第3話

 町外れのトンネルから流れてきたドロドロした煙が薄まったような雲々はその隙間を広げていき、夏が到来した。そして爽快な空の下で現実は熾烈さを増していった。

 表現を和らげて言えば、風当たりが強くなったなと感じることが多くなった。

大人がどう思ってるかなんて知らないけれど、教室は平穏ではない。窓ガラスが割れたり、人殺しが出なくたって、その中で渦巻いているのは未熟な人格が織りなす奇怪で醜い、行き場を失った暴力性なのだ。どこに飛んでくるかは分からない。その矢先が自分にかすった程度のことだ。ようやくか、と思った。正直クラスでの私の立ち位置は浮いていて、いつ切っ先が私に向いてもおかしくはなかったのである。まずもって彼らや彼女たちは私に無視を決め込んだみたいだった。今までは拙くとも挨拶をしたり、たまには係りの仕事上誰かと話さねばならないことがあったのだが、しかしクラスメイト達は私が近づくと露骨に遠ざかり、離れた場所から指差しつきの嘲笑とともに明らかに見下す視線を寄越すだけになった。触れたくないと言わんばかりの、汚いものを見るような視線。私は学校では完全に一人きりで過ごすようになった。夏希ですら周りの空気を感じ取ったのか、憐れむような視線を向けながらも、近づくことはしなくなった。とはいえ私はあまり動揺してはいなかった。別にそんなのありふれていることだ。大したことではないし、いつかは彼らも飽きるだろう。それに、私以外にだってそういう扱いを受ける人を見たことはあるし、いわばババ抜きでジョーカーのカードが回ってくるような、そんなどうしようもないことなのだ。むしろ動揺や落胆はなかったということが私には大きかった。風当たりが強くなったことは、自分が元々教室の人たちに心を開いていなかったことをやや歪んだ形ではあれ肯定したということになる。ほら見ろ、やっぱり私の言った通りじゃないか、奴らは不意に他人を裏切って楽しむような人間たちなんだ、付き合わなくて正解だった、と強がりに似た優越感がじんわり胸の内に広まっていた。

学校ではあくまで平常を装っていたが、高校生にもなって無視かよ、という思いもあった。私を支えるのは久川千秋の存在だった。私は学校にいるときは専ら彼女のことを考えることで、気を紛らわせ精神を安定させることに成功していたのだ。でもこのとき一番困惑し、思い苦しんでいたのは私ではなかったのだと思う。それは他でもなく、それまで私に近づいていた佐々木夏希だ。

「ねえ、もう分かってるでしょう?」

 彼女は久しぶりに一緒になった帰り道で私に言った。

 夏希は私を心配しているようだった。しかし以前よりもはっきりと私は彼女に距離を感じていた。

「何が?」

「何がって……」

 喉の奥に言葉を詰まらせたように夏希は下を向いた。

 私は夏希の意図を見越し、それに若干のうんざりを感じていた。結局夏希も自分の身が大事だし、私のことなんて実は一ミリだって考えてはいないんだ。こんなのは小学校からの付き合いの子がクラスに除け者にされていて、自分はそれに対して何もしないという卑小な良心の呵責によるものでしかない。本当に私のことを思ってくれているのなら、こんな帰り道じゃなくてクラスで堂々と話しかければいいんだ。そしたら私の異様な一人ポジションという立ち位置は回避される。しかし夏希はそれを選ばなかった。選ばなかったし、これからも選ばないのだろう。もうこうなることは分かっていたのだ。夏希はクラスの派手な女子グループにいるのが楽しそうだし、そんなカースト上位から私のような底辺に落ちるのが怖くて仕方がないのだ。初めはその挙動に傷ついていたりもしたけれど、今はもう大丈夫だ。夏希は夏希、私じゃないんだ。彼女は彼女なりの倫理があって、私には私の倫理がある。けれどそれらは決して交わらない。それだけのことで、それ以上でもそれ以下でもない。

「結局、夏希は自分が一番大事なんでしょう?」

 私が言うと、彼女は眉間に皺を寄せ、一層表情を曇らせた。

「え? 何でそんなこと言うの……。私たち、友達じゃん」

 言葉っていうのは本当に便利だ。口に出してみれば、それがさも事実であるかのような印象を与える。私には反論する気さえ起きてこなかった。

 歩道橋の脚元で私は立ち止まった。夏希の家と私の家は通りをもっと真っ直ぐ行った同方向にあるが、私は歩道橋を渡って交差点を右に曲がらないといけない。三車線の大通りから立ち上る灰色の排気ガスにまみれながら、私は夏希に向き直った。

「夏希はさ、私に嘘ついてるよね」

「嘘? 何で?」よく見れば夏希も鋭く瞳を光らせて、真剣な眼差しをしていた。

 そんなに自分の思い通りにならないことが嫌なのだろうか。プイライドの高い夏希のことだ。屈辱と感じているのかもしれない。

「もっと自分に正直にいればいいのに。見てるこっちが苦しいよ」

 私は吐き捨てるように言った。

「私、瑞香が何言ってるか分かんない。……分かんないよ。最近は、瑞香が何を思って何を考えているのかも分かんない」

 ――だから、そんなこと知ってどうすんだって。

 私は自分でも分かるほどに、湧きあがる苛々を抑えられなくなりそうになった。

「お互い様だね。夏希が何でそんな無駄なことをするのかだって、私には分かんないから」

 私は呆然と立ち尽くす夏希に背を向けて、歩道橋を足早に上った。歩道橋の上では一度も後ろを振り返らなかった。渡り終わってから元いた場所に目をやると、夏希の姿はもうどこにもなかった。


 その夜。私は自室のベッドの上で壁に背中を預けて三角座りをしていた。純白のレースカーテンが頭の右の方にちょこんと触れている。頭に浮かぶはとりとめのないこと、私は正しいことをしてるのかどうか、私が思い込んでることは間違いなのではないか、本当のことなんていつまで経っても知ることはできないのではないか、……考えたってどうしようもないことだ、そんなことは知っている。いや考える振りをしてるだけで、実際はそのアイデアの外側の膜を指でなぞっているだけなのかもしれない。勇気なんてもってないんだ。信じられるものなんていつだってあったことはない。でも、今それに近いとすれば……、

「千秋しか……」

 私はカーテンをくぐり、窓を開けた。生ぬるい外気が頬に触れるのを感じ、目を上げると濃紺の空に浮かんだ綺麗な三日月が見えた。その周りに散らばった星たちも。名前も知らない夜の神様はいつでも私を見ていてくれる。私はそれらを眺めることで、ぐらぐらした感情が次第に落ち着きを取り戻していくのを感じていた。私は昔からそうだった。どこまでも広がる暗闇に光る月や星を見るのが好きなのだ。遥か遠くに浮かぶそれらを眺めていると、私も実のところ自由な身である心地がして、どこまでも行ける気がしてくるのだった。細々した人間関係なんか取っ払って、身体の調子からも、すぐ暴走する精神なんかからも解き放たれて。私はそれらを空から見下ろして笑ってやるのだ。そんなもの、哀れなほどに小さくて、何の価値もないんだって笑い飛ばしてやるんだ。それで、私はどこまでだって飛んでいく。空の果て、銀河の隅、名前もない国、人のいないところへ、私は飛ぶ。人間なんて置き去りにして、星たちの希望を受け取って。どこまでも。どこまでだって。

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