第8話 旅立ちの前夜
竜を退治した少年がいる。
そんな噂が海軍内で広がるのは早かった。
取るに足らぬ噂と思うが、どうやら竜の遺骸がダンプ諸島からヒノモトへ運ばれてくるというのは本当らしい。
実物の竜を手に入れることができる機会は限りなく少なく、さらに退治できたとしても遺体を回収できたケースは少ない。実は遺体回収はこれが世界で七例目という貴重なものであった。
その貴重なサンプルを陰陽寮が独占してしまうことに、軍から発注を受ける民間業者は切歯する思いでいた。
まさに竜こそは人類が得ることのできなかった奇跡の宝庫である。
飲めば三年は年を取らないといわれる竜涙、食せばたちどころに瀕死の病人さえ治すといわれる竜の肝、さらには術者の異能を増幅させる効果の著しい竜の瞳など、戦艦よりも高額で取引されそうな素材が目白押しなのだ。
利益と権力を求める商人たちは列をなして鬼山家を訪ねた。
「竜の研究では陰陽寮が優遇されすぎています。我々民間の活力を入れてこそ研究が進展するというものではありませんか」
「全くだ。頭の固い上層部はその辺がわかっておらん」
「なにとぞ鬼山閣下のお力添えをいただきたく、これはつまらぬ菓子でございますが……」
まるで時代劇のお代官と悪徳商人のような光景であった。
しかし本人たちは大真面目である。
ヒノモト帝国では『竜』の登場以来、天子親政の名のもとに古来から続いてきた鬼にまつわる役職が復権してきていた。
それが近代化で成長した民間企業には我慢がならない。あまりにも前時代的で非効率だというのである。
前時代的オカルトだからこそ竜に対抗できているという事実を彼らは認めようとはしなかった。いずれ科学の力によって、竜も打倒できるはずであると考えていたのだ。
その不満の窓口となったのがこの男、鬼山魁であった。
当年とって三十六歳。現役の海軍少将だが四鬼家のひとつ鬼山家の当主としてはいささか物足りぬ地位であるともいえる。
魁はより高い地位を得るために、民間企業は既得権益に食いこみそれを奪うために、両者は互いに利用しあう関係であった。
「それにしても竜を倒した少年、というのはいったいどこから出た話だ?」
ダンプ諸島の西島には海軍陸戦隊が駐留していたはずである。
海軍の手柄を喧伝する絶好の機会だというのに、妙な噂を立てられるとは、海軍省は何をやっているのだ、と魁は憤慨した。
今の海軍大臣は百目鬼家の分家であったはず。
うまくすれば鬼山家の息のかかった大臣を送り込むチャンスであるかもしれぬ、と魁は内心でほくそ笑んだ。
このあたりの嗅覚だけは、魁の一流どころに負けぬ才であるといえよう。
「せっかく竜を退治したというのに正式な発表もない。何やら妙ではございますな。もしや軍の秘匿研究部隊でも?」
「そんな話は聞いたことがない。そもそも南洋竜の覚醒はもう少し先のことだと見られていたからな」
どうもこの一件には腑に落ちないことが多い。
だからこそ金の匂いがすると、魁はますます興味を抱いた。
「…………少々つついてみるか」
仮初の当主として、いつまでも自分を下にみる百目鬼将暉にも嫌気がさしていたところだ。
多少もめるようなことがあっても構わないと魁は心に決めるのだった。
「明日、海軍から迎えが来るらしい」
夕食のブレッドフルーツ(パンのような食べ物)を噛みちぎって咀嚼したがら、剛三はこともなげに言った。
「お行儀が悪いです。叔父様」
「いや、まあ……いいじゃないか。家族でいるときぐらい」
「帰国したらそういうわけにはいかなくなります。今から慣れておいてください」
思っていたよりも対応が早い、と剛三は思う。それだけ弥助の竜討伐は軍にとって衝撃的なものだったのだろう。 竜の遺骸を確保するために海軍陸戦隊が二十四時間体制で警備にあたっているのも当然だ。
もし内地へあの保存状態のよい遺骸が輸送されれば、日本中がひっくり返ってもおかしくなかった。
