第7話 Zero Hour(+ 8 hrs)


「ヒッ、ヒッ」


 全身がガチガチに固まって、凍り付いているかのようだ。


 もう身体の震えはない。そういう段階は過ぎてしまった。筋肉を震わせて体温を維持しようとする人間の生理機能が、役割を放棄したのだ。


 皮膚を刺すような痺れも寒気もなにも感じない。呼吸は弱々しく一息に吸える酸素は微々たるもの。間隔も徐々に拡がり、いつ止まってもおかしくはない。


 どれだけ時間が経ったのだろうか。時計を見る余力はとっくの昔になくなった。指先一つ動かせない。


 もっとも、時計を見たところで意味などない。太陽は赤く、西の水平線に沈みかけている。群青色だった海面は徐々に色を深め、目に黒く映る。


(きれいだな)


 目に西日を浴びて、閉じていたまぶたを薄っすらと開くと、茜色に染まる夕焼けが見えた。


 一年の四分の三を海上で過ごす穂積にとっては見慣れた光景であるはずだったが、生涯で見たどんな景色よりも美しかった。


(俺は何を見てたんだ。こんなにきれいだったのか)


 呼吸に合わせて心も穏やかに凪いでいく。もはや生きる気力は残っていなかった。


(最後にビフテキ食いたかったな。……二日続けては贅沢か)


 昨晩のビフテキが脳裏に浮かぶ。本当に旨かった。最近、週一でビフテキにありつけていたので、毎週楽しみにしていた。


 昼の茶碗蒸しうどんもよかった。やけに増えていた司厨長の創作料理の中でも一番だった。


 あれだけ創作に意欲を注ぐ司厨長も珍しい。定番の日本食を作っているほうが楽なはずなのに、どうして?


(……あ。そうか)


 なぜか、すんなりと答えにたどり着いた。今まで疑問に思ったことすらなかったのに。


 彼は普通の日本食を作っているわけにはいかなかったんだ。日本米が、もう無かったから。


 ずっとパサパサのインディカ米ばかり。メニューによっては口に合わず、残してしまうことも多かった。昨日の昼も米は残してしまったが、茶碗蒸しうどんのおかげで満足できた。


(彼は責任を感じていたんだ)


 毎週ビフテキが出るようになったのも考えてみればおかしい。一航海の消費に合わせて計算されていたはず。一方を増やせば、減らされる者もいるということ。


 ひょっとして、他のフィリピン人達もお詫びを兼ねて協力していたのではないだろうか。ビフテキであれば、インディカ米を使ったガーリックライスも食べてもらえる。


(鮮魚の扱いくらい教えてあげればよかったな。そもそも生魚を食べる習慣がないんだから。……帰ったらアドバイスを。司厨長の名前、なんていったっけ?)



 おそらく船長も知っていたんだろう。きっと司厨長から相談されていたはずだ。


 あの船長は乗組員みんなから信頼されていた。お酒が好きな人だったが、大勢を巻き込んで楽しいお酒を飲む人だった。


 あの船長の乗る船には何回か乗ったが、悪い雰囲気のときは一度もなかった。大らかな一体感があった。ああいう人が本物なんだろう。


(船長には何回かお世話になったな。もうすぐ引退だろうけど、今回の事故の責任を追及されたりするんだろうか? ……それは嫌だな。帰ったら謝りに……船長の名前、何だっけ?)



 今回の事故、本船の乗組員に過失は絶対にない。会社も分かってくれるはずだ。


 現場の一番近くにいた三等航海士はしんどいだろう。自分だったら耐えられる自信がない。


 あれだけ一生懸命だったのに、救命艇がトラウマになったりしないだろうか。彼の操船は上手かったし、指揮もはきはきとしていた。


 この事故を乗り越えられれば、将来いい船長になるに違いない。


 きっと、あの潮気しおっけの強い一等航海士が矢面やおもてに立って守ってくれるはずだ。


(チョッサー。うまくフォローしてあげてください。このまま潰れてしまうのは惜しい。……いつか彼の船に機関長で乗るのも悪くない。……あぁ、二人の名前が出てこない)



