけやって、みんながやめたら私もやめる。それを虚しいと感じたことはなかったけれど、配信をやめてからは空いた時間を持て余していた。
「仕事して家帰って寝るだけみたいな生活もちょっとなあって思って。柳くんなんかおすすめとかない?」
「じゃあ絵描きます?俺教えられますよ」
「……絵かあ……」
手に持ったままのメニュー表を撫でる。うちのカフェではメニューを手書きで制作していて、私も一度それを任された。メニューには一緒に写真ではなく、イラストを添える。けれど私のイラストがあまりにもひどくて、私から頼んで柳くんに描いてもらった。だから、あまり自分から絵を描こうという気にはなれない。
「ああ……千尋さん字は綺麗なのに絵ひどいですもんね……」
私が持っているメニュー表を見て察してか、柳くんは呆れた笑いを浮かべる。悔しかったけれど、その通りだから言い返せなかった。
「じゃあ、ペン字とかやってみたらどうですか。……あ、でも別にもう綺麗だからいいのか」
テーブルを片づけながら柳くんはうーんと唸っている。私の独り言にそんな真剣にならなくていいのに、と笑ってしまった。
「いや、でも調べてみるよ。せっかく柳くんが考えてくれたし」
椅子を並べなおし、お昼もらうね、と言って休憩室に入る。店長にもらったまかないを食べながら、久しぶりになんの動画も見ない昼休みを過ごした。
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