アゲイン・ザ・スターピーシーズ
四流色夜空
第1話
忘れることのない記憶。
それは時に胸を締めつけ、時に私の傍で寄り添ってくれる。優しく、儚い、夢のような傷痕。
時が経って私は変わることだろう。環境の変化に順応して、大人になっていくのだろう。でも、それでも決して離せないものがある。それは私にとって影でも幻想でもない大切なものだ。
一
私が彼女に会ったときのことは、今でもはっきりと覚えている。あれはたしか暴力的な雨が地面を打ちつける六月のことだった。
外では機嫌の悪そうな空から、次々と雨がざあざあと音を立てながら降り注いでいた。私は頬に手を突きながら横目でそれに目を向ける。三階にある教室からは若葉を茂らせた八重桜が綺麗に濡れそぼっているのが見えた。雨粒が目で追えないスピードと数の多さで青葉に落下していく。まるで上から下へすべてのものを屈服させるような傲慢さを持っているようだ。しかしどれだけ雨の攻撃を受けていても、青葉はしらっとしていて、いやむしろ却って瑞々しさを増しているようで、なんだかそれは眠気の覆う頭に羨ましく映り、私はうっすらとした嫉妬を覚えた。そしてすぐに心の奥底で矮小すぎる自己を嫌悪した気持ちがむくむくと立ちあがってきたのを感じ、私は深いためいきを吐いた。私はためいきを我慢しない。幸せが逃げるなんてことはない。ためいきを我慢したところで幸せはやってこないのだ。その代わりにやってくるのは、この世に対する無常観と、今すぐに屋上から飛び降りたくなる衝動と、そんなことすらできない自分へのうんざりとした諦観だけだからだ。そんなことを思っているうちにチャイムが鳴った。周りが織りなす喧騒を遮って、雨の飛沫だけが世界で唯一の音のように私の頭には響いていた。
授業が始まってもそれは変わらなかった。全然、誰の声も頭には入ってこない。私には教室でのすべてがくだらなく、つまらないように映っていた。大学受験に向けて続ける勉強も、休み時間に交わされるクラスメイトのコミュニケーションも。梅雨に入ってからはどうにも気分的に沈んでることが特に多くなった気がする。なんでだろう。これが鬱って奴なんだろうか。でもこんなことで鬱とか言ってたら本当のウツビョー患者さんたちに申し訳ない気もする。
幾度目かの休み時間に佐々木夏希が私の机にやってきた。
「どうしたの? 最近瑞香元気ないよね。なんか授業中も上の空って感じだし」
私は適当に答えた。
「いやあ、別に。なんで空は青いのかについて考えてただけだよ」
そう口にしてから今の空が一面灰色だということに気がついてなんだかおかしくなった。
「うわー、やっぱ瑞香、変わってるよね。もっとさ、簡単で明るいこと考えようよ」
夏希はころころと笑った。見れば見るほど小顔で端正な顔だ。肩にかかった髪がゆらゆらと揺れる。彼女がする仕草はどれも彼女の魅力を引き立てているように見える。
「でもさ、私も考えちゃうよ、そういうこと。なんだか漠然で抽象的で、考えてもしょうがないことをさ」
「例えば、どんな?」
私は、皆とはちょっと外れているこんな私にも無理なく合わせてくれる夏希が好きだった。夏希とは小学校の時からの付き合いになる。中学の時に仲良くなって、この高校にも一緒に願書を出した。
夏希は少し考えて、言った。
「昨日のご飯はなぜハンバーグだったのかとか」
「は?」私は拍子抜けしてしまう。でもそんなところも夏希らしい。
「いやだからさ、なんでハンバーグが出たのかなあって。だってお刺身でもよかったわけじゃない? それに餃子でもよかったし、ミネストローネじゃなくてコーンスープだってよかったわけで。色々ある料理の中からなんでハンバーグが選ばれたのかなあって」
「それは夏希のお母さんがそう選んだからじゃない?」
「いや、そうなんだけどさ」
夏希がもう一度にっこりと笑みを浮かべたところで、背後から別の女子たちの声が彼女を呼んだ。
「なつきぃー、放課後どっか行こうよー」
夏希は振り返って軽く返事をすると、「瑞香、ごめん」と言って背を向けて、声のした女子グループの方へ駆けていった。
