三、放浪者 2


 冷えた暗闇の底で息を吸った。泥濘で喘ぐ鯉にも似ていた。

 それが暗闇などではなく、小灯りの点った曲長用の天幕の、仄暗い内空間であることを劉備が知ったのは、やはり溺れるような浅い呼吸を数十回も繰り返して、それがようやく落ち着き、意識をある程度取り戻してからのことであった。

 劉備はぼぅっとした面持ちで、青白くなった瞼をしばたかせ、濡れた髪を頰に張り付かせたまま首だけ左を向いた。全身が、特に左の脇腹が痛んで仕方がなかった。寝かされていたのは粗末なむしろの上で、上体は恐らく——上に己の衣や、鹿皮で誂えた誰かのかわごろもが被せられて見えなかった——裸だった。

 辺りには濃い血と、血だけでない、生き物のもっと奥深くにあるものの奇妙な臭いが漂っており、それは劉備に、生家の厨房傍にあった、奴婢の出入する獣の屠殺場を想起させた。筵の周りに赤黒い布切れが散乱し、少し離れて置かれた木の盆が薄灯を吸って橙色に光っていた。盆上にはやじりが二つ、冗談のような量の血の中に浸っていて、血は黒く固まっていたが、黒い筋が何本かかわごろもの下に続いていた。劉備にはそれが己の血なのかは分からなかった。

 漠然脇腹を探ろうとしたが、左腕も酷く痛んだので代わりに右腕を上げる。手に何かが触れ、見ると張飛が丸くなって傍に寝ていた。額の傷から垂れた血が泥と混じって乾いていて、顔色全体が土っぽい。 

 頭巾を脱いだ頭を撫でる。人気のない空間の中で、それだけが温く生き生きとしていた。その感触が劉備には酷く懐かしかった。ここ暫くは人に囲まれ眠っていたが、張飛を拾った頃はまだ琢に居て手下も少なく、こうして二人だけで寝ることも少なくなかった。それを思い出していたとき

「なんだ、死ななかったのか」

 と突然の声があった。第三の声の主は、二人きりに思えた天幕の、灯りの届かぬ端の方に、黒いかたまりのように座り込んでいた。影はやがて立ち上がり、引きずるような足音と緩慢な動きで近寄って、光の下で大刀を携えた傍若な子供へ姿を変えた。

「赤龍の末裔でも、脆いのは他の人間と同じなのか」

 と関羽は云った。それは思ったことを口にしただけの言葉で、恐らく他意は含まれていなかったが、冷たい声色が劉備を微睡みから肌寒い夜の天幕へと引き戻した。

 張飛と眠ったあのあばら家も、今ではもう失せてしまっていることだろう。劉備はまずそのことを想った。この乱で幽州全土が獣の蹂躙を受けたのだ。広陽の幽州府(州役所)は落とされ、琢の楼桑村ろうそうそんも崩壊し、逃げたか死んだか母や叔父の行方も知れぬ——と聞いたのは、劉子平から借りた兵を調練しているさなかであったか。

 そうだ、劉子平に兵馬を三百借りた。軍への推挙も受けた。そして……。己の身に起きたことを劉備はようやく思い出した。と云っても断片的で、意識はまだ混濁していた。関羽が見下ろしている。朧げな意識の中で、彼の刺すような視線だけが、劉備の心を氷の針のように穿っていた。劉備は筵に肘をつき身を起こすと、ほつれた髪の間から関羽を睨みつけ

「脆か、ねえよ」

 と云った。声は嗄しゃがれていた。肩から衣が滑り落ちて、それで跳ね起きた張飛が

「兄貴」

 と甲高い声で呼んでから、急いで下衣を劉備に羽織らせた。それから外へ向かって人を呼ぶ。騒ぎを外に聴きながら、これまで何があったのか、劉備は張飛に途切れ途切れ問いかけた。張飛は慌てて頭巾を被り目脂を手で擦り落とし、劉備の傍に跪くと、時折痛みに呻く劉備にも聞こえ易いようゆっくりと語り出した。



 あのとき咄嗟に劉備を死体の山に押し込んだ手下らであるが、やはり退路は無く玉砕覚悟の抗戦を続けたのだという。暫くすると体制を整えた青州軍が引き返して来て、数で劣る烏丸は反撃を避け散って退いたので、生き残った者たちは虫の息の劉備を何とか車に乗せると、ひとまず陣営へ運んで来た……張飛の語ったのは、そういうあらましであった。

