Chapter26・子育てが簡単な人なんていないんだ

九月 土曜日 夕方 自宅


 俺は治姉と母さんとの会話を終えると早速自室のPCデスク兼勉強机で、治姉から聞いた人間関係造りのヒントを忘れないようにルーズリーフに書き留めた。そして具体的な案を考えるために二枚目のルーズリーフに俺のクラスの相関図でも書こうかと思いついた時、一階からドアベルの音がする。


 風通しを良くするためにドアは開け放っていたので母さんが応じるために玄関に行く音が聞こえる。そして聞こえた来訪者の声に俺の思考は止まってしまった。


「米沢さん、申し訳ないのですが、今日の和歌と英紀君の交換レッスンはお休みにさせて頂きたいのですがよろしいでしょうか?」


「ええ、それは問題ないですけどどうなさったんですか?」


 聞こえたのが教英先生の声だったので俺は考えるよりも早く立ち上がり、階下の玄関に向かう。まだ二人は玄関で立ち話をしている。


「実はつい先ほど和歌の担任から電話がありまして、和歌がクラスでいじめられていると聞いたんです」


「それで和歌ちゃんが今日はレッスンを受けたくないと言ったんですか?」


「いえ、レッスンを止めたいのは私なんですよ。お宅から帰ってからすぐに一人で外出してしまいましたからまだ本人から詳しい話を聞けていないんです。なんせ担任の電話で初めて知ったものでして」


「先生、和歌が家を出て行ったんですか?」


 レッスンの時と違って余裕の笑みがない先生の様子を見て心配になってしまい、母さんの後ろから先生に話しかける。


「英紀君、心配させてすまないね。図書館に行くとか十八時までには戻るとか言っていたから大丈夫だろう。聞いてもいないのに妙に具体的だと思ったが、家族に隠したいうしろめたさでもあったんだろうな」


「念のために俺が探しに行きましょうか? チャリで行けばすぐですし」


「いや、携帯は持っているし競子がGPSサービスを使っていて居場所も分かるからそこまでしないでいいよ。それより英紀君がいるなら学校でのことを聞きたいな」


「うちの子で役に立てるならもちろんですよ。さあどうぞ上がって下さい」


 俺に確認もせずに母さんは答えて先生を招き入れるが、もちろん俺も応じるつもりだったので問題ない。俺達三人がリビングでダイニングテーブルの席に着いたところで治姉も何事かとリビングにやってきた。


「あ、真鶴教授こんにちは」


 先生を見るや治姉が会釈すると先生は微笑んで応じる。


「治佳ちゃん、こんにちは。お邪魔しています。そのワンピースは先週一緒に買い物した時の物だね? おしとやかでありながら治佳ちゃんの利発さを欠かないでとても上品だ。すごくいいね」


「お上手ですね。でもありがとうございます。まだまだ着慣れていないから素直に嬉しいです」


 いつもの家族会話ならば「英紀も見習え」なんて軽口を言いそうだが、相手が相手だけに俺を弄らずに微笑んで礼を述べる。しかし先生がわざわざ我が家まで来た理由を察したのか、表情を曇らせて訊ねる。


「真鶴教授がいらっしゃるということは和歌ちゃんのことですか?」


「ああ、その通りだよ。治佳ちゃんも和歌から聞いていることがあれば教えて欲しい」


「是非お力になりたいとは思いますが、現状うちで一番出来事に詳しいのは英紀です」


「そうだろうね。だからまずは英紀君に何が起きているのか詳しく聞きたい」


「分かりました。まずいじめの具体的な内容は無視です。始まったのは――」


 治姉や母さんとは違って教英先生は余計なツッコミはせずに一貫して落ち着いて聞いてくれた。俺の話が詰まったり不明瞭になると「なぜ? いつ? 誰が? どうやって?」と掘り下げ、更にところどころ俺の発言が事実なのか、それとも俺の主観なのか確認して持参していたノートに書き留めていた。俺が一通り話し終わると先生はノートを見ながら考え込む。


「ふん……よく分かった。英紀君、ありがとう。式部先生から聞いたよりもずっと詳しく何が起きているのか知ることができた。ただせっかく教えてくれたのに申し訳ないんだが、できればもっと早く教えて欲しかった。君には和歌の助けになるように頼んでいただろう?」


「すみません。先生の連絡先を知らなかったので……」


「私達はお隣さん同士だし文明君や法子さんに相談すれば競子に伝わっただろうし、いくらでも手段はあったはずだ」


 俺が知っているいつもの先生とは違って余裕が感じられない。笑顔なしでも話術はいつものままであるためどうしても責められているように感じてしまう。


「すみません……。約束したのに」


 俺が頭を下げると、先生は急に慌て始める。


「英紀君、すまない。責めるような言い方をしてしまった。そんなつもりじゃなかったんだけれどもつい感情的になってしまった。申し訳ない。許して欲しい……」


 今度は先生が頭を下げると母さんも反応して先生をなだめだす。


「真鶴さん、そんなに大げさに謝らないでいいですよ。ね? 英紀?」


「そうですよ先生、むしろ俺の英語レッスンの時はいつも冷静で、俺の考えの二、三歩先を読む余裕があるように見えるのに感情的になることもあるなんて、先生もやっぱり人間なんだなって思いましたよ」


