三、放浪者 6
《西暦一八八年 八月 後漢
開けた森に立つ
姓を曹、名を操、あざなを孟徳。三十四才。若くして隠居の身である。生家の沛国曹氏は前漢より続く大豪族であるが、その当主
あぜ道の向こうに屋敷を抱く里が見え、近辺の田畑では柔くなった雨季の粘土を数百の小作人たちが耕している。孟徳は程なく
「おぉい」と、正面の本堂へ大きく呼ばう。「おぉい、私だ。帰ったぞお!」
堂の向こうにある中庭の方から、従父の
因みに、父が買った官位は皇帝に次ぐ三公の大尉で購入額は一億銭(約五百億円)。三公になるためそんな大枚を費やしたくせ、戦は止まぬし朝廷はごたごたしているし、宮廷の植木が倒れたとか、落雷があって洪水があったとか、星の位置が乱れ天がお怒りになって鬼が生まれたとか、そんなこんなで危険を感じ、半年も経たず辞職して戻ってきた。父上ずいぶん無駄な買い物したよなぁ、だからあれほど止めたのに。というのが、孟徳の率直な所感である。
しばらく黙っていた従父が、やがて呆れた様子で口を開いて、
「なんだ、その格好は」
とこれまた呆れた口ぶりで云った。無理はない。大豪族の倅であるくせ風格皆無の格好であった。御曹司らしく顔立ちは穏やかで上品であるが、冠も被らず髷を白い布で包み、泥だらけの袴を膝下までまくり上げている。上等な薄い柑子色の着物と、袖無しの柿色の上着の裾にも泥が跳ね、もはや地主の豪族というより近所の悪童じみた様相であった。それがまた、ぼさついた髪を適当にまとめ無精髭を生やした、身の丈七尺(一六〇センチ)にも満たぬ威厳ない見目と合わさって、どうにも抜けて見えている。
「いやあ。沼にはまりましてな」
孟徳は苦笑いした。
「は?」
曹瑜が目を丸くする。
「天気が良いんで詩でも書きたくなりましてなあ。こればかりは文人のさがというか」孟徳は構わず、後ろ頭をぼりぼりと掻いてへらりと笑った。「紙と鉛筆(鉛の芯)片手に森を散策していたところ、雨上がりの沼にはまりまして。周りばかり見て足元を疎かにしていたとは。いやあ。兵法家としてお恥ずかしい限りです。アッハッハァ〜」
「かつて世の人々は、若き日のおまえの才覚を“非常の人”なんぞと語ってもてはやしたものだがなあ」従父はそう云って額のしわを揉んだ。「なるほど確かに常ならざるものだよ、おまえは。私にはまるで理解ができん」
従父はそうしてため息をついたが、やがて何か思い出したように
「そうだ、孟徳」と顔を上げた。「
「はて、本初が?」孟徳は目を丸くして云った。「そんな話は届いておりませんが」
「うん、先に私も謝られたよ。急に参って申し訳ないと。いやあ、さすがはこの国随一の名門の出、懐の深いお方だなあ。初対面で無官の私にすら、己の父に対するように接される。おまえと違って立派な方だよ」
「そうは仰られても」孟徳は口を尖らせ肩をすくめた。「私にまるで威厳がなく、彼に大した風格があるのは、
従父は何か云いたげだったが、孟徳は更に付け足して
「まあ、ともかく私は急ぎますゆえ。おじ上はこいつを腐らんうちに厨房に運んで、酒の肴の炙り肉にでもしておいてください。じゃ」
と云うなり、血潮のしたたる兎の屍を従父に投げ渡しざま駆け出した。ばたばた走る孟徳の背後で、ぎゃぁっ、と耳をつんざくような従父の悲鳴が、屋敷の庭にこだました。
『政界に疲れた、二十年経ったら仕官する』
孟徳がそう宣言したのは、かれこれ二年以上も前のことだ。
それまで忙しない日々を送ってきた。十代の頃は放蕩三昧していたが、師に性根を叩き直され二十才で孝廉に上った。都の北部尉(県の軍事官)となり違法者を厳しく刑殺したが、それが皇帝の寵愛を受ける宦官の叔父で都を追い出された。親戚のごたごたに巻き込まれ罷免されたのち議郎(政治学者)として呼び戻され、政情を非難する上奏もあげるが通らない。黄巾鎮圧に功を上げまだやれると思ったが、次の赴任先で心が折れた。邪教汚職を取り締まり、官吏の八割を罷免して怪しい祠を全て破壊したところ、郡中から猛反発に遭った。全てを放り出し、病を理由に隠棲した。
