第6話 竜に侵された世界

 まるで夢から覚めたような覚醒感があった。

 死んだ、と思ったのが、実は夢から覚めた朝だったというような、そんな現実感のない感覚である。

「――――うん?」

 まだぼんやりとした意識のなかで、黒装束の男たちが幼い葉月と弥助を殺そうと襲いかかってくるのがわかった。

 そして弥助の手には、まるで最初からそこにあったように神刀、女郎兼光が握られていた。

 どうして、俺はいつの間に刀を抜いていたのか、俺は死んだはずではなかったのか、と弥助は混乱するままに刀を振る。

 たちまち黒装束の男が二人、胴体を真っ二つに割られて即死した。

 実に見事な刀の冴えであった。これほどの切れ味は、あの名刀長曽根虎徹をもってしても真似できるかどうか。

 神刀は自らの意思で主を選ぶというが、はたしてその力が働いたのかどうか、葉月は行きがけの駄賃とばかりにまんまと宝物庫から鬼山家正当な後継者の証、女郎兼光を盗み出すことに成功した。

 弥助を追放し、ついに念願の鬼山家を乗っ取った叔父は、翌日神刀の影も形もなくなっている宝物庫をみて腰を抜かしたという。

 慌てて影の者に弥助たちの後を追わせると、二人は神刀を手にダンプ諸島へ渡る寸前であったというわけだ。

 見つけ次第、殺して神刀を奪うように命令されていた刺客が躊躇なく襲いかかったのはそういうわけであった。

「ああ、そうか」

 女郎兼光で瞬く間にさらに三人を腰斬した弥助は、自分がかつて仏生寺弥助として生きていた、そして今は別人である鬼山弥助であることを思い出した。

 鬼山弥助として亡き父母に育てられた記憶はそのままに、ただかつて仏生寺弥助として生きていたという記憶が蘇ったのである。

 とはいえ三十余年という長い仏生寺弥助としての記憶は、鬼山弥助という少年の人格と異能にも大きな影響を及ぼさずには置かなかった。

「坊っちゃま?」

「ああ、葉月姉……あとで少し話さなきゃいけないことがあるみたいだ」

 まずはその前に――情報を隠蔽し、ゆっくり安全に逃亡するためにも、ここで一人残らず刺客を殺しておかなくてはならない。

「逃げるなよ。手間になるから」

 はたして暗殺者に狙われているのがどちらか疑わしくなるような台詞であった。

 刺客たちにも戸惑いの色がある。

 たかが子供二人にこれほどの犠牲を出し、また生命の危機を感じるなど彼らの想定にはないことであったからだ。

 弥助の言葉は何の誇張もなく事実であったが、刺客たちにも退くに退けない事情というものがあった。

 たとえ自分の命と引き換えにしてでも弥助を殺さなくてはならない。

 それが闇に生きる者の掟であった。

――――数分後、十数人にのぼる無惨な遺体を残して、弥助と葉月は深夜ダンプ諸島行の連絡船へもぐりこんだのである。




 古来よりヒノモトに鬼と呼ばれる人々がいる。

 鬼山をはじめとした四鬼家が、鬼を名乗るにはわけがあった。

 彼らは等しく、遠い遠い過去に天子から人ならざる力を与えられた鬼の末裔であると言い伝えられていた。

 だが、同時に天子に反抗するまつろわぬ民のなかにも、彼らと同様異形の力を持つ鬼と呼ばれる者たちがいた。

 酒呑童子や茨木童子などがこれにあたるが、そうしたまつろわぬ鬼を倒したのもまた、鬼にまつわる力であった。

 ヒノモトにおいて、鬼とはすなわち、人ならざる異能をもって生まれた者の血そのものであった。

規格外のこの鬼の武力によって、当時の武士は千年余に及ぶ長い軍事政権を築き上げた。

 しかしその長い年月を経て、才能と血筋に多くを委ねなければならない不安定な技術体系は、世界の軍事技術から大きく取り残されていく。

 とりわけ十八世紀以降の急速な技術革新は、ヒノモト帝国をはじめとするアジア諸国に列強による植民地化という悪夢とともに襲いかかった。

 いかに強大な鬼の力も、それが一万人に一人しかいない限られたものであれば、銃を装備した数万の兵には勝てないからだ。

すでに数と機械力がものをいう時代となっていた。

 ついに時の天子は王政復古の号令を発するとともに、鬼の武に頼らぬ近代化の道を模索する。

 そしてヒノモト帝国は、瞬く間に東アジアでもほぼ唯一の近代国家へと生まれ変わった。

 王政復古以降、それまで鬼の武を統括していた名門四鬼家は、近代化の流れのなかで数ある軍閥のひとつに埋没していく。

もはや鬼の血は近代から疎外され影響力を喪失したかに見えた。

――――それが再び時代の流れが変わり、軍の中心へと返り咲くのは第二次世界大戦の終わり間際である。