「その言い方なんだか上から目線で失礼じゃない?」


「いや、いいんだ治佳ちゃん。そもそも英紀君を感情的に問い詰めてしまった私が悪いんだ。ただね英紀君、君には私は物知りに見えるのかもしれないが、和歌を育てるのは初めてなんだ。何をしてあげればいいのか分からない。自信がないんだよ。私は教壇を離れればただの一人娘の成長のために右往左往する普通の父親に過ぎないんだ。だから娘がいじめられているなんて知ったら居ても立っても居られなくなる」


「分かりますよ真鶴さん。私も英紀が喧嘩したって連絡が学校から入るたびにもしかしていじめられているんじゃないかって思いましたし」


「法子さんすみません。大の男が愚痴っぽくなって……。とにかく皆さん、今知った情報を元に、今日は和歌が帰ってきたらじっくりと今後について話し合いたいので今日は和歌と英紀君のレッスンはお休みにして欲しいです」


「先生! 待って下さい」


 レッスン休講を願い出て頭を下げようとした先生を止めて話し出すと、少し驚いた感じで頭を上げた。


「今日も語学レッスンをしてもらえませんか?」


「英紀君? 妙にやる気になってどうしたんだい?」


 よっぽど意外だったのか、そう返す先生の口は小さく開いている。それでも呆けては見えないので羨ましい。 


「和歌が心配で和歌との時間を作りたいお気持ちは分かります。でも先生のレッスンからいじめ問題解決のヒントが得られそうな気がするんです」


「それは、どうしてだい?」


 先生の表情が瞬時に真剣そのものに変わる。


「和歌が無視されていると俺達が確信した時に和歌が『なんで嫌われるんだろう?』って言っていたのを聞いて、そもそもなんで嫌われるのか考えたんです。それで関係しているかもしれないと思いついたのが先週のレッスンで先生が言っていた文化です」


「ほう、文化か。どうして文化に注目したのか教えてほしい」


「もちろんです。まず和歌は日本語を話してはいるけれども日本の文化を使った会話はしていないのかなと思いました」


「確かに十分に有り得ると思う。日本人学校を出て以来、ほとんど家でしか日本語を話さない生活をしていたし、話相手が私と競子で普通じゃない日本人だったしね」


「先生もそう思われますか。じゃあここで確認したいんですけど、先週のレッスンで先生は確か文化や習慣は異文化コミュニケーションの三割くらいを占めていると言っていましたよね?」


「その通りだ。よく覚えているね」


「ありがとうございます。じゃあ和歌の現状に置き換えて考えてみて下さい。今の和歌は文化と習慣が乏しい状態で日本語会話をしているということになりますよね?」


「確かにそうだ。文化は会話するネイティブスピーカーの母数が多いほど体験的に学べる機会に恵まれるからね。和歌は日本文化に触れる機会においては言うまでもなく英紀君よりも乏しい」


「そこでです! ただでさえ普通の日本人に比べて文化の部分が乏しい状態で会話しているのに、相手は空気を読んで言葉すら発しないこともある俺達日本人ですよ? 更に文化に乏しい部分を頑張って言葉の意味で補完しようとしても、日本人が発する言葉は建前の場合だってある。こんなの難しすぎるんじゃないかと思ったんです」


「なるほど……そうだな」


 気付くと先生は俺の話を聞きながらノートを再び開いて何かを書き留めていた。


「和歌が日本の文化習慣に乏しい現状のまま、先程話した無視に至るまでの複雑な経緯を教えて混乱させたくない。そして、文化習慣がヒントになり得るならばもっと知りたいと思ったんです。なにより俺は始業式に和歌が言っていた友達が欲しいという願いをかなえたいです」


 走らせていたペンを止めてはっとした表情で先生は俺を見る。


「だから先生、英語を教えて下さい」


 俺がそう言うとかすかに先生の目が潤んだかに見えたが、表情を笑顔に転じて答える。


「英紀君、喜んでレッスンさせてもらうよ。でもね、私は君に英語は教えないよ。私が君にするのは英語ができる自分を信じるためのメンタルサポートだけだ。そして君には和歌が日本で友達ができるようにサポートしてほしい」


「分かりました。最善を尽くします」


「それは日本人的な意味かな?」


「いえ、米沢英紀的な意味です」


「ふっ、なら信用できそうだね」


 お互いに少しいたずらな笑みを浮かべ合い、俺と先生はどちらからともなく自然に握手を交わしていた。隣を見るとどこで感極まったのか母さんが鼻をすすっている。


「うちの子がこんなに他人のために尽くそうとするなんて……」


「本当は今回は文明君と法子さんに相談しに来ようと思っていたんです。治佳ちゃんをこんなに健やかに育てた先輩ですから。でもそれ以上の収穫がありました。法子さん、ありがとうございます。ご子息のお力をお借りします」


「ええっ、こんなのでよろしければボロ雑巾の様に使い捨てて下さい」


「うわぁ、最後の最後に身内下げかよ。これ日本の文化ですか、先生?」


「うん、あんまり欧米では聞かないね。つまらないものですがと同じくらい聞かないよ」


 先生のその返しにリビングにささやかな笑いが起きる。もう夕食の時間近くになっていたので先生は今後の緊急連絡用に俺とMineを交換した後に帰宅し、俺はまた解決策を考えるために自室に戻った。問題を解決してまた我が家と真鶴家で心から笑えるよう決意を秘めて。

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