思えば孟徳十二歳の頃、
ここまで話がこじれると己にできることは何もない。孟徳はすっかり匙を投げた。目先のことに集中するのは得意だが、物事の後先を考えるのは苦手なのだ。三つ巴の政争のどこにも加担したいとは思わない。孟徳自身、儒者の派閥内で職を得てはいたものの、父が宦官
宦官の孫に生れたことは、あまり引け目に思っていない。祖父は四代の皇帝に仕えた宦官であったが、常に沢山の人に囲まれていた。皇后府を取り仕切る宦官の最高位、
そんな曹騰の推挙した豪族の一派に、師の
祖父は男のしるしを失い儒教に背く宦官となったが、宦官として真っ当に生きた。その人の輪は孟徳にも受け継がれ、かけがえのない遺産となって今に活き続けている。世の中には、外聞や意地などよりももっと大切なものがある。だから孟徳は、興味の赴くままあらゆることを気まぐれに学んだ。詩を詠み碁を打ち、古今の兵書を編纂して『
世の中には思い通りにいかないことも多くあるが、それならそれで、楽しみようも多くある。孟徳は、人生を楽しんでいた。
孟徳がどたばた客間に駆け込むなり、振り返った
「随分とまた、変わった格好だな」
動ぜず呆れたように云った。窓から差し込む夏の日差しに、蝉の透かし彫られた冠が煌めく。孟徳とは真逆の、威厳ある見目の男である。象や鳳凰の描かれた焦茶の袍を恰幅よい体躯で着こなし、黒々とした髭と力強い
しかし孟徳は、
「いや、すまんすまん。山に出ていた」と、そんな袁紹へへらへら謝りながら「一服、いいかな?」
と、窓明かりを指して口にする。九才年上の兄貴分だが、改まった言葉遣いは要らぬと云われていた。
「火を点けたら、座れ。話がある」
「はぁ」
孟徳は窓辺に寄り腰の革袋から煙管を出した。角度を調節しながら
袁紹、あざなを本初。党錮において宦官に抗った名士の一人だ。四代連続で三公を輩出した後漢随一の名家の出だが、党錮のしばらくのち野に下り、契りを交わした仲間を率いて自ら士大夫を救出して回った。そうした士大夫たちは、黄巾の乱を期に政界からの追放が解かれるまで在野に暮らし、仲間内で人物評価を繰り返して派閥を固めた。孟徳を“治世の能臣、乱世の奸雄”と評した名士許劭は袁紹と同郷であり、師と共に古くから孟徳を評価した名士
見事な縁故社会だが、仕方がないのやも知れぬ。孟徳は煙管をふかし袁紹の正面に腰を下ろした。どこぞの名士が誰それを評価した、評価された人間が今度はその名士の子を引き立てた、中華の人間関係というのは、得てしてそういう風に繋がっていくものだ。
「孟徳」
上座に座した孟徳へ、袁紹は性急に切り出した。
「
「なんだ、いきなり」孟徳は顔をしかめた。「あんなもの、もうごめんだ。どこぞの誰かがどうにかして、今の政情をまるきり変えでもせん限り、私は隠居を満喫するぞ」
「男として、その打破を己が手で為し遂げるつもりはないのか」
「今までさんざ上奏文を送ったが、陛下の足元にも上がらなかった。もーう嫌だ」
「国家の大事だ。獣が中華の土を荒らしている」
「勝手にしてくれ」
孟徳は煙管を吸い上げそっぽを向いたが、
「あ、そうだ」一言云うと思い出したように「隠居といえばだ。見てくれ本初。余った時間で近場を回ってな、一帯の地形図を書いてみたのだが」
と、鼻から青い煙を抜いて、得意げに一枚の図を広げて見せた。袁紹はそれを、迷わず勢いよく破り捨てる。
「ああ〜……貴重な紙が……」
「貴様。この戦多き時代に、図師の真似事をしてくたばるつもりか!」
「いやあ、詩人や楽師や、それから薬師の真似事もしているぞ」孟徳は袖から揚々と、香草を詰めた香り袋を取り出す。「ほら見てくれ、この香り袋も自分でだな」
