なぜ、日本は物事に対して後手になるのか?

NOTTI

第1話:教育

 昨今、日本において顕著になっているのが“いじめ”や“教育格差”などの子供たちからも比較的理解しやすい問題から“経済格差”や“派閥”のような子供たちが無意識のうちに直面している問題まで多岐にわたっている。これらの問題の延長線上には“教育的・社会倫理的観点”や“子供たちの精神発達上の段階的理解”など社会全体の意見と両親など近親者が見ている視点においていくつかのズレや子供たちの考え方から今後必要になるだろう部分を抽出していくプロセスは慎重に行わなくてはいけない。なぜなら、低年齢の子供たちは物事の分別・区別は訓練をすることで習慣化し、知識として定着しやすいが、同時に好奇心旺盛な周囲がやっていることを真似してしまうことで自分の行動に対して責任を持つことを忘れてしまう可能性があるのだ。この部分に関しては両親がどれだけ子供に向き合っているのかで変わってくるが、この向き合い方を間違えてしまうと子供は間違った正解を覚えてしまい、後から修正することはかなり難しいし、仮に修正するにしても一筋縄ではいかない。


 そして、現在は子供であっても多様性を認めることが大事だと思っているが、子供たちの考え方の個人差やトランスジェンダーなどの本人が持っている違和感などを本人以外の子たちが理解するためにどこまで教育を進められるかが焦点になるだろうし、そういう人が社会に出たときには必ずいるという事前指導をする良い機会にもなる。しかし、これらの内容を子供たちに説明することや指導することは大事なのだが、私が危惧しているのは“このようなトピックに対する偏見や差別発言が出てしまう”ということだ。これは、子供たちのいじめの発端となる原因の大半が自分との考え方の違いや妬みや嫉妬など個人的な理由が挙げられることが一般的だが、その中に“女々しいから”・“男みたいだから”という性に関する差別、“行動が気持ち悪い”・“行動と性が一致していない”などの本人の行動に関する物も一定数要因として挙げられている。


 私はこれらの問題を“緊急改善事項”として認識するべきだと思っている。なぜなら、これらの問題でいじめが発生しているということが確認できたならその因子を取り除くために必要な指導と教育が必要になるのだが、日本の場合だといじめなどはいじめ防止推進法により調査および指導などを行わなくてはいけないということになっているが、実際にはケース事例によっては軽微な問題だとして報告を怠る、いじめの予兆があったにも関わらず、報告等がないが為に対応が遅れて長期欠席を伴う重大事例になってしまうこともしばしばだ。なぜ、このような問題を引き起こすのだろうか?


 それは、自分の評価を下げたくない、いじめの起きているクラスということで周囲から疎遠にされてしまうというデメリットが頭に浮かぶことで“自己保身”のために報告が遅れる、調査をした内容で自分たちに不利になる内容が出てきた場合、その内容を別の表記に変えて提出するなどして直接的な影響を避けたいと思っているのだろう。


 このように日本におけるいじめや嫌がらせなど本人たちに悪意がなく、被害者側だけが悪いようにイメージ付けられてしまう。その結果、いじめの根本的な解決に繋がるような展開を期待することは難しく、いじめを軽減することも難しい。


 そして、今の日本においていじめという問題は子供だけの問題に留まらず、社会に出ている大人たちであっても発生している現状がある。


 今の子供たちがいじめる理由と大人が部下などをいじめる理由は共通項が多いと思う。なぜなら、大人と子供の発生事例を1つずつ精査していくと起きている事例やいじめやハラスメントに発展するケースに一定の共通点が存在し、それらの共通点がいじめのエスカレートや派閥形成に活用されている子とも否めない。


 つまり、子供のいじめは大人のいじめやハラスメントを模倣して、日常的に発生している可能性があるということだ。


 次に“子供たちの教育格差が学力差に現れている”ということだ。これは、日本においてあまり問題視されていないが、私はかなり問題視している。


 なぜなら、これらの問題は教育の公平性に大きく関わってくるだけでなく、その子の価値観や人格形成などに大きな影響をもたらし、将来的に物事を悲観的に判断することも十分に想定されることになる。


 私は教育機会の平等性を担保しないと良い人材は育たないと思っているし、日本のように大学のブランドやコンクールなどの受賞歴など社会的に好印象と言われているような物事の判断をする、幼少期から点数や順位など数字で育ってきていることが場合によっては将来性を狭めてしまう要因になってしまう可能性があるのだ。


 他の国ではあまり順位や成績などを優先して人を判断することはないし、仮に実績を優先したとしても“こういう実績を掴むことでこういう道が開けるよ”という1つの道しるべとして後身に示すことが出来るという考え方をする人が多い。


 しかし、日本では学歴や実績など採用する側に得がないと相手の心には響きにくく、全体的に即戦力を求める傾向にある。そのため、他の国のように柔軟性が乏しく、社員の離職率や引き抜き率が高くなる傾向にある。そのうえ、日本においては自分たちの利益を優先し、自分たちの価値観で全てを判断する事になるため、本当に必要とされる人材でないと生きていけないような社会風潮になってしまっているのだ。


 私は人材を“選ぶ”のではなく、“育てる”事が大事だと思っている。なぜなら、人材というのはいくらでもいるわけではない。そのうえ、企業が求める人材とそうではない人材に分かれたときに後者の生活をどのように考えるのかもかなり重要な課題だ。後者が多くなってしまうとその人たちが持っている価値観や個性を生かす場所が減ってしまうだけでなく、人によっては“社会から必要とされていない”という負の思考を持ってしまうと今度はその人の価値観や個性が必要になったときにその人に協力を得られないということになるだけでなく、人によっては“社会から自分は都合の良い人間だと思われている”という社会に対する、相手に対する不信感に繋がっていくことも十分懸念される。


 これは子供たちの教育にも繋がっているように感じる。


なぜなら、学校などでも成績が良い子等自分に対して都合の良い児童・生徒がいる場合にその子をひいきする先生やその子に対して肩入れをする人が多いのも自分に利益がある、校長先生や教頭先生など全体評価に大きな影響を持つ人からの評価が上がるなど自己利益を前提に考えているからだ。


この考え方が子供たちにも共鳴してしまい、いじめなどが発生する要因として考えられる事例が多く発生している。そして、こういうことが1度起きてしまうといくら先生が言っても言うことを聞いてくれないことが多いのだ。


 このように、幼少期から大人たちのいろいろな行動を見てきた子供たちにとっては“いじめをしても大人が同じ事をしても問題ないのではないか?”という誤った認識で物事を解釈してしまうのだ。


今の日本において“偏向的な人材選別”や“年功序列による価値観の押しつけ”など既存の概念に囚われている部分も多く、若年層であっても組織に合う人とそうではない人の二極化を生んでいて、その二極化が結果的に人材不足につながってしまう背景にあるのがこの問題だと私は思っている。

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