「長生が暴れ回ったのが、時間稼ぎになって助かったんだ。好きにやっただけだろうけどさ、こいつにとっては」

 おびただしい傷を負ってもぴんぴんしている関羽を振り返り、呆れたように張飛は云った。関羽は珍しく噛み付かなかった。言葉が分からぬながら、張飛の己への物云いに以前のような刺々しい響きがないのを感じ取ったのかもしれない。張飛は関羽を認めたのだろうか、と劉備は靄がかった頭の隅で考えた。それとも諦めただけだろうか。

「それから烏丸の方も、どうも纏まっていないようだったな。進んで動いてない連中もいたみたいで。だってあいつらが一斉に襲って来たら、俺らひとたまりもないはずだぜ?」

 緊張が緩んだか、気遣いで演じているのか、どこか明るい張飛の声を聞きながら、劉備の頭はほとんど別のことを考えていた。散ったとは云うが、素早い一撃離脱を繰り返すのは烏丸の得意戦法なのだ。そうして味方の被害を最小限に留めつつ、巻狩をやる狩人のように敵をじわじわ消耗させてゆく。散ってもまたすぐ集って大軍になることは見えているし、騎兵の被害が大きい現状では掃討戦に持ち込むのは難しいだろう。

「俺は」劉備は云いかけて呻いた。「どのくらいくたばってた」

「分からない。俺も、みんなも倒れて寝てたし。漏刻ろうこく(水時計)なんてここには無い」

「無理ねえよ。満身創痍だぜ、どこもかしこも」

 申し訳なさそうに肩をすぼめる張飛を庇うように、天幕に入って来たばかりの簡雍が云った。田豫も一緒だった。張飛と同じく二人も傷だらけで見るからにくたびれ、田豫の方は矛を支えに右足を引きずっている。

「兵は」

「失ったのは、少なく見積もって……二百ほどです。子平殿から借りた兵の多くが逃げ、中山からの兵にも、死者が十数……」

 田豫の声は暗かった。隊長として惨状を目の当たりにした以上、張飛のように明るく振舞うことはできないのだ。だがそれでも彼の報告はしっかりしていて、傍でしょぼくれる簡雍の方がよっぽど頼りなさげに見えたから、劉備は

「しょげるな」と強い語気で云い聞かせた。「死んだのは痛いが、逃げたのは穀潰しだ」

「でもよ」

「着いて来れない奴は、置いていくんだ。兵糧が浮いて助かった、そう思え」

 今度は田豫も青ざめた。張飛は唇を真一文字に引き結んでいた。簡雍が大きな口をあんぐり開いて閉じてを繰り返し、何か云おうとした後

「そんなに血が足りねえのか、おめぇ」一周回ってぎこちなく劉備を気遣い出した。「まともじゃねえ、頭がおかしくなってるよ」

「まともだ、俺は」

 こめかみを押さえ、酷くなる頭痛に歯を食いしばって劉備は云った。一旦ましになりかけた調子が、喋った所為でまた悪くなってきていた。頭が回らない。視界が霞んでいる。まともなのか、果たして己にも分からない。ただ今ここで頭を垂れてはいられないと、それだけを強く思っていた。

 戦えぬ私兵に居場所は無い。このまま戻れば劉子平に見放され、何れは手に余すと殺されるだろう。援助を得続けるためには転戦し、劉子平の荘園を胡の略奪から守るくらいのことはせねばならない。そして何より、男としての意地があった。荘園を去り、張世平の元からも出で、何も遺さずただここでごみのように野垂れ死ぬことだけは御免だった。

「昔」

 突然に、劉備は語り出した。

「鬼は居る、と云った人間がいた。居ると信じた奴が居る。だから居るんだと」皆黙っていた。とうとう気が狂って意味の分からぬことを語り出した、そういう風に思われているのかもしれない。「同じことだ。俺が折れなければ、負けたことにはならん。だから胸を張っていろ、お前達も」

 劉備は膝の間で指を組み合わせ目を瞑った。次に顔を上げ三人の顔を見回した時、彼らの中にあった揺らぎはその顔から消え失せていた。頰を赤らめ、鼻孔を膨らませて息を吸い上げる簡雍へ、劉備は今度は彼を落ち着けるように

