Chapter4・あだ名も黒歴史が由来だ
高一 九月 日曜日 始業式翌朝
真鶴一家と出会った翌朝、まだ俺の心は晴れていなかった。父は昨晩から早速レッスンをして欲しいと希望していたが、教授が娘の転校初日の話を詳しく聞きたいと望んだので初回のみ日曜日にすることになったのだ。なのでレッスンはまだ受けていない。
言語学教授による直々の英語レッスンを控えた最後の朝食を俺は粛々と終えると、厳粛な態度で合掌しながら母に告げる。
「お母さま、最期のお食事、おいしゅうございました」
「出撃前の特攻隊みたいな挨拶するんじゃないの! あんた歴史は得意なんだから同じ要領で英語も覚えてこればいいのよ。ほら真鶴さんのお宅に行く準備なさい」
「では逝って参ります。どうかお元気で……」
尚も毒を孕んだ冗談で絡む俺を母は手でシッシッと払いのけて俺に出撃を促した。俺はやむなく出撃の時を待つために自室に戻る。とはいえ素直に嫌いな英語の勉強の準備などできるはずもなく、俺は約束の10時まで現実逃避するためにPlayerStation4の電源を入れた。
スポーツゲームならハマり過ぎて時間を超えるおそれも無いだろうと考えて、一試合だけサッカーゲームのオンライン対戦をしようと思ったのだ。しかし、現実を見ない者にこそ不運は続くものだ。今回対戦した相手がめっぽう強くて、俺はスペインの超名門クラブを使ったのにJリーガの弱小クラブの相手に0‐4で完敗してしまった。
「くそっ! ゲームでも俺は負け犬なのかよ!」
現実逃避の為に始めたゲームにすら負け犬の烙印を押されてしまった。そう感じてボヤいたその時だった。
「負け?」
自ら発した言葉の意味を自覚して俺はふと閃いた。そして負け犬にしかできない事があるではないかと思いついたのだ。時間もぼちぼちちょうどいい、俺は急いで思いついた秘策の準備をすると、補習セットが入った鞄を持って自宅を出た。
自宅を出た時、ちょうど真鶴さんが我が家の玄関にたどり着いたところだった。家の父さんから日本語レッスンを受けるためだろう。彼女はブルーのロングスカートに白い薄手のフリル付きブラウスを合わせたシンプルな服装で、左手には今脱いだばかりであろう麦わら帽子を持っている。
「あ」お互いに気付いて反射的に出た声、俺は続いて「君のお家にお邪魔します」と声をかけた。
しかし、真鶴さんは挨拶が耳に入らぬ様子で俺の胸元を凝視していた。そして視線を上げると心底哀れな者を見るような目で俺を見て、そして言った。
「あなた、その英語の意味は分かっているの?」
そう言うと今俺が着ているTシャツを指で示す。そこにはスケーターブランドのようなカッコいいフォントでこう書かれていた。
”Born to lose"
「もちろん!」
「ああ、そう……」
自信とともに言い放つと、彼女の表情が更に哀れみに満たされる。まるで末期癌で天に召されようとしている孤独患者を看取る看護師だ。俺にとっては想定の範囲内の反応なので、余裕の笑みで彼女の様子を伺っていると、胸の英字から視線を上げた彼女と目が合う。すると彼女は憐みから一転して決意を感じさせる眼差しで俺に語りだした。
「あのね、心配だから言っておくわ。負ける為に生まれたという意味よ」
「知ってるよ! なんだって俺のあだ名のきっかけだからな」
「えっ? どういうこと?」
「ルーさんのルーはルーザーのルーなんだ。去年の体育祭の時にこのTシャツを着ていたらクラスの奴にからかわれてさ、ルーザーって言われている内にザーが落ちてルーさんになったんだ」
「それは分かったけど……。そんなあだ名嫌じゃないの?」
「まあ嬉しくはないけど、これをきっかけに友達も増えたしな」
「えっ、どうして?」
それまで憐れむような表情でこちらを見ていた真鶴さんが、一転して真剣味を帯びて掘り下げてきたので俺も真面目に答える。
「ルーさんって呼ぶ奴が出てから少し経ってからかな。クラスのバカ3人が『ルーさんって響きが流産に似てね?』って言いだして、『流産! 流産!』ってからかい始めたんだ」
「まって、流産って何?」
「え? あー、あの、赤ちゃんが生まれる前に死んじゃうことだよ」
「何それ! そんな呼び方酷い!」
「だろ? 俺も当然嫌だし、真鶴さんみたいに教室にいた女子達も嫌そうだったから止めたんだよ。でも止めなかったから結局俺から殴って喧嘩しちゃったんだ」
「喧嘩したら友達なんか増えないじゃない」
「まあ聞いてくれよ。3対1で一方的にやられていたところでサッカー部仲間の
「いえ、まだ名前を覚えたのはあなただけよ」
「そうか、まあ明日にでも紹介するよ。クラスのリーダーみたいな奴だから冴上と仲良くなっとけば自然と友達もできると思うしさ」
「ありがとう、嬉しいわ」
「それで喧嘩を止めてくれた冴上が言ったんだ。『お前ら流産って意味分かってんのか? 人が死ぬんだぞ! そんなあだ名付けられてルーさんが嬉しいわけがないだろ! 俺がもし女だったら流産なんて言葉聞きたくもない! 自分の子供が抱けないまま死んじまうんだからな!』ってさ。そうしたら女子達からの冷たい視線にやっと気付いたおバカ達が俺に謝って解決したって話だよ」
「ふーん、いい話じゃない。でもどうしてそれで友達が増えるの?」
「冴上だよ。学年一の人気者の冴上がクラスメイト達の前で堂々とあだ名で呼んで庇ったもんだから、学年中に俺が人気者と仲が良いって知れ渡ったんだと思うよ。冴上は俺を庇ってから俺のクラスからのラブレターがすごく増えたからな、俺はあいつがもっと人気になったついでにちょっと話す人の幅が広がったって感じかな。俺も流産って言葉を女子が嫌がっているって気付いていたのに……。ああ、うらやましい」
「ふふっ、残念だったわね。女の子は乱暴な人は嫌いなのよ。でもそんなにその冴上君が良い人なら頼んでルーさんのあだ名も止めてもらえば良かったんじゃないの?」
「それなぁ、俺もヨネとかヒデみたいな名前から作ったあだ名が良かったからそう思うよ。でも冴上が俺をルーさんって呼んだことで完全に定着しちゃったんだよ。まあ俺ももう受け入れるように心を切り替えたからさ、負け人生のルーズじゃなくてゆるーく生きるのルーズだと思ってるよ。あ、ゆるーく生きるってどんな意味合いか分かる?」
そう問うと彼女はよく分かっていなかったのでニュアンスを説明した。
「そう、ありがとう。たぶんEasygoingみたいな意味ね。なんとなく分かったわ。はぁ。では、私はお家に上がらせてもらうわ」
そう語る真鶴さんの表情にもう憐みは感じられない。代わりに呆れたような表情をしながらも口元に笑みを作って我が家に上がっていった。
(意外と優しいのかもしれないな)
彼女が正しく意味を理解しているか確認した時の意を決した様な表情を思い出して、俺はふとそう思ったのだった。
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