 将来は機関長に、とか考えたけど、全然足りてなかった。


 今さら、機関長にダメ出ししてもらおうとか、情けないにも程がある。何も言わなかったのはきっとそれなりに信用してくれていたんだろう。


 それに指導なら二等機関士の時期にタップリとしてもらった。調子に乗っていた自分にいろいろと親身にしてくれた。


(ホント、お世話になりました。今度、飲みに行きましょう。寿司でもつまみながら一献。機関長……名前が出てこない)



 あの時の機関長に比べれば、俺は二等機関士に何もしてやれてなかったな。彼は優秀だから甘えていた。


 三等機関士の教育もいろいろと手伝ってくれていたな。救命艇にいたのも、そうした一環だろう。


 特になにも言ってこなかったのは、なんだろう?


 きっと、とても初歩的なしょうもないことでつまずいていたからだろうか?


 あの三等機関士ならあり得る話だ。


(ほったらかしてて悪かったな。計画してた補助発電機の開放は大変だから、俺も……一緒に…………彼の名前は……)



「ヒッ、、ヒッ」



 死の間際に、同僚の名前を一人も思い出せないなんて、俺はなんて寂しいやつなんだろう。


 職位名で呼び合って、なんの不都合もないから、ずっとそうしてきた。


 だが、自分でもわかる。これは異常だろう。


 これが、自らの持って生まれた性質だというなら、この身体の奥に感じる冷気は、自身の心が発しているものではないか。


 人を役職でしか見ず、必要以上の関係を持たず、目的のために必要なコミュニケーションをこなす。


 こんなものが、俺が船員として働いてきた末に出来上がったものだというなら。


 先ほどまで、頭の中で浮かんでは消えていた罵詈雑言が、本音だというのなら。


 俺は、決定的に、船員には向いていなかったことになる。こんなのは、違う。



 少し前のラウンジでの一幕が浮かんでくる。



『船員として働く上で一番大切なことはなんですかぁ?』

『人によりけりだろうな』

『ファーストエンジャーはどう思ってるんですぅ?』

『突然聞かれても……お前はどう思う?』

『……あたしはぁ、ONとOFFをしっかり分けることが大事だと思います』

『稼業時間と時間外ってことか?』

『そうじゃなくってぇ。難しいんですけど、仕事でなくても職場にいて、生活そのものが仕事みたいなところがあるじゃないですかぁ。あたしも、まだ出来てないですけど、ONとOFFをちゃんとしないと、おかしくなっちゃうんじゃないかなぁって』


『ふーん。一番大切なことかは知らんが、俺が守ってるルールなら一つある』

『どんなルールなんですかぁ?』

『分をわきまえることだ』

『よく聞く言葉のような気がしますけど、あたし理系女子リケジョなんでよく知りません』

『俺も正しい意味合いだけで引用してるわけじゃない。要するに、俺は一等機関士で、お前は三等機関士だってことだ』


『なに当たり前のこと言ってんですかぁ。なんて、間抜けなことは言いませんよ。ファーストエンジャーっぽいですぅ。あたしはそういうのいいと思います。――だけど……』

『だけど、なんだ?』


『……なんでもないですぅ! あっ! いい事思いつきました。二人のルールのハイブリッドで行きませんか? ファーストエンジャーも是非!』

『なんで俺がお前のルールに合わせなきゃいけないんだ。めんどくさい』

『もう! じゃあ、あたしが自分ルールをものにするのを手伝ってください』

『どういうことよ?』

『ファーストエンジャーの前で、あたしはOFFになることを心掛こころがけます!』

『舐めてんのか! 常にONで仕事しろ!』



 …………彼女は大丈夫だったろうか?


 最後の一瞬、ハンドレールにもたれ掛かっていた。


 あれだけの衝撃だったんだ。本船にいても、ケガして不思議じゃない。フォアマストに登っていたらと思うと、ゾッとする。


 見学を奨めておいてよかった。


 救命艇に乗ったのが自分でよかった。


 ここに彼女がいなくて、本当によかった。心からそう思う。


(サードエンジャー。……汽笛……治せて、よかったな)


(彼女の……名前は…………――――)


 ああっ。よかった。



 穂積の黒目に夕焼けが差し込む。


 ぼやける視界が透明に移ろい、ちらりと群青色が見えたような気がした。


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