第98話 【瑞穂】ノイズ×ノイズ

 流れる曲に合わせて歌い、踊り、笑顔を決める。

 何もかも身体に染みついているとは言え、意思の介在しないパフォーマンスに魂は宿らない。

 だから、一本一本の指先にまで常に神経を集中させなければならない……のだが、


(ああ、もう)


 冷房が効いているにも拘らず滴り落ちる汗が煩わしい。

 疲労でパフォーマンスの精度が落ちる四肢が煩わしい。

 そして何よりも、頭の中にこびりつく不安が煩わしい。


(余計なことは考えない!)


 時間は有限で、タスクは山積み。

 ゲームじゃあるまいし、同時並行でクリアすることはできない。

 少なくとも今は、レッスンにすべてのリソースを割り振らなければならない時間だ。

 ツアーは目前。

 にもかかわらず、ファンの前で披露するレベルのパフォーマンスに届いていないのだから焦る。焦らざるを得ない。

 付け加えるならば……遠からずここにアレコレが積み上がって、さらに悩みが増える一方なのは明白。


(こんなところで躓いてはいられません!)


 もっと前へ、もっと先へ。

 はるか高みを目指して、ただひたすらに駆けあがる。

 それが、今、この瞬間。一分一秒が惜しい。


 ノイズが奔った。

 思考に、視界に。

 黒髪の女。

 いろんなところが恵まれている姿。


(忌々しい)


 心の中で舌打ちひとつ。

 脳裏に浮かぶ映像をかき消すために、一層激しく身体を動かして――


「……稀!」


「……ハァ、ハァ」


瑞稀みずき、瑞稀ってば!」


「とまれ、片桐!」


 肩を揺さぶられてカチンときた。

 同時に黒く狭く染まっていた視界に色がつく。

 耳が音を、声を捉える。

 たまらなく不快だった。

 

「……何か?」


 軽く睨みつけた先には同じユニットの仲間がふたり。

 便宜上自分がセンターを務めてはいるものの、彼女たちの能力が自分に劣るわけではない。

 お互いに切磋琢磨して高め合うライバルであり、ともに手を取り合って頂点に挑む仲間でもある。

 冷静に考えてみれば割とおかしな関係だとは思うが……この界隈では特段に珍しい話でもない。

 

「何かって、飛ばしすぎでしょ」


「そうそう」


 そんなふたりが、息を合わせて自分を諫めてくる。

 イライラする。

 アイドルにあるまじき舌打ちをしかけて、やめる。

 イライラする。

 ふたりに心配そうな顔をさせる自分の不甲斐なさに。


片桐かたぎり、今さらお前に言うことでもないが……本番にピークを合わせるために私たちスタッフも調整している。勝手に突っ走られては困る」


「言われなくてもわかってます。私はまだ全力じゃありません。本番に最高の状態を合わせるためには、今この程度の練習に音を上げているわけにはいきません」


 トレーナーの言い分は理解している。

 レッスンはもちろん必要だが、身体は消耗品だ。

 今は若さで誤魔化せるにしても、使えば使うほどに疲労は蓄積していく。

 疲労が増せば成果が落ちる……だけでなく、ケガや病気を始め不要なトラブルを招き寄せる要因にもなりかねない。

 だから、専門のスタッフたちが連携して自分たちをコントロールしてくれている。

 決して自分の力だけでここまでやってこられたわけではない。

 日の目を見るのはユニットのメンバーだけかもしれないが、実際のところは団体戦だ。

 夢は自分たちだけで見るものではない。自分たちだけで見られるものではない。

 自分のために尽くしてくれるみんなで見るものだ。叶えるものだ。

 そんなこと……言われなくてもわかっている。


「心配ごとか?」


「え?」


「瑞稀が入れ込むときってのは、大体そんな感じよね」


「そうそう。現実逃避っぽいの、よくないと思う」


 トレーナーにズバリとやられ、仲間たちにじわじわと詰め寄られる。

 何なら家族よりも長い付き合いの三人を相手に回しては、さすがに不利を悟らざるを得ない。


(これは……ま、まずいですね)


 集中力を欠いた状態で、頭が回らない。

 呼吸は乱れて、身体は火照って汗みずくで。

 迂闊に口を開くと余計な言葉が飛び出しかねない。

 現実逃避。

 まさにそのとおりだ。


『片桐 瑞稀』こと『狩谷 瑞穂かりや みずほ』は、今、抜き差しならない問題に直面している。

 未成年である瑞穂が芸能活動(に限らず仕事全般)に従事するためには保護者の許可が必要で、今の瑞穂は保護者である父と絶賛親子喧嘩の真っ最中。

 原因は自分の成績不振。

 アイドルとしてのそれではなく、高校生としてのそれだった。

 正直、どうでもよいことなのに……昨日に至って軋轢は限界に達した。

 わからず屋の父は瑞穂の芸能活動の許可を取り消すと言いだして、瑞穂がキレた。

 このトラブルについては箝口令が敷かれていて、知っているのは瑞穂を含めて極数名のみ。

 トレーナーはおろか、ユニットのメンバーにも秘密にしている。

 心苦しくはあるものの、彼女たちを交えたところで状況は好転しない。

 余計な心配をかけるだけ非効率的であることは疑いなく、瑞穂は黙って指示に従っている。


「別に……何でもありません」


「はい『何でもありません』いただきました」


「なんかもうお約束って感じ」


「……片桐、本当に大丈夫か?」


 苦楽を共にしてきたふたりは茶化し気味ではあるものの心配してくれている。

 真面目なトレーナーは、バカ正直に心配してくれている。

 だからこそ言えない。巻き込めない。


「何でもありません」


 本当は――なんでもある。

 ありのままに感情をぶちまけていいのなら、泣きたい。

 このまま状況が好転しなければ、ツアーはその第一歩からずっこける。

 それは今の『WINKLE』にとっては致命的で、下手をしたら奈落まで一直線。


(そんなことはさせません!)


