三、放浪者 9


《西暦一八八年 十二月 青州平原国》


 劉備のいなくなった天幕は、まるでが消えたように暗かった。黄巾討伐から半月ほどが経ったある夜、指揮官の鄒靖が、とつぜん劉備を本陣の天幕に召したのだ。

 そのとき劉備は仲間たちと夕食を取っていたが、使いの者の慌てた様子に、厳しい顔で粟粥をかきこみ天幕を出た。青州黄巾の撃退は一時のものに過ぎず、徐州の一派はまだ暴れている。何が起こったところで不思議ではなかった。中華秩序より外れ野に放たれた賊軍けものとの戦に、始終を決定づける境界線など存在せぬのだ。

 残った手下は天幕で待った。張飛も田豫も、お調子者の簡雍すら不安で黙っていた。獣の反乱が起き、琢を出てから一年が経った。こうした放浪や戦いの先に、自分たちはいつか安住の地を手にできるのであろうか。幕内には外を吹く冬風の荒々しい音と、烏丸兵がのびのびと車上穹廬を留めた野営地に放った、羊や馬の鳴き声ばかりが聞こえた。

 一刻(約二時間)ほどが経った頃、劉備は天幕に戻ってきた。

「沙汰があった」

 天幕に入るなり、劉備は静かに云った。

「手柄が認められた。安喜県のに任ぜられる」

「誰が」

 簡雍が尋ねた。

「俺が」

 と劉備は云った。

「お前がぁ!?」

 簡雍が、驚きの声をあげ終えぬ内、

「おい、聞いたか憲和ァ!!」

 劉備の岩のような拳骨が、簡雍の頰にめりこんだ。その場の手下も唖然としていた。暫しののち、我に返った簡雍が怒鳴ろうとしたのにも全く構わず、劉備は小柄な簡雍をめいっぱい抱きしめ、平時の自若ぶりと似ても似つかぬ様子で叫んだ。

「憲和ぁ、信じられるか!? 県尉だぞ俺が! あっはっは!! 親父は郡の役人だった、皇帝の勅任官なんて爺さんの代以来だ! なあ!」

「おめでとうございます!」

 我に返った仲間たちも口々に叫んだ。県尉は県の治安維持を担う軍事長で、封禄は常人の十倍近く、士大夫(高級官僚)層にも数えられる高職であった。無官の私兵の長であった劉備は、とうとう戦功を認められ、めざましい出世を遂げたのだ。

「良かったよ、兄貴」傍らでほっと笑んだ張飛は、騒ぎを聞きつけのそりと起きてきた関羽を肘で突くと、「こういうときくらい祝えよ、あんたもさぁ」

 と口を尖らせた。周囲が不安に劉備を待つ間も、この男は火鉢の前で独り悠々と眠っていたのだ。

「喧嘩するなよ、二人とも」

 子供ではいちばん年長の田豫が割って入る。一年のあいだ共に寝起きし、多少の気心も知れた彼ら少年たちがそうしていると、まるで本物の兄弟のように微笑ましかった。それを見て劉備は明るく野次った。

「長生がいなきゃこの手柄も無かった。そいつも祝っといてやれ」

「知るか」

 関羽は吐き捨てた。北の方言であったから意味は知れなかったに違いないが、それは彼が人との会話を面倒がるとき、いつも口にする決まり文句のようなものだった。

「ならば。賛辞は俺が貰っておくぜ、相棒」

 と、機嫌のよい劉備が笑いかけても、その表情は動かない。張りのある首すじに刻まれた入れ墨だけが、幕内の灯に照らされて、息づくように揺れていた。

 烏丸兵を率いてしばらく経つと、関羽は己の身体に獣の紋様を刻ませた。それは彼が烏丸の一派に溶け込むためでも、烏丸に一目置かれるためでもないだろう。これまで生れつき人から別たれていたこの若者は、ようやく己にとって己が何であるかを掴んだのだ。劉備にはそう思えた。

 蛮胡けものの伝統である入れ墨は、中華においては嫌厭される。『親に貰った身体に傷を付けるな』という儒の教えに反するためだ。今では野蛮だと髠刑こんけい(髪を剃り罪人を辱める刑)に置き換えられてはいるが、昔は斬首や鼻削ぎと並び罪人に入れ墨を科す刑もあった。だからこそ関羽の身に刻まれた紋様は——“外”の生き物である彼にとって、それが咎の証にならずとも——彼が中華の文明から逸脱した生物であることを、何より雄弁に物語っている。