その女子グループは私を冷ややかに一瞥した後、すぐに夏希に楽しげな表情を向けた。私がそれに気づかないように窓の桟へ視線を逸らすと、彼女たちはやがて私に声の届かない方へ行ってしまった。私の手の中に残るのはいつだってお馴染みの喪失感。夏希はクラスでもやはり人気者だった。容姿もいいし、気遣いもできる彼女は高校に入ってそれまでよりも一層もてはやされているようだった。それに彼女自身も最近はそれを自覚した振舞いをしているように見える。だからむしろ最近は彼女が私にかまってくれること自体が不思議なことのように思えてくるほどだ。私が一人ぼっちになるのも時間も問題かもしれない。私は半開きの手を机の下でギュッと握りしめた。今日の天気は雨だ。すべてをさらりと流してくれる雨じゃなくて、何もかもがじっとりと圧し掛かってくるような重い雨。
私は学校が終わると逃げるようにして市の図書館へ向かった。学校に私の望むものは何一つとしてない。たったひとつの希望であった夏希すら最近は私の手から零れ落ちていくようで、悲しさが胸を痛めつけていくだけだった。私はもういっそのことすべてをこの手から離してしまいたい気に駆られることもあった。私が悪いのだろうか。私がもっと友好的な振舞いをして、他人に同調する振りをして、時々自分の主張を織り交ぜたりして上っ面だけで笑っていればいいのだろうか。そうすれば全部うまくいくのだろうか。水色の傘に打ちつける雨粒も遠くなって、そんなことを真剣に考え出してしまう。雨降る空にいくつもの風船が漂った。私について考えるといつも、その思考は私の頭にとどまることに飽きて、勝手にふわりと浮遊しだしてしまうのだ。私の手から離れていく。
例えば、なんで私は学校に辛い思いをしてまで行かなくてはいけないのか。なぜ楽しそうな他人は私に軽蔑したような視線を送ってくるのか。そもそもなぜ私の人生は私が決めなくてはならないのか。なんで私は生きているのか、なんで私はこうやって……。
こんなことに答えがないのは分かっていた。それに暫定的な答えならすでに与えられていることも。だけどそういったとりとめのないことを考えるのが私は好きだった。現状に直面した具体的な対策を検討するよりも、そういった途方もない、何の足しにもならないようなことを考える方が私の心を落ち着かせた。図書館に行くのもそういったことのためでもある。塾に行ってないから放課後は勉強しに行ってると親には言ってあるが、一人になりたいという思いが強い。学校にいるとどうしても周りの視線が気になった。知り合いがいるとどうしても意識しない内に気にしてしまうのだ。私の今の髪の触り方は変じゃなかったかとか、ブレザーの背に埃がついているのではないかとか、変にびくびくしてしまう。でも不思議なことにそれは知らない人しかいないところではあんまり気にならなかった。
私は薄暗い空の下、歩道橋を渡り、小学校裏の公園の前を通って、図書館についた。自動ドアの前で傘を折り畳んで、くるくる振って水を弾き飛ばした。ここは古くからある、市で一つしかないなかなか立派な図書館で、休みの日は勉強する生徒たちや調べものをするサラリーマン風の人たちでいっぱいになる。でもそうは言っても平日はほとんど人気がなく、悠々と席を確保して隣の椅子に荷物を置くことさえできるはずだ。ほら、今日も。私は席に荷物を置くと、軽く埃の落ちたリノリウムの床を踏み歩き、お馴染みの棚まで行って、気になった背表紙があると指でするりとなぞる。読む本を選ぶ、この瞬間は格別だ。どんな物語に私は入ることができるのだろうか。私は本が好きだった。本は私をどこへでも連れて行ってくれる。読書に身を委ねていると私は現実を離れることができた。思索に耽る時以上に、力強く、思いがけなく、あっけなく遠いところに私を連れ出してくれる。
私は二冊のハードカバーと一冊の文庫本を選び出して、席に戻った。布張りの背もたれが心地いい。そして持ってきたうちの一冊を手に取り、落ち着いた手でページをめくる。少しの間は周りの些細な音が耳に残ったりもするけれど、それもたちまちに消えていく。私の中にやんわりとした穏やかな空気が流れ込んでくるのだ。誰もいなくなった深夜の交差点のような爽快さが喉に流れ込む。ここは私しか知らない特別な場所だ。小学生の頃につくった秘密基地のような心地よさ。誰にも汚されない私だけの世界。
そうして私は、平日は毎日のように高校での授業が終わると図書館に通う日々を続けていた。二年生だからまだ受験だって先の話で、それだから私は表面上の目的である勉強もそこそこにして、物語に没頭することができた。それに宿題程度しかやらない勉強だって成績の低下を実感することはなかった。
それは特に雨の強い日だった。今朝の天気予報は一週間雨模様を示していて、そのピークに当たる日だった。
