10

ある時は芝生に敷いたシートの上で、ままごとの相手を。

またある時は涙を浮かべた女の子の話を隣で聞いた。

家族のお出掛けに一緒に連れていってもらった事もあれば、二階の窓から一日中外を眺めていただけの日もある。


――ただいま、マリア!


いつからか、その子にマリアと呼ばれるようになった。名前を付けてくれたらしい。

外から帰ってくると、いつも顔を見て「ただいま」と言ってくれる。

朝起きた時にはおはようと。

夜眠る前にはおやすみの言葉をくれる。


毎日寝る前に、ベッドに腰掛けながらその日にあった事を話してくれた。

テストでいつもより良い点が取れた事。

クラスの友達と水族館に行った事。

水族館には水の中を自由に泳ぐサカナという生き物がいて、体を覆うウロコに光が当たるとキラキラ光って綺麗なんだそうだ。


何もない日もあった。

そういう時でも彼女は、お昼に食べたパスタが美味しかったとか、何軒先の家で可愛い子犬が生まれたらしいとか、何気ないものの中から楽しい事を上手に見付けた。


月日は流れ、小さかった少女は大人の女性へと成長し、昔ほど人形遊びをしなくなっていった。

屋敷に出入りする使用人も少なくなり、彼女自身も家にいない時間が多くなった。

それでもおはようとおやすみ、ただいまの挨拶は変わらずしてくれたし、眠る前のちょっとした時間にはお話もしてくれた。


初めはワタシだけだった人形も、父親からのプレゼントや、彼女の手によって段々と増えていき、いつしか屋敷は人形で溢れるようになっていった。

けれどあの子の部屋に飾られるのはワタシだけ。

その事がどこか特別で誇らしくも感じていた。


さらにいくつもの季節が巡って、嘗ては賑やかだった大きな家には彼女一人になっていた。

艶やかだった黒髪は白くなり、瑞々しかった手も節が目立ち皺が増えた。

そして時折、胸を押さえて苦しそうな表情をするようになった。

たぶん、体のどこかが悪いのだろう。

こういう時、すぐ側で支えてあげたいと思うけれど、人形の体では何も出来ない事がもどかしかった。


ある日、彼女がどこからかカメラを持ってきた。

あまり使った事がないのか、三脚の周りを何度もぐるぐると回ってから漸く脚を伸ばす事に成功し、今度はカメラを固定して何度も位置を確かめている。

それが終わるとこちらに来てワタシを腕に抱いた。


――マリア、一緒に写真を撮りましょう。

――ほら笑って。


ここのところずっと疲れたり、浮かない顔をしていたあの子の笑顔を久しぶりに見た。

皺が増えても、髪が白くなっても、笑顔は初めて会った頃から変わらない。

人形が笑う事は出来ないけれど、ワタシも嬉しくなった。

現像した写真は写真立てに入れられて、彼女の部屋に飾られた。

ワタシもお気に入りの一枚だった。


写真を撮って暫くの事だった。

その日彼女は椅子に腰掛け、本を読んでいた。

ワタシはテーブルに座って窓の外を眺めていた。

バサッ。

不意に本が落下する音がして、それに続いて彼女の体も前に傾いた。

あっ、と思った時には胸を押さえて倒れ込んでいて、苦しそうな表情を浮かべていた。


どうしたらいい?

ワタシは何が出来る?

この体では助けを呼ぶ事も出来ない。

彼女がワタシのいるテーブルに手を伸ばした。

ワタシの隣には彼女がいつも、誰かとお話する時に使っている小さな四角い箱があった。

これがあれば助けられる?

でもワタシの手では触れる事さえ出来ない。


お願い。あの子の手の届くところへ動いて。

強く念じた。何度も、何度も。

すると少ししてカタカタと僅かに振動し始め、テーブルの上から落下した。

動いた!もう一息。

再び強く念じると、何かに弾かれたかのように跳んで、彼女の指先に当たった。

やった!届いた!


彼女は驚いてはいたものの、震える指で箱を押して、途切れ途切れになりながらも状況を伝えた。

どれくらいか経ってから、大きな音を鳴らしながら白い車がやって来て、見知らぬ人間が彼女を連れていった。


――マリア、ちょっと離れるけど待っててね。

――お留守番よろしくね。


部屋を出る前、ワタシの方を向いて彼女がそう言った。

早く元気になって帰ってきてね。

それまではワタシがこの家を守っているから。

ワタシとあの子とあの子の家族の思い出がたくさん詰まった場所。

あの子が帰ってくるまで、ワタシが家を守ってみせる。




「……さん、赤幡さんっ!」

「へっ、えっ?」


白枇さんに肩を揺すられながら、急に視界が開けていく気がした。


「あれ?さっきまでテーブルに座って、あのおばあさんが運ばれていくところを見てて、その後この家を守らなきゃって」

「あなた、普段本や映画を観ている時もそうなんですか?」

「何がですか?」

同調シンクロしてたぞ。それもかなりな」

「シンクロ……」

「元々感情移入しやすいタイプなのかもしれませんね。あの人形の見せる思念に深く入り込んでいましたよ」

「え、そんなにですか?」

「まさか無意識ですか。……これは時と場合によっては少々危ないかもしれませんね」


無意識かと聞かれても、自分ではよくわからない。確かに映画を観て泣いたり笑ったりする事はあるけれど、それは別に俺に限った話じゃなく、わりと多くの人にも当て嵌まると思う。


「あの、それよりあの人形は」

「恐らくあちらに」


白枇さんが示した先、暗い通路の突き当たりに、淡く光る扉が一つだけあった。




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