 彼の胸元の狼は、ふとした時、本物の狼のように吼えるのだ。

——俺は俺だ。その聖域縄張りを決して侵すな。

 と。

 彼の率いる烏丸兵もまた、山羊、狼、羊や馬などの入れ墨を、多く身に刻んでいる。そこに中華と別たれた己の聖域を作っている。烏丸と関羽は同じものではないながら、よく似た気風を纏っていた。それが何であるのか、劉備には分からない。ただ誇り高く美しいものだ、と思う。そうして入れ墨の獣が生きていることと、己の指輪が確かな命を持っていること。劉備にはとても似ているように思えた。

 劉備は変わらず烏丸の生き方に美しさを覚えていたが、彼らの文化に興味は無かった。だからと言って格式ばった中央のように、それをやめさせようとも考えていない。劉備は彼らが伝統的な暮らしを送るためできる限りの譲歩はしたし、行軍に家畜を連れて行くのも受け入れた。戦利品の分配や罪人の裁きにも干渉しなかった。全て小帥の老人が取り仕切り、それを関羽に補佐させた。漢人と同盟を組んだというだけで、彼らは太古の烏丸そのものだった。鎖に繋がれることのない、強く美しい獣だった。

「昔はな。聖王が現れる前触れに、岐山きざんで鳳凰が鳴き、黄河から八卦の図を背負った竜馬が出でたのだという。俺はそいつが、お前なんじゃないかとさえ思ってる」

 劉備は、関羽の肩にぐっと手を置き、彼へ顔を近づけると

「お前は、鬼だ」と、幕内のを背負って、囁くように云った。「俺の、鬼だ」

「俺は、俺だ。誰のものでもない」

「それでいいさ」劉備は笑った。「俺はな、俺とお前は、あくまで対等だと思ってる。烏丸と同じ、盟友のようなもんだ」

 この並外れた精神と膂力を有したけだものが、他の手下のように自分へ仕えるとは思えなかった。させたところで意味もない。この美しい生き物は、その神秘を保ったまま自分の隣にいるべきなのだ。

 垂れ幕の向こうにある闇が騒がしかった。隣の陣地に野営する烏丸兵たちのうごめく気配、彼らの引き連れた家畜の鳴き声、漢人連中の話し声などが夜風に乗って流れてくる。劉備が仲間を連れ立って外へと出ると、数百人の手下が高揚し幕の周りを囲んでいた。誰かがすでに沙汰の話を広めていたらしい。劉備は勝ち誇るように、無言で拳をあげ彼らに応えた。歓声があがる。連中の総じて身につけた青い隊証が、夜闇のなかにひらひらと踊って鮮やかだった。

 その光景は、一年前の戦の後によく似ていた。しかしここにはもう敗北の焦燥はないのだ。劉備は下ろした己の手のひらをじっと見つめた。こみ上げてくる高揚の感触を確かめるように、指輪をはめた方の拳を握る。

「——県尉として役目を全うし続ければ、いずれは県令に昇進できる。そうすりゃ取り戻せる。いつかは、爺さんの、あのを」

「それがお前の、目的地かい?」傍らで聞いていた簡雍が云った。「なんだよ。もったいないし、後ろ向きだな。俺も初めは、県令になんてなれっこないと思っていたがさ。こんな光景見せられちゃあ、期待せずにはいられねえよ。お前なら望めばもっと上へ行ける。県令どころか、将軍にだって、それこそ天子にだってなれるかもしれんよ。昔、俺たち近所のくそガキを集めて、得意げにお前が語っていたようにさ」

「昔の話だろ、忘れろよ」劉備は多少ばつが悪くなって云った。「中央のことなんざどうだっていい。俺が導くのは、俺の民だけで充分だ」

「導く」手下の一人が云った。「俺たちを、ですか」

「そうだ」

 劉備は頷いてから、

「こんな世でも。人間が、永遠に生きられる方法を知ってるか?」

 と両手を広げて、数百人の手下へ語った。放浪の末に官位を得たゆえの安堵であろうか。いつもより饒舌になっている自覚はあった。

 手下は皆、問いに答えず黙っている。答えを知っている人間もいるが、劉備の口から聞きたいのだ。劉備はまたふと笑い、彼らの望みに応え揚々と云った。

「天界に上って、羽人(仙人)になるのさ。中華のずっと外にある、崑崙山こんろんざんの門を通ってな。そこは聖域で、全ての命の正しい在り処だ。そこに至れば人はあらゆる苦しみや、この世の妄執から解き放たれるんだという」