 プロイセン王国、サヴォイア王国とともに連合国と戦っていたヒノモト帝国は、一九四四年にはすでに戦力の四割以上を喪失し敗戦を間近に控えていた。

 新興国として新たな世界の枠組み(ニューワールドオーダー)を模索しようとした戦いは、圧倒的な大国の国力によって蹂躙されようとしていたのである。

 あと一年、いやあと半年戦争が継続していればヒノモト帝国をはじめとする枢軸国は無条件降伏を余儀なくされていたはずであった。

 その状況を一変させたのは人類共通の敵、『竜』の出現である。

 大戦末期、突如として出現した竜はまずフランク王国南部を壊滅させ、ついでカスティリーヤ王国沿岸をほぼ更地へと変えた。

 次いで『竜』が出現したのは央華帝国の奥地である崑崙山脈と、世界最強と自他ともに認める大国ヴァージニア共和国の南部に広がるカリブ海であった。

 ヒノモト帝国と交戦中であった央華帝国は、背後からの『竜』の強襲によって四川の九路軍が壊滅、さらにヴァージニア共和国もキューバ沖で大西洋艦隊を殲滅され、東西の動脈であるパナマ運河をも破壊された。

 何よりヴァージニア共和国が世界に誇る、最新鋭のアイオワ級戦艦やエセックス級正規空母が、『竜』の前にはおもちゃ同然であることが与えた影響は甚大であった。

 予想外の事態に懊悩したヴァージニア共和国は、遂に大戦を終結させるための秘匿決戦兵器、すなわち原子爆弾の使用を決定する。

 ――これが結果的に最悪の決断であった。

 史上類を見ない原子爆弾の破壊力も『竜』にはなんらのダメージを与えることもできなかったのである。

 にもかかわらず自爆的に原子爆弾を使用し、放射能という目に見えぬ毒で国土を侵されてしまったヴァージニア共和国は、さらに南部の産油地帯を根こそぎ『竜』によって蹂躙されてしまう。

 もはやそこにヴァージニア共和国が大国であった面影は残されていなかった。

 その後の『竜』による戦闘で、空母エンタープライズやエセックス級の機動部隊を主力とした太平洋艦隊まで失ったヴァージニア共和国は、世界中でもっとも巨大な損害を被った最悪の国家となる。

 それでもなお、人類が近代兵器の通用しない『竜』を相手にかろうじて抗うことができたのは、長い歴史のなかで連綿と伝えられてきた非科学的なオカルトの力があればこそであった。

 すなわち、『竜』をかろうじて撃退することに成功したのはプロイセン王国、サクソン王国、そしてヒノモト帝国という、古来からのオカルトの力をまだ残していた国家群であったのだ。

 プロイセン王国のトゥーレ教団や、サクソン王国の黄金の夜明け団と円卓騎士団、そしてヒノモト帝国の四鬼家と土御門家を筆頭とする陰陽寮など、前近代的な裏世界の力が大きい国ほど『竜』に抗う力を残していたのはまさに運命の皮肉であろう。

 かくして欧州の一部とヒノモトは比較的少ない損害で『竜』を撃退、否、犠牲を払いながらもかろうじて追い返すことに成功した。

 政府中枢が壊滅した央華帝国であるが、実は客家を中心に、おそらくは世界でもっとも多くの異能者を擁している。しかし惜しむらくはそれを統率する国家共同体がもはや存在しなかった。

もともと帝国政府と央華共産党の二大勢力が内戦中であり、中央政府の統制力は弱かった。

 そのため央華帝国は今では東京(トンキン)政府を中心に数十の軍閥が割拠する戦国時代となりつつある。

 この大戦で独立を果たした東南アジアのシャム王国やチャンパ王国、クメール王国へはヒノモトから将官級が軍事顧問として技術協力するため派遣されていた。

竜に対抗するためには、既存の軍事予算は削減せざるをえない。とてもではないが他国の治安維持まで面倒を見る余力はヒノモトにはないので、指導者の派遣が精いっぱいというわけである。

 欧州の影響力が低下したために、彼らの植民地であった東南アジア諸国もまたこれを奇貨として、着々と独立の既成事実を積み上げようとしていた。

 それを咎める手段がないほどに欧州の弱体化は著しい。

 プロイセン王国はフランク王国を奪還され、敗戦の瀬戸際まで国土を疲弊させていたし、サクソン王国もいまだプロイセン王国による本土爆撃の復興もままならぬ状態である。

一国で竜を討伐するなど夢のまた夢でしかなかった。

 かくして人類は、一九四五年八月十五日、おのれの生存圏を守るために数々の諸問題を棚上げして同盟を結ぶに至った。

 ――――対竜人類軍事同盟(ADMA)。ヒノモト帝国は敗戦という亡国の危機から、今ではこの同盟の常任理事国としてその中枢に参画していたのである。

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