 ギリッと奥歯を噛み締めた。

 何も知らない父に邪魔などさせない。

 そもそも不干渉を暗黙の了解としてきたはずなのだ。

 今さらたかが学校の成績だの宿題だの、そんなつまらないことを持ち出す方がおかしいのだ。

 研究室に籠りっぱなしの父は、まったく状況がわかっていない。

 それが堪らなく腹立たしくて――でも、未成年である自分にはどうにもできなくて。


(義兄さん……)


 そっと伏せた目蓋の裏に、仏頂面の義兄ことつとむの姿が思い出される。

 なぜか彼にしなだれかかる馬の骨まで思い出してしまって、胸の奥から衝動的な怒りが込み上げてきた。

 ノイズだ。

 身に覚えのない不快感がある。


(恋人っていつの間に……しかも、あんな、あんなこと……)


 父を説得するために義兄の助力を得ようとしたら、当の本人は女と(自主規制)していた。

 自分が現場に踏み込まなければ、あのふたりは――


(ふしだら、ふしだら、ふしだらですッ!)


 あの馬の骨――忌々しくも見栄えは自分と同レベル――は置いておくとして(必ず決着はつける)、義兄は父と会うと言っていた。

 あの馬の骨もなぜか後押ししてくれていた。

 なぜか。

 わけがわからない。


(『立華 茉莉花たちばな まつりか』と言いましたか)


『片桐 瑞稀』を知っているくせに、『片桐 瑞稀』を前に一歩も引くところがない。

 その佇まいは――かつての義兄を彷彿とさせて、それがことさらに瑞穂の癇に障る。

 あれほどの女(褒めていない)がいつの間にか義兄に寄り添っている姿に、感情の制御が効かない。

 でも――彼女は敵ではない。

 よくわからない女ではあったが、それだけはわかる。わかってしまう。


「義兄さん……」


 大丈夫だろうか?

 勉が父を上手く説き伏せてくれるだろうか?

 瑞穂の記憶にある限り、義兄と父の関係はあまり良くなかったように見受けられた。

 もともと多弁な方ではない義兄と堅苦しい父が相対した時、どのような結末を迎えるか……想像することは難しい。

 ただ、なんとなく上手く行かないのではないかという不安が強かった。

 そもそも義兄は瑞穂が勉強をすっぽかすことを快く思っていない。

 家に帰ったら勉が父の手先になっている可能性は十分にある。


(いいえ、それは……ありませんね)


 そっと首を横に振った。

 昨日の夜、久方ぶりに勉と会って驚いた。

 以前とは比べ物にならないほどに落ち着いていた。

 ほとんど別人だった。

 もちろん怒ってはいたが、あの状況を鑑みれば致し方ない。

 腹立たしいと思う一方で、自分がああいうことをしようとしている状況で家族に踏み込まれたらと考えたら……


(いえ、やっぱり許せません)


 閑話休題。

 勉は変わった。

 纏っている空気さえ柔らかくなっていたように感じられた。

 理由は――言うまでもないし、言いたくもない。

 想像できないほど愚鈍でもない。


 今の勉なら何とかしてくれるかも。

 そういう期待感もある。


(それに、私には他に頼る人なんて……)


『狩谷 瑞穂』としてはともかく、アイドル『片桐 瑞稀』には多くの知己が存在する。

 しかし、その大半はビジネスライクな関係性に留まっていて、今回のようなプライベートに属する問題を相談する相手としては適当ではない。何なら弱みを見せたらすかさず引きずりおろしにかかってくる奴がいてもおかしくないし……その手の輩と直にやり合わなくとも、どこで誰と誰が繋がっているかなんてわかったものではない。

 インターネット、特にSNSが極端に発達したこのご時世、迂闊なことは口にできない。

 頼れるのは――信頼できる身内。

 父の元を飛び出して、真っ先に義兄の元に赴いた。

 その直感は、きっと正しかった。


「瑞稀」


「……何ですか、プロデューサー?」


 いつの間にかレッスンルームに姿を現していたプロデューサーを軽く睨む。

 汗まみれの自分を見せることに恥じることはない。

 ……誇ることでもないが。


「客だ」


「帰ってもらってください。今、忙しいので」


「そういうわけにもいかないと思うけど。一刻を争うのでしょう、あなた」


 拒絶する瑞穂の声に被さったのは、プロデューサーの声ではなかった。

 もっと年嵩の――女性の声。

 瑞穂の声に似ていて、瑞穂の声より力がある。

 その声に、聞き覚えがあった。心臓が止まりそうになる。

 驚きのあまり反射的に身体が跳ねて、ドアの方に視線が向いて――


「お母さん……」


「え?」


 瑞穂の唇が紡いだ言葉に、室内の一同が呆けた声をハモらせた。

 レッスンルームの空気が、一瞬にして凍り付いた。

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