私はいつものように図書館の席に座って、ゆっくりとした時を過ごした。遠く微かに雨が地面を打ちつける音が響き、その他に大きな音はなかった。あるとすれば隅に置かれた空調設備がたまにゴゴゴと音を立てて除湿をしているくらいだ。天候のせいもあるのか新たに入ってくる人も少なく、専らは机に向かう人、本棚の前で吟味するように本を選んでいる人たちの、ページを繰るパサリという音が場を包みこんでいる。私は紙面に目を落とす。そして現在の環境を遮断し、次第にページの文字列の向こう側に落ちていく。文字と文字の間。その隙間に。ゆっくりと海底に沈みこんでいくイメージが頭に浮かぶ。粘性をもった水が落ちていく私を静かに受けとめ、穏やかに底へ引き下ろしてくれる。自分とは違った主人公がいて、思いもつかない運命的で衝撃的な出遭いと別れがある、現実とは違った魅力的な世界へ、私は落ちる――。それはとても心地よい快楽だ。見たこともない景色が私の周りを満たして躍る。月の光や、花の囁きがあちこちで反響する。夢を見ているように、時間の感覚も次第に霞む。自分は一つの身体にとどまることをやめて分散し、虚構の世界に遍在するようになって、その様々な悲しみを、喜びを、驚きを私の心に浸透させていった。
時計の針がどれだけ進んだことだろう。私はやがて興奮冷め止まぬ間に、読んでいたハードカバーの最後のページを繰った。それは海外の有名なファンタジー小説で、上下二巻の上巻を読み終えたところだった。
私は早く続きが読みたくなったので、席を立ちそそくさと本棚の方へ向かった。心はまだ物語の世界から抜けきっておらず、床を踏む足の裏の感触もどこかおぼつかなかった。私の中にまだ夢の世界が広がっている感覚だ。一秒でも長く虚飾の世界に浸っていたい私にとって、その感覚は愛おしいものだった。でも一歩足を進めるたびに、虚飾の世界は砂時計の砂のようにするすると私から抜けていってしまう。私の中でその名残が抜けきらないままに続きを読み始めたい衝動が疼く。
私は本棚の前に立って、期待の視線で上巻のあった場所に目を向けた。一刻も早く下巻を取らねばならなかった。しかし、
(……あれ?)
上巻が一冊置いてあり、その横に私も今読んだ本を差し挟んだのだが、その横――下巻があるべきスペースは空になっていた。私はきょろきょろと辺りを見回した。
あれ、いつもはこんなことないのに。私の肩はゆるゆると落ちていった。この図書館は蔵書数が多いから、普通に下巻もあるものだと思っていた。目の前で魚を取り逃したように、なんだかすぐには諦めきれなかった。私は身体の虚飾要素が抜けきってしまうことに怯えるように、念を入れて目を光らせた。……が、やっぱり下巻は誰かに借りられているようだった。落胆が身体に深く沁み込んでいくのが分かった。仕方ないから席に戻ろうと振り返った瞬間、いきなり私の鼻先に人影が現れ、私は驚いた。反射的に半歩後ずさり、右の踵が本棚にこつんと触れた。
それは私と同じくらいの年に見える制服姿の女子だった。私の知らない制服。目が合うとすぐにその女子は口を開いた。
「あ、あの……、これ、探してた?」
涼やかな声だった。長い髪がふわりと揺れる。
彼女がおずおずと差し出したのは、私が今まさに探していた下巻だった。私の心に一陣の風が吹き、一気に救われた感じがした。でもすぐに身体中にぴりりと緊張が走って、なんだか口籠ってしまい、ぶんぶんと頭を振るだけになってしまった。普段口を開かないと喋れなくなるというのは本当らしい。高校二年生にもなりながら、ろくに会話もできない自分が急に恥ずかしくなった。
しかしそれにも関わらず、その女の子は人懐っこい笑みでにっこりと微笑んだ。
「良かった。じゃあ、どうぞ」
「あ、ありがとう、……ございます」
彼女の振舞いに少し気持ちが和らいだが、やはりうまい返事は出来なかった。私がそれを受け取って、いそいそと席に戻ろうとすると、彼女が穏やかな口調で声をかけた。
「あなた、毎日ここに来ているわよね。少しだけ、お話しない?」
遠くの雨音は途切れることなく続いていた。彼女の声は輪郭が溶けるような不思議な印象を持っていた。いや声だけではなく彼女全体から世間からずれた魅力的な匂いがした。私はそのどことなく現実離れした雰囲気にあてられて、内心うっとりしていた。それはまだ私の中で物語が続いているような錯覚を植えつけた。そうして気がつくと私の足は彼女に誘われるがままに談話室へと向かっていたのである。
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