「でもよ、頭」兵士の一人が声をあげた。「羽人ってのは、聖人だ。聖人ってのは、選ばれた人間にしかなれんのだろう?」

「そうだな」別の兵も云った。「崑崙山の場所は、誰も知らんしよ。何せ“外”だ」

「お前たちは聖人になれる」

 劉備は迷わず答えた。

「本当か?」

 また、誰かが訝しげに云った。劉備は男らしく、にっと笑ってそれに答える。

「俺を信じろ。聖人ってのはな、私心を持たず、気高きものと一つとなった時なれるもんだ。俺は貴人になれると預言を受けた、生れながらの無冠の王だぞ。俺の目指す道は正しい。俺の行いは気高く尊い。お前たちは俺に従うたび、聖人に着々と近付いていくのさ」

 そうして劉備は天を仰ぎ、

「崑崙山への路は必ず、俺の目指すあの荘園の、失われた聖域の、その向こうに繋がっている」

 と云った。藍色の絹のようにつやつやとした天球に、銀粉を吹き散らしたような冬の星々が輝いていた。

「まあ、そういう話は置いといて、だ」簡雍が横から云った。皆の緊張が和らいだ。「やるんだろ、今から。これからおめぇがいったい何を云いだすか、分からんような義兄あにきじゃないぜ?」

 劉備はふっと笑んだ。

「ああ——ここへ戻る途中に、烏丸の爺さんへ沙汰の話をしに行ってな。今後も同盟を続けたいと伝えたら、祝いに羊をいくらか殺してくれるらしい」

「祝宴だぁ!!」どっと周囲で騒ぎ声が起こる。「肉なんて食えるの、いつぶりだ!」

「俺、美味い肴作るよ、兄貴!」

 張飛がそう云って眼を輝かせ、人だかりからとび出、烏丸兵の陣地へ走って行った。仲介役の田豫が急いで後追い、烏丸隊の副長格である関羽も面倒くさげに歩いて行く。劉備は口元に片手を添えて、張飛の小さな背に呼びかけた。

「向こうの女どもに喧嘩売るなよ、張飛。礼を尽くせ!」 

 張飛が振り向くと、

「劉玄徳の麾下として、恥じるところがないように、だろ。いつも耳にタコができるくらい聞いてるぜ!」

 と勢いよく云った。簡雍や皆が吹き出した。将来への希望に満ちた笑いだった。

 その後、同盟継続の祝いに烏丸の供した少しの馬乳酒と肉だけで、一団は百年に一度の祭りのように騒いだ。烏丸も一緒の宴だった。さすがに両者入り乱れて同じ羊を喰ったり、ひとところに集ったりするようなことは無かったが。それでも烏丸と劉備の手下は、同じ空間で祝い騒ぎ、この先の暮らしに目処がついた喜びを分かち合ったのだ。

 劉備はその輪の中心にあって、焚き火の前に座し、烏丸の一人から借りた秦琵琶を機嫌よく奏でた。それは円形の平たい胴に長い棹と四本の弦がついた楽器で、元は万里の城を造るさい、動員された北狄たちが漢土にもたらしたものだった。北の出の劉備にも親しみ深いが、雅楽に使われるような中華の正式な楽器ではない。劉備はそれを心の赴くままかき鳴らした。漢人のための音楽でも、烏丸のための音楽でもない。ただ自分のためにそれを奏でた。

 やがて、簡雍がしらべに合わせ歌いはじめる。泥酔して何を云っているのか分からなかった。あまりに音を外していたせいか、烏丸が笑い、全く別の歌をそこへ重ねた。手下も自由に歌った。烏丸は烏丸の歌を歌い、漢人は漢人の歌を歌っていた。だが無秩序ではない。彼らは皆、劉備の弾く音に合わせて歌っているのだ。

——そして、歌わない男がいる。

 劉備は棹を押さえる指をすべらせ、遠くに独り座す関羽を見た。古人は云う、人は音楽と一緒に生きるものだと。歌わない男はやっぱり鬼だった。しかしただ一人、この場で関羽が歌わぬからこそ、漢人と烏丸の歌の衝突は起こらない。その空白にこそ、聖域ちからは生れる。

 関羽は、壁になるのだ。劉備は想った。漢人の中の鬼として、けものの中の狼として。

「龍は死せず」

 劉備も歌った。


《大風起り雲流れど

 龍は死せず

 飛揚し汾河ふんがを渡り

 また天にかえる》


 戦が起こった、中央軍ができた、牧ができた。世界はめまぐるしく変化して、生きとし生けるもの全ての魂を置き去りにしようとする。

——それでも、変わらないものがある。変わってはならぬものがある。

「大丈夫だ」

 どうどうと巡り、流れ、夜が白んでも尽きることのない黄河の渦のような歌声の中で、劉備はこそりと呟いた。この先たとえ何があろうと、関羽が関羽である限り、自分も無冠の王として、誇りの道を失わずいられる。

 あの男はその旗印だ。俺の鬼神なのだ、と思った。

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