弥助がその偉業を達成したことが誇らしく、同時にそれを自分だけのものにしておけないことが寂しかった。
「ごちそうさま。美味しかったよ葉月姉」
「ありがとうございます。坊っちゃま」
夕食の後片付けと掃除をてきぱきとこなし、葉月は家族で最後に風呂へ入る。風呂といっても水風呂なのだが、南国の暑さに火照った身体を冷ますにはちょうどよい。
「ふう…………」
日焼けの欠片も見当たらない白磁のような腕を伸ばして、葉月は頬のほてりを冷ましてため息を吐く。
このところ成長著しい胸が水面にぷっかりと浮いていた。
いつからだろう。弥助の前で素肌をさらすのが恥ずかしくなったのは。
まだこの島に来たばかりのころは二人とも子供で(戦闘力を除く)、日焼けも、いっしょにおふ、おふ、お風呂に入ることも気にしなかった。
そのころの無邪気な肌のふれあいの記憶を思い出して、葉月は再び熱くなった頬をぱしゃぱしゃと水で冷やした。
どうしてこんなに恥ずかしいのか、すぐに顔が熱くなるのか、その答えを葉月は知っていた。知ってはいても認めることのできない思いであった。
「ふう…………格好良すぎですよ……馬鹿」
もともと弥助に才能はあったにせよ、今日のように弥助に大切な女性として庇われ、助けられるというシチュエーションに葉月がときめかぬはずがないのだ。
主人として敬い、手のかかる弟のようにも思っていたが、最近は以前と同じように考えることは難しかった。
ある意味、今日はその戸惑いにとどめを刺されてしまったと言えなくもない。
しかし弥助は鬼山家正統の跡取り。分家の末席にすぎない葉月では身分が違う。日本に戻れば今までのように家族のように話すことさえ不可能になるのは明らかだった。
「忘れなきゃ…………」
そう呟いただけで、自然と葉月の双眸から涙がこぼれる。
いつの間にか自分がこんなにも弥助に惹かれてしまっていたことに、葉月は今さらながら気がついたのだった。
せめて――――せめて弥助の隣に立つことができるくらいの武才があれば。
そうすれば万が一、という夢を見て居られたのに。
ふと、何かを決意した葉月は風呂を出ると入念に身だしなみを整え、弥助の寝る部屋へ向かった。
「起きてますか? 坊っちゃま」
確認のため問いかけるが、弥助が答えるはずがないことを葉月は知っていた。
一度寝てしまうとよほどのことがないかぎり目を覚まさない弥助の習性を、葉月が知らないはずがなかった。
これで殺気や敵意には恐ろしく敏感なのだから、武人というのは不思議なものである。
「本当に起きてないですか? 起きてたら殺しますから」
そんな物騒なことを呟きつつ、葉月は弥助の枕元ににじりよった。
かすかな寝息を耳にして、葉月は興奮と羞恥で震えるほどに身体を熱くさせながら、ゆっくりと弥助の唇に桜色に色づいた自分の唇を近づけていく。
初めてのキスだけは弥助と。そんな乙女心のなせるわざだった。
しっとりとした瑞々しい唇が、互いの熱を伝えあい、しばし葉月は陶然となって達成感に酔う。
――――ふにゃり
そのとき、寝がえりを打とうとした弥助の手が、葉月の胸を鷲掴みにして、声にならない悲鳴をあげて葉月は腕の力だけで昆虫のように後ずさった。
(まさか――――起きてる?)
ごくりと生唾を飲みこみ、注意深く弥助が起きているかどうか見定めていた葉月は、どうやら弥助のが本当に寝ているらしいとほっと溜息を吐いた。
「おやすみなさい、坊っちゃま」
そして葉月が退出し、誰もいなくなった寝室で、弥助はうれしそうに手に残る感触を楽しんでいた。
「86の――――Eか」
弥助の勘が働くのは何も殺気や敵意だけではない。
かつて吉原で女遊びに明け暮れていた弥助にとって、女性のフェロモンというのも、十分目を覚ます理由になるのだった。
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