第3話 咖喱の王

お前、もう『中辛』なのか


──重松清『カレーライス』



***


1

 咖喱カレーの王。

 彼がそう呼ばれたのは、今から約十年前、彼が十歳のときである。

 彼は生まれとしては何も特別なことはない。彼は地方都市の定食屋の息子であった。しかし彼が生まれながらに持った反骨心、あるいは虚栄心は、異常と言えるまでに強大であった。

 そんな彼の性質が顕になったのが、小学校五年生のときの野外活動であった。私は当時、彼のクラスメートであり、彼の、いわば決起を間近で目にすることになった。

 野外活動とは、教育の一貫として、キャンプなどを通して子ども達を自然に触れさせるという催しである。実際に参加した子どもはそのまま自然に還り野生化するか、逆に自然に拒絶され自らを人間であると再確認するかである。私は断然後者であった。

 なんにせよ、教育とは言っても、当の子ども達からすれば遊び同然なのだから、大抵の子は野外活動を楽しみにする。

 彼も野外活動のしおりを貰ったときにはウキウキであった。しかし、学年全員が体育館に集められ、先生から説明を受けるなかで、彼は激昂することになった。

 キャンプの定番と言えばカレーである。今回の野外活動でも夕食としてカレーを作るという説明があり、彼は初めは飛び上がって喜んだ。彼の喜び様は、体育館のバスケットゴールに野外活動のしおりでダンクを決めるほどであった。

 彼は生粋のカレー狂であった。将来的には実家の定食屋を潰しカレー屋にすると豪語して憚らなかった。

 体育館を駆け回る彼をよそに、先生は説明を続けた。

「カレー作りの食材は、衛生管理上、学校で用意する。」

 次の言葉によって彼の喜びは、急転直下、憤りへと変わった。


「尚、支給するカレールウはである。」


2

 甘口?このおれが?学年でいち早く中辛になり、今や辛口に挑戦しているおれに甘口を食えというのか?

 ──侮辱された。

 彼は激昂した。

 先生たちには辛いものが苦手な子に対する配慮の気持ちしかないのであるが、彼にはそんなことは関係ない。

 自分には成長しかないと考えている幼い彼、カレーは辛いほうが偉いし大人だと信じて疑わない愚かな彼にとって、甘口を食べさせられることは耐え難いことだった。

 大人になりたい彼、早く大人になってカレー屋になりたい彼は甘口を拒絶するしかないのだ。

 彼は反逆を決意した。お子さまには甘口がお似合いだと侮辱した大人への反抗を決めた。目にものを見せてやろうと、彼の柔らかな脳は回転を始めたのであった。


3

 野外活動の日、私は彼と同じ班になった。私は彼が何か企んでいることに気づいていた。彼の荷物になにやら香ばしい匂いを嗅ぎとっていたからである。

 夕方になった。初夏の夕暮れ、彼は決起した。

 彼はそれが当然といった風に班内でカレー作りの役割を担っていた。私は彼が荷物からなにやら茶色の塊を取り出し、鍋に入れるのをみた。

 私がとがめると。

「こっちの方がうまい」

 といって今度は粉のようなものをパラパラと入れた。何を入れたのか問い詰めると彼は白状した。

「辛口のカレールウとスパイスを少々」

 なんと恐ろしいことを!!私は絶句した。辛口のルウなどいくら何でも無謀すぎる。そんなものを食べたら──

「口から火を吹いて倒れてしまうだろうな。実際おれはパパの辛口カレーを食べて気を失ったことがある」

 彼はそう言って顔を歪めた。自分でも食べられないものをみんなに振る舞おうというのか。お前に人の心はあるのか。私は彼の胸ぐらをつかんでいた。

「勘違いするな。よく見ろ」

 彼の手元には二つのカレールウの空き箱があった。甘口と辛口である。私は彼に説明を求めた。

「甘口と辛口のルウに、スパイスを少々」

 甘口と辛口を混ぜ、さらにスパイスで整える。

「これはおれが開発した究極の家カレー。名付けて中の上辛カレーだ!」

 中の上辛カレー!甘口でも辛口でも、まして小学生御用達の中辛でもない。

「これは新たなるカレーの形。これこそ今のおれたちふさわしいだ。」


4

 玉葱、人参を切り鍋で炒める。同時にフライパンで豚肉を焼いておく。野菜にあらかた火が通ったところで、肉を鍋に移す。水をいれしばらく煮る。

 私は寮生共有の汚い台所を占拠しカレー作りにいそしんでいた。

 彼は今、どうしているだろうか。甘口に怒り、オリジナルカレーを作った彼。先生にばれて勝手なことをするなと叱られ号泣していた彼。しかし班員からはカレーを絶賛され、咖喱の王と呼ばれて照れていた彼。実家の定食屋が潰れ転校していった彼。

 私は彼の中の上辛カレーを食べた。旨かった。彼の背伸びカレーは、私の幼い舌には刺激が強かったが、それでも大人に近づけた気がして嬉しかった。彼のこだわっていたものが少しはわかった気がした。

 彼は今、どうしているだろうか。そして私はなにをしているのだろうか。

 カレーを作っている時間はそれほどせわしないものではない。昔と今と明日を考えるだけの余裕がある。


 野菜の芯まで熱が通ったころにカレールウを投入する。もちろん辛口である。

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