袁紹はそれももぎ取り床へと叩きつける。そうして意気消沈する孟徳を尻目に、孟徳の屋敷の筵をだんっ、と叩いて立ち上がると
「国家の‼︎ 大事なのだ‼︎」
と、孟徳の耳を引っ張り無理から立たせて怒鳴りつけた。自慢の大音声に、客間の古柱がびりびりと揺れる。
「あだだだだっ、本初、本初‼︎ 耳が! 耳が裂ける‼︎」
「それで貴様の気が変わるというなら、この場で耳の一つや二つもいでくれるぞ‼︎」
「そういうところだぞ本初ぉ‼︎」孟徳はやっとの思いで袁紹の手から逃れると、耳を押さえて後ずさり、哀れな涙声で云った。「それが人に物事を頼むときの態度か⁉︎ 昔、周の文王は
「そうか」
袁紹は腕を組み、憮然とした表情をぴくりとも動かさず云った。
「であらば殺す」
「は?」
「お前が来ぬと云うなら、ここで殺す。お前の細君や父君へのけじめとして、俺もこの場で首を斬る。それで手打ちよ、
「まったく手打ちになっていない」
孟徳は呆れて云ったあと、
「だがなあ、どうしろと云うんだ」心底困り果て、また座り込んで煙管を咥えた。「
「だから俺が、ここへと来たのだ」
先までのいかめしい顔とは一変、その言葉を待っていたと云わんばかりに、袁紹は胸を張ってにやりと笑った。
「はァ」
「朝廷にお前の才を説いて来た。それはもう、存分にな。近々お前に校尉の位が与えられる。この国初めての、中央軍の校尉の座がな。あの腐れ皇帝め、ようやく重い腰を上げよった」袁紹は興奮に掠れる声と共に、拳を固く握って云った。「我らはやっと、世を建て直すための、大いなる一歩を踏み出せる」
「なんだ」孟徳は素っ頓狂な声と共に起立した。「それを早く云ってくれ、本初——おぉい、おぉい、誰かいないか」
「なんです。
奥の戸を開け現れたのは、妻の
袁紹は二人の姿を認めるや微笑み、いち早く丁寧に頭を下げた。身内には荒っぽいが、世俗には謙虚な彼のことだ。女だからといってぞんざいに扱ってよいとは思っていないのだろう。二人もまた丁寧な仕草で礼を返す。孟徳は卞姫に笑って手を振ったが、丁夫人にきっと睨まれ亀のように首をすくめた。
「今から出る」孟徳はぎこちなく苦笑いし、遠慮ぎみに丁夫人へ云った。「門の前まで馬を引かせてほしい。旅支度も」
「いずこへ行かれるのです」
「都だ」
「まあ、呆れた。ここから都まで、八百里(三二〇キロ)以上もあるのですよ。それをよく、近くの野山に狩りに出るような調子で仰いますこと」
「奥様。お気持ちも分かりますが、そうお怒りにならずとも」微笑んだ卞姫がおっとり仲裁し、「侍御史がいらっしゃったということは、朝廷からの御用でしょうか?」
と、袁紹の方を振り向いてゆったりした声色で問うた。袁紹も拱手し頷いた。
「いやはや。お二方とも孟徳めには勿体無いほど、才色兼備なる女人であられる。お察しの通り。近々、孟徳はまた官位を賜ることになるでしょう。それも武官です。“獣”が、北で暴れているのですよ」
「まあ、獣が」
丁夫人が、袂で口元を隠し顔をしかめた。
「そう案じめされるな。良い兆しですぞ、奥方。戦働きをさせれば、この男はかの
「まあ、そういうことだ」
袁紹の助け舟をこれ幸いと、どたどた出て行く孟徳へ、
「支度くらいは落ち着いてやれよ」袁紹は床上に取り残されていた香り袋を拾って投げ渡した。「よい香りだ」
「だろう?」
「ああ。行きしな、配合のほどを聞かせてくれ。新作の詩についてもな」
袁紹は腰に手をやりにっと笑った。せっかちで、強引で、豪放すぎるきらいのあるこの男だが、やはりこういうところで度量が広いから慕われるのだろうなと、孟徳は忙しなく駆け去りながら、他人事のように考えた。
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