「何があった」

 と、静かに問うた。

「えっ」

「わざわざ隊長二人で来たんだ、何かあったんだろ。でかい報せが」

 簡雍は困ったように田豫と顔を見合わせ、瘡蓋だらけの腕で頭をぼりぼり掻いた後

「さっきな。烏丸が、投降の使者を寄越してきた。お前に」

 そう、劉備へ向けて云った。



「投降したいのは一つの邑落ゆうらく(部落)で、数は百と六十くらいだと。おめぇの今の状態を、向こうが知ってるかは分かんねえ」 

 簡雍の報を聞いても、劉備は黙っていた。確かに驚きはしたのだが、動揺を人に悟られるのは嫌いだったし、そも具合が悪すぎて咄嗟にものを云うことができなかったのだ。

「おかしいだろ、憲和兄」張飛が立ち上がって沈黙を破った。「騎督は死んだけど、従事は生きてる。何で兄貴に使者が来るんだ」

「非公式の会見、ってやつらしいけどよ」

「それでもだ。俺たちはその、退いたんだし。向こうは散ったが有利なままだろ。変な狙いがあるとしか思えないぜ。遼東のじゃないが、兄貴は広陽の烏丸とやり合ってた。恨みも買ってるかもしれない」

「落ち着けって、飛」簡雍は捲したてる張飛を宥めてから、考え込む劉備の代わりに傍の田豫を省みて「どうだい、田君でんくんは」

 と茶化した。そういう癖のある男だった。

「私、ですか」田豫は多少狼狽してから「阿飛(張飛)と同じく、信ずることは難しいです」

 と静かに答えた。

「烏丸は古より流浪を繰り返して来た生き物です。祖たる東胡族が匈奴に滅ぼされて以降、まず匈奴に服従し、匈奴が衰えるとこれを討ち、光武帝が天命を取り戻して以降は漢に従い、時に鮮卑匈奴と組み反乱を起こし、またある時は漢に降り——そうして彼らは、強き者に従って生き残って来たのです。投降が真であったところで、自らの親兄弟でさえ殺すけだものを、飼い慣らせるとは思えません」

 私情を挟まぬ田豫の言葉には、北地で獣と接してきた人間ならではの確かな経験に基づく重みがあった。そしてそれは、獣を飼い慣らすことなどできぬという点で、やはり烏丸と争い続けた劉備の持つ見解と似通っていた。だが

「会うぞ、俺は」

 劉備が云い、田豫が目を見開いた。見解は似ていた、異なるのは立場と生き方だった。劉備は立ち上がったが、酷い目眩に襲われ

「うっ」

 と一声呻いて倒れ伏した。痛みが鋭い刃となり、左から右、腕から肩、頭のてっぺんから爪先まで広がって全身を何度も斬りつけた。額を地に擦り付け、一言の弱音も漏らさず惨たらしい時間を耐え抜く中、劉備は逆さまの視界に映る兵卒然とした己の身体の、そのあちこちに刻まれた生傷と腹に巻かれた血止めの布を見た。そして気付かぬふりをした。駆け寄る皆を押しのけて、

「長生、来い」

 と、天幕の柱にもたれる関羽を呼んだ。

「死に損ないの面倒を見る気はないぞ、俺は」

「当たり前だ。大将が、誰ぞの手なんざ借りて歩けるか」

 関羽は気怠げに首を傾け、それから暫く虚空を見つめて、のそりと柱から背を引き離した。困憊こんぱいとして重苦しい雰囲気の中で、唯一常時と変わらぬ彼の様子を見て

——いっそ、二人で烏丸の野営地へ乗り込もう。

 と劉備は考えた。不意をついて少しでも対話の優位に立つのだ。無茶だと己でも解っていた。だがどのみち兵力を補充せずして先は無い。生き延びるため、けだものと呼ばれる者たちへ、牙を剥いて喰らいつかねばならぬのだ、自分たちは。だから劉備にとって、共に行くのは関羽で無くてはならなかった。獣に真っ向から立ち向かえるのは獣だけだ。そう思っていた。

 道徳でも理性でもない、研ぎ澄まされた嗅覚と常軌を逸した意地だけが、今の劉備を支えていた。

 劉備はすぐさま張飛らの手を借り身嗜みを整えると、己の足で天幕から出た。傷の具合を誰にも悟られぬためである。外気がかわごろもの上から身体を冷やし、白い吐息が夜闇に消えた。

 あちこちに横たわる怪我人の呻き声が周辺に絶えず反響している。彼らの泥血にまみれ人相すら定かでない顔、青白い手足の先端、痙攣するよう引っ切り無しに上下する土色の胸……。苦悶に喘ぐ肉の数々を篝火が照らし、背後から迫り来る黄泉の気配が項垂れる人間たちを苛んでいる。劉備にはそれが、生家を捨てた後の己と重なって思えた。中山から己に追従して来た者、劉子平の私兵ながら此処に残る者——そのほとんどが身寄りの無い人間たちであった。

 故郷の土に背を向けさすらい、血族という、漢人にとって最も身近で普遍的な社会単位から逸脱したものたち。己の、そして彼らの前に横たわる辛苦の道を思いながら、劉備は己に問いかけた。果たして彷徨うことは哀れなのだろうか。形あるものから逸れるのは、間違ったことをしたからなのか。否。孔子は官位を求め彷徨ったが、信念を貫き通して無冠の王と呼ばれた。形のある王よりも、無冠の王はずっと高尚な存在なのだ。劉備は己に云い聞かせ、

「お前ら」と、手下にも呼びかけた。「今ここに残るのは、たった三百人足らずだ。だがそれでも、俺は損をしたとは思っていない。戦を恐れる兵など糞の役にも立たん、この場にいるお前たちこそ真の精兵だ」

 それでも息を吹き返す者はごく少数しかいなかったから、官軍にも見劣りしない、と劉備は声高らかに付け加えた。その言葉で十数人が顔を上げた。

——そうだ、その顔だ。

 と劉備は念じた。俺は高潔な王だ、それに従うお前たちも高潔な民だ。だから胸を張れ。胸を張って生きて、そして理想のために死ね。そう心の中で叫んだ。

「弱兵が失せ全てが精兵となった。刃が削られ鋭さを増すように、俺たちはこの戦で強くなった。故に嘆くな。ここで全てを投げ出せば、俺たちは賊と変わらない。傷が何だ、痛みが何だ、俺はこうして立っている。お前たちも残っている。戦えぬ理由がどこにある。そうやって俺たちは生きて来た。金、居場所、誇り、失ったものを取り戻すためにだ!」

 大敗し多くの兵を失った今、劉備にとって己の役目は火を見るより明らかだった。逃げ出した者は死ねば良い。しかし残った者は紛れもない、己の民だ。強き魂を持ちながら、寄る辺を求める徒であるのだ。だから今、劉備は鬼神にならねばならなかった。動揺も憔悴も無い、勝ち負けを超越した凄絶なる鬼神——例えば、関羽のように。ともかく劉備は鬼神でなく、四百年前の鬼神の血を僅かに継いだ人間の、この国に数万は居るその内の一人に入るかどうかも定かでなかったが、今この瞬間だけはそう見られねばならなかった。

 劉備は拳を、天に向かって突き上げた。篝火を受けて指輪が煌めいた。

「いいかお前ら、男たるもの、救いへの割符は己で掴め! そいつを忘れん限り、俺が必ずお前達を、陽の光の拝める場所へ連れて行ってやる!」

 煌めきは冬の星に似て、鮮やかな光芒を道のように伸ばした。道は劉備と集衆の全てを繋いだ。一人が、拳を突き上げる。二人。五人、二十、五十、百……突き上げて、開いて、両掌を劉備ただ独りへ向けた。掌は何度も開閉した、溺者が掴むものを探るようなその仕草は、太古から繰り返されてきた、天への祈りによく似ていた。劉備は吼えた。吼えたのは一度だけだったが、続く手下が何度も繰り返し吼えたので、雄叫びは熱の渦のように途切れることなく大地を揺らした。

 拳を下ろし、肌に血の這う感触を覚えながら、劉備は陣営の端を見た。胡服を着て額を剃り上げた烏丸の使者が、手下に囲まれ二人立っている。

 青ざめ、おぞましいものを見たような顔をする男たちへ、劉備は遠く不敵に笑いかけた。

「赤龍の末裔だからな、俺は」

 縋れるものはもう、それしか残っていなかったのだ。



 劉備と関羽は逃亡兵の一団に紛れると、烏丸の使者と共に陣営を出た。防寒用の酒を口に含んで夜番を続ける簡雍の傍ら、

「憲和兄、悔しいよ。俺は」

 ずっと座り込んで、ふたりの去った方を見つめていた張飛がぽつりと云った。簡雍も同じ方を見、やはり止めるべきだったのかと考えた。張飛も同じことを考えているのだろうか。それともその悔しさは、劉備の伴った護衛が関羽独りであったことにも基づいているのか。簡雍は問うつもりは無かった。ただ張飛の頭をがしがしやって

「だいじょぶだ」と根拠のない気休めを述べた。「玄徳も云ってたろ。俺たちにはまだ先があんだ。だから生き延びて、それから強くなりゃいいさ」

 簡雍に云えるのはそれだけだった。そして返事は無かった。夜空を仰ぐと星々が刺すように輝いて美しかった。寄る辺を得て安堵に眠る人々の、いびきと衣擦れの音が時折聞こえる陣内に、自らの幼さと弱さを悔いる、張飛の啜り泣